福翁自伝 / 老余の半生・病に媚びず
横浜の女医ドクトル・シモンズの説に、何でも肌に着くものはフラネルにせよと云うから、シャツも股引もフラネルで拵え、足袋の裏にもフラネルを着けさせて全身を纏うて居た所が、頓と効能が見えぬ。ドウかすると風を引て悪寒を催して熱が昇る。毎度の事で、凡そ二年余り三年になっても同様であるから、或日私が大に奮発して、是れは医師の命令に従い、余り病気を大切にして、云わば病に媚るようなものだ。此方から媚るから病は段々付揚る。自分の身体には自分の覚えがある。真実の病中には固より医命に服することなれども、今日は病後の摂生より外に要はないから、自分で摂生を試みましょう。抑も自分の本は田舎士族で、少年のとき如何なる生活して居たかと云えば、麦飯を喰い唐茄子の味噌汁を啜り、衣服は手織木綿のツンツルテンを着て、フラネルなんぞ目に見たこともない。この田舎者が開国の風潮に連れ東京に住居して、当世流に摂生も可笑しい。田舎者の身体の方が驚いて仕舞う。即ち今日風を引たり熱が出たりしてグヅ/\して居るのは摂生法の上等に過る誤であるから、直に前非を改めると申して、その日からフラネルのシャツも股引も脱ぎ棄てゝ仕舞て、唯の木綿の襦袢に取替え、ストーブも余りに焚かぬようにして、洋服は馬に乗る時計り、騎馬の服と定めて、不断は純粋の日本の着物を着て、寒い風が吹通しても構わず家にも居れば外にも出る。唯食物ばかりを西洋流に真似て好き品を用い、その他は一切むかしの田舎士族に復古して、ソレから運動には例の米搗薪割に身を入れて、少年時代の貧乏世帯と同じようにして毎日汗を出して働いて居る中に、次第に身体が丈夫になって、風も引かず発熱もせぬようになって来ました。私の身の丈けは五尺七寸三、四分、体量は十八貫目足らず。年の頃十八、九の時から六十前後まで増減なし、十八貫を出たこともなければ十七貫に下たこともない。随分調子の宜しいその身体が、病後は十五貫目にまで減じて二、三年悩んだが、この田舎流の摂生法でチャンと旧の通りに復して、その後六十五歳の今日に至り今でも十七貫五百目より少なくはない。扨私が考えるに右の田舎摂生が果して実効を奏したのか、又は病の回復期が自然に来た処で偶然にも摂生法を改めたのか、ソレは何とも判断が付かぬ。兎に角に生理上必要の処に少し注意さえすれば、田舎風の生活も悪くないと云うこと丈けは確かに分る。但し肌に寒風の吹通しが有益であるか、又は外の摂生を以て体力が強くなって、実際害に為るべき寒風にも能く抵抗して之に堪うるのであるか、即ち寒風その物は薬に非ず、寒風をも犯して無頓着と云うその全般の生活法が有益であるか、凡そこの種の関係は医学の研究すべき問題と思います。ソレは扨置き、私の摂生は明治三年、三十七歳大病の時から一面目を改め、書生時代の乱暴無茶苦茶、殊に十年間鯨飲の悪習を廃して、今日に至るまで前後凡そ四十年になりますが、この四十年の間にも初期は文事勉強の余暇を偸んで運動摂生したものが、次第に老却するに従い今は摂生を本務にしてその余暇に文を勉めることにしました。
書き下し
横浜の女医ドクトル・シモンズの説に、何でも肌に着くものはフラネルにせよと云うから、シャツも股引もフラネルで拵え、足袋の裏にもフラネルを着けさせて全身を纏うて居た所が、頓と効能が見えぬ。ドウかすると風を引て悪寒を催して熱が昇る。毎度の事で、凡そ二年余り三年になっても同様であるから、或日私が大に奮発して、是れは医師の命令に従い、余り病気を大切にして、云わば病に媚るようなものだ。此方から媚るから病は段々付揚る。自分の身体には自分の覚えがある。真実の病中には固より医命に服することなれども、今日は病後の摂生より外に要はないから、自分で摂生を試みましょう。抑も自分の本は田舎士族で、少年のとき如何なる生活して居たかと云えば、麦飯を喰い唐茄子の味噌汁を啜り、衣服は手織木綿のツンツルテンを着て、フラネルなんぞ目に見たこともない。この田舎者が開国の風潮に連れ東京に住居して、当世流に摂生も可笑しい。田舎者の身体の方が驚いて仕舞う。即ち今日風を引たり熱が出たりしてグヅ/\して居るのは摂生法の上等に過る誤であるから、直に前非を改めると申して、その日からフラネルのシャツも股引も脱ぎ棄てゝ仕舞て、唯の木綿の襦袢に取替え、ストーブも余りに焚かぬようにして、洋服は馬に乗る時計り、騎馬の服と定めて、不断は純粋の日本の着物を着て、寒い風が吹通しても構わず家にも居れば外にも出る。唯食物ばかりを西洋流に真似て好き品を用い、その他は一切むかしの田舎士族に復古して、ソレから運動には例の米搗薪割に身を入れて、少年時代の貧乏世帯と同じようにして毎日汗を出して働いて居る中に、次第に身体が丈夫になって、風も引かず発熱もせぬようになって来ました。私の身の丈けは五尺七寸三、四分、体量は十八貫目足らず。年の頃十八、九の時から六十前後まで増減なし、十八貫を出たこともなければ十七貫に下たこともない。随分調子の宜しいその身体が、病後は十五貫目にまで減じて二、三年悩んだが、この田舎流の摂生法でチャンと旧の通りに復して、その後六十五歳の今日に至り今でも十七貫五百目より少なくはない。扨私が考えるに右の田舎摂生が果して実効を奏したのか、又は病の回復期が自然に来た処で偶然にも摂生法を改めたのか、ソレは何とも判断が付かぬ。兎に角に生理上必要の処に少し注意さえすれば、田舎風の生活も悪くないと云うこと丈けは確かに分る。但し肌に寒風の吹通しが有益であるか、又は外の摂生を以て体力が強くなって、実際害に為るべき寒風にも能く抵抗して之に堪うるのであるか、即ち寒風その物は薬に非ず、寒風をも犯して無頓着と云うその全般の生活法が有益であるか、凡そこの種の関係は医学の研究すべき問題と思います。ソレは扨置き、私の摂生は明治三年、三十七歳大病の時から一面目を改め、書生時代の乱暴無茶苦茶、殊に十年間鯨飲の悪習を廃して、今日に至るまで前後凡そ四十年になりますが、この四十年の間にも初期は文事勉強の余暇を偸んで運動摂生したものが、次第に老却するに従い今は摂生を本務にしてその余暇に文を勉めることにしました。
現代語訳
横浜の女医ドクトル・シモンズの説に、何でも肌に着けるものはフランネルにせよというので、シャツも股引もフランネルで作り、足袋の裏にもフランネルをつけさせて、全身を包んでいたところ、まったく効き目が見えません。どうかすると風邪を引いて悪寒がして熱が上がる。毎度のことで、およそ二年余り、三年になっても同様なので、ある日、私は大いに奮発して、これは医師の命令に従い、あまり病気を大切にして、いわば病に媚びるようなものだ。こちらから媚びるから、病はだんだんつけあがる。自分の身体のことは自分に覚えがある。本当の病中にはもとより医者の命に従うことですが、今日は病後の摂生のほかに要はないので、自分で摂生を試みましょうと言いました。そもそも自分の本来は田舎士族で、少年のときどんな生活をしていたかと言えば、麦飯を食い、唐茄子の味噌汁をすすり、衣服は手織り木綿のつんつるてんを着て、フランネルなんぞ目に見たこともない。この田舎者が開国の風潮につれて東京に住み、当世流に摂生するのもおかしい。田舎者の身体のほうが驚いてしまう。つまり今日、風邪を引いたり熱が出たりしてぐずぐずしているのは、摂生法が上等すぎるという誤りだから、すぐに前の非を改めると言って、その日からフランネルのシャツも股引も脱ぎ捨て、ただの木綿の襦袢に取り替え、ストーブもあまり焚かないようにし、洋服は馬に乗る時だけ、騎馬の服と定めて、普段は純粋な日本の着物を着て、寒い風が吹き通しても構わず、家にいても外に出ても同じにしました。ただ食べ物ばかりは西洋流に真似て良い品を用い、そのほかは一切昔の田舎士族に復古して、それから運動には例の米搗き薪割りに身を入れて、少年時代の貧乏暮らしと同じように、毎日汗を流して働いているうちに、次第に身体が丈夫になって、風邪も引かず発熱もしなくなってきました。 私の身の丈は五尺七寸三、四分、体重は十八貫目足らず。年の頃十八、九のときから六十前後まで増減がなく、十八貫を超えたこともなければ十七貫に下がったこともありません。随分調子のよいその身体が、病後は十五貫目にまで減って、二、三年悩みましたが、この田舎流の摂生法でちゃんと元のとおりに戻り、その後六十五歳の今日に至り、今でも十七貫五百目より少なくはありません。さて私が考えるに、右の田舎摂生が果たして効果を奏したのか、それとも病の回復期が自然に来たところで偶然にも摂生法を改めたのか、それは何とも判断がつきません。とにかく生理上必要なところに少し注意さえすれば、田舎風の生活も悪くないということだけは確かに分かります。ただし肌に寒風が吹き通すことが有益なのか、それとも別の摂生で体力が強くなって、実際に害になるはずの寒風にもよく抵抗して耐えているのか、つまり寒風その物は薬ではなく、寒風をも犯して無頓着という全般の生活法が有益なのか、おおよそこの種の関係は医学の研究すべき問題だと思います。 それはさておき、私の摂生は明治三年、三十七歳の大病のとき一面目を改め、書生時代の乱暴無茶苦茶、ことに十年間の鯨飲の悪習を廃して、今日に至るまで前後およそ四十年になりますが、この四十年の間にも、初期は文事の勉強の余暇を盗んで運動し摂生したものが、次第に老いるにつれて、今は摂生を本務にして、その余暇に文を勉めることにしました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
福翁自伝・老余の半生・身体の養生扨又心の養生法は右の如しとして、身の養生は如何だと申すに、私の身に極めて宜しくない極めて赤面すべき悪癖は、幼少の時から酒を好む一条で、然かも図抜けの大酒、世間には大酒をしても必ずしも酒が旨いとは思わず、飲んでも飲まなくても宜いと云う人があるが、私は左様でない。私の口には酒が旨くて多く飲みたいその上に、上等の銘酒を好んで、酒の良否が誠に能く分る。先年中一樽の価七、八円のとき、上下五十銭も相違すれば、先ず価を聞かずにチャンとその風味を飲み分けると云うような黒人で、その上等の酒をウンと飲んで、肴も良い肴を沢山喰い、満腹飲食した跡で飯もドッサリ給べて残す所なしと云う、誠に意地の穢ない所謂牛飲馬食とも云うべき男である。尚おその上に、この賤しむべき男が酒に酔て酔狂でもすれば自から警めると云うこともあろうが、大酒の癖に酒の上が決して悪くない。酔えば唯大きな声をして饒舌るばかり、遂ぞ人の気になるような忌がるような根性の悪いことを云て喧嘩をしたこともなければ、上戸本性真面目になって議論したこともないから、人に邪魔にされない。是れが却て不幸で、本人は宜い気になって、酒とさえ云えば一番先きに罷出て、人の一倍も二倍も三倍も飲んで天下に敵なしなんて得意がって居たのは、返す/\も愧かしい事であるが、酒の事を除てその外になれば、私は少年の時から宜い加減な摂生家と云ても宜しい。何も別段に摂生をしようなんてソンな六かしい考のあろうようもないが、日に三度の食事の外にメッタに物を食わない。或は母が給べさせなかったのか知らぬが、幼少から癖になって間の食物が欲しくない。殊に晩食の後、夜になれば如何なる好物があっても口に入れることが出来ない。例えば親類の不幸に通夜するとか、又は近火の騒ぎに夜を更かすとかして、自然に其処に食物が出て来ても食う気にならぬ。是れは母に仕込まれた習慣が生涯残て居るのでしょう。摂生の為めには最も宜しい習慣です。又私は随分気の長い方でない、何事もテキパキ早く遣ると云う風で、時としては人に笑われるような事も多い。所が三度の食事となると丸で別人のように変化して、何としても早く食うことが出来ない。子供の時に早飯と何とやらは武士の嗜なんと云て、人に悪く云われた事もあり、又自分でも早く食いたいと思て居たが、何分にも頬張て生噛にして食うことが出来ない。その後西洋流の書を読んで生噛の宜しくない事を知て、始めて是れは却て自分の悪い癖が宜い事になったと合点して大きに悦び、爾来憚る所もなくゆる/\食事をして、凡そ人の一、二倍も時を費します。是れも摂生の為めに甚だ宜しい。
-
福翁自伝・老余の半生・身体運動ソレから私の身体運動は如何だとその話もしましょう。幼年の時から貧家に生れて身体の運動はイヤでもしなければならぬ。ソレが習慣になって生涯身体を動かして居ます。少年のとき荒仕事ばかりして、冬になるとが切れて血が出る、スルと木綿糸での切口を縫て熱油を滴らして手療治をして居た事を覚えて居る。江戸に来てから自然ソンナことが無くなったから、或る時、 鄙事多能年少春 立身自笑却壊身 浴余閑坐肌全浄 曾是綿糸縫人 と云う詩のようなものを記した事がある。又藩中に居て武芸をせねば人でないように風が悪いから、中村庄兵衛と云う居合の先生に就て少し稽古したから、その後、洋学修業に出ては、国に居るときのように荒い仕事をしないから、始終居合刀を所持して、大阪の藩の倉屋敷に居るとき、又緒方の塾でも、折節はドタバタ遣て居ました。夫れから江戸に来て世間に攘夷論が盛になってから居合は罷めにして、兼て腕に覚えのある米搗を始めて、折々遣て居た所が、明治三年、大病を煩うて、病後何分にも旧のようにならぬ。その年か翌年か岩倉大使が欧行に付き、親友の長与専斎も随行を命ぜられ、近々出立とて私方に告別に参り、キニーネ一オンスのビンを懐中から出して、「君の大病全快はしたが、来年その時節に為ると何か故障を生じて薬品の必要があるに違いない。是れは塩酸キニーネ最上の品で、薬店などにはない。之を遣るから大事に貯えて置け。僕の留守中に思当ることがあろうと云うのは実に朋友の親切なれども、私は却て喜ばぬ。「馬鹿なことを云て呉れるな。病気全快の僕の身に薬なんぞ要るものか。面白くもない。僕は貰わないと云うと、長与が笑て、「知らぬ事を云うな。屹と役に立つことがあるから黙て取て置けと云て、その薬を私に渡して別れた所が、果して然り、長与の外行留主中、毎度発熱して、夫れキニーネ又キニーネとて、トウ/\一オンスの品を飲み尽したと云うような容体で、何分にも力が回復しない。
-
福翁自伝・老余の半生・居合、米搗今でも宵は早く寝て朝早く起き、食事前に一里半ばかり芝の三光から麻布古川辺の野外を少年生徒と共に散歩して、午後になれば居合を抜たり米を搗たり、一時間を費して晩の食事も、チャンと規則のようにして、雨が降ても雪が降ても年中一日も欠かしたことはない。去年の晩秋戯れに、 一点寒鐘声遠伝 半輪残月影猶鮮 草鞋竹策侵秋暁 歩自三光渡古川 なんて詩を作りましたが、この運動摂生が何時まで続くことやら、自分で自分の体質の強弱、根気の有無を見て居ます。
-
福翁自伝・老余の半生・漸く酒を節すソレカラ又酒の話になって、私が生得酒を好んでも、郷里に居るとき少年の身として自由に飲まれるものでもなし、長崎では一年の間、禁酒を守り、大阪に出てから随分自由に飲むことは飲んだが、兎角銭に窮して思うように行かず、年二十五歳のとき江戸に来て以来、嚢中も少し温かになって酒を買う位の事は出来るようになったから、勉強の傍ら飲むことを第一の楽みにして、朋友の家に行けば飲み、知る人が来ればスグに酒を命じて、客に勧めるよりも主人の方が嬉しがって飲むと云うような訳けで、朝でも昼でも晩でも時を嫌わず能くも飲みました。夫れから三十二、三歳の頃と思う。独り大に発明して、斯う飲んでは迚も寿命を全くすることは叶わぬ、左ればとて断然禁酒は、以前に覚えがある、唯一時の事で永続きが出来ぬ、詰り生涯の根気でそろ/\自から節するの外に道なしと決断したのは、支那人が阿片を罷めるようなもので随分苦しいが、先ず第一に朝酒を廃し、暫くして次ぎに昼酒を禁じたが、客のあるときは矢張り客来を名にして飲んで居たのを、漸く我慢して、後にはその客ばかりに進めて自分は一杯も飲まぬことにして、是れ丈けは如何やら斯うやら首尾能く出来て、サア今度は晩酌の一段になって、その全廃は迚も行われないから、そろ/\量を減ずることにしようと方針を定め、口では飲みたい、心では許さず、口と心と相反して喧嘩をするように争いながら、次第々々に減量して、稍や穏になるまでには三年も掛りました、と云うのは私が三十七歳のとき酷い熱病に罹て、万死一生の幸を得たそのとき、友医の説に、是れが以前のような大酒では迚も助かる道はないが、幸に今度の全快は近年節酒の賜に相違ないと云たのを覚えて居るから、私が生涯鯨飲の全盛は凡そ十年間と思われる。その後酒量は減ずるばかりで増すことはない。初めの間は自から制するようにして居たが、自然に減じて飲みたくも飲めなくなったのは、道徳上の謹慎と云うよりも年齢老却の所為でしょう。兎に角に人間が四十にも五十にもなって酒量が段々強くなって、遂には唯の清酒は利きが鈍いなんてブランデーだのウ※スキーだの飲む者があるが、アレは宜くない。苦しかろうが罷めるが上策だ。私の身に覚えがある。私のような無法な大酒家でも、三十四、五歳のときトウ/\酒慾を征伐して勝利を得たから、況して今の大酒家と云ても私より以上の者は先ず少ない、高の知れた酒客の葉武者だ、そろ/\遣れば節酒も禁酒も屹と出来ましょう。
-
福翁自伝・品行家風・体育を先にす扨又子供の教育法に就ては、私は専ら身体の方を大事にして、幼少の時から強いて読書などさせない。先ず獣身を成して後に人心を養うと云うのが私の主義であるから、生れて三歳五歳まではいろはの字も見せず、七、八歳にもなれば手習をさせたりさせなかったり、マダ読書はさせない。夫れまでは唯暴れ次第に暴れさせて、唯衣食には能く気を付けて遣り、又子供ながらも卑劣な事をしたり賤しい言葉を真似たりすれば之を咎るのみ、その外は一切投遣りにして自由自在にして置くその有様は、犬猫の子を育てると変わることはない。即ち是れが先ず獣身を成すの法にして、幸に犬猫のように長成して無事無病、八、九歳か十歳にもなればソコで始めて教育の門に入れて、本当に毎日時を定めて修業をさせる。尚おその時にも身体の事は決して等閑にしない。世間の交母は動もすると勉強々々と云て、子供が静にして読書すれば之を賞める者が多いが、私方の子供は読書勉強して遂ぞ賞められたことはないのみか、私は反対に之を止めて居る。小供は既に通り過ぎて今は幼少な孫の世話をして居るが、矢張り同様で、年齢不似合に遠足したとか、柔術体操がエラクなったとか云えば、褒美でも与えて賞めて遣るけれども、本を能く読むと云て賞めたことはない。既に二十年前の事です。長男一太郎と次男捨次郎と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させて居た処が兎角胃が悪くなる。ソレから宅に呼返して色々手当すると次第に宜くなる。宜くなるから又入れると又悪くなる。到頭三度入れて三度失敗した。その時には田中不二麿と云う人が文部の長官をして居たから、田中にも毎度話をしました。私方の小供を予備門に入れて実際の実験があるが、文部学校の教授法をこのまゝにして遣て行けば、生徒を殺すに極て居る。殺さなければ気狂いになるか、然らざれば身心共に衰弱して半死半生の片輪者になって仕舞うに違いない。丁度この予備門の修業が三、四年かゝる、その間に大学の法が改まるだろうと思て、ソレを便りに子供を予備門に入れて置くが、早く改正して貰いたい。この儘で置くならば東京大学は少年の健康屠殺場と命名して宜しい。早々教授法を改めて貰いたいと、懇意の間柄で遠慮なく話はしたが、何分埒が明かず、子供は相替らず三ヶ月遣て置けば三ヶ月引かして置かなければならぬと云うような訳けで、何としても予備門の修業に堪えず、私も遂に断念して仕舞うて、夫れから此方の塾(慶應義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて、亜米利加に遣て彼の大学校の世話になりました。私は日本大学の教科を悪いと云うのではない、けれども教育の仕様が余り厳重で、荷物が重過ぎるのを恐れて文部大学を避けたのです。その通りで今でも説は変えない、何としても身体が大事だと思います。
-
福翁自伝・緒方の塾風・塾生の勉強(2)それから緒方の塾に這入てからも私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分に若し酒があれば酒を飲で初更に寝る。一寝して目が覚ると云うのが今で云えば十時か十時過、それからヒョイと起きて書を読む。夜明まで書を読んで居て、台所の方で塾の飯炊がコト/\飯を焚く仕度をする音が聞えると、それを相図に又寝る。寝て丁度飯の出来上った頃起きて、その儘湯屋に行て朝湯に這入て、それから塾に帰て朝飯を給べて又書を読むと云うのが、大抵緒方の塾に居る間殆んど常極りであった。勿論衛生などゝ云うことは頓と構わない。全体は医者の塾であるから衛生論も喧しく言いそうなものであるけれども、誰も気が付かなかったのか或は思出さなかったのか、一寸でも喧しく云たことはない。それで平気で居られたと云うのは、考えて見れば身体が丈夫であったのか、或は又衛生々々と云うようなことを無闇に喧しく云えば却て身体が弱くなると思て居たのではないかと思われる。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る