福翁自伝 / 老余の半生・政治の診察医にして開業医に非ず
とは云うものゝ、私が政治の事を全く知らぬではない、口に談論もすれば紙に書きもする。但し談論書記する計りで、自からその事に当ろうと思わぬその趣は、恰も診察医が病を診断してその病を療治しようとも思わず、又事実に於て療治する腕もないようなものでしょうが、病床の療治は皆無素人でも、時としては診察医も役に立つことがある。ダカラ世間の人も私の政治診断書を見て、是れは本当の開業医で療治が出来るだろう、病家を求めるだろうと推察するのは大間違いの沙汰です。
書き下し
とは云うものゝ、私が政治の事を全く知らぬではない、口に談論もすれば紙に書きもする。但し談論書記する計りで、自からその事に当ろうと思わぬその趣は、恰も診察医が病を診断してその病を療治しようとも思わず、又事実に於て療治する腕もないようなものでしょうが、病床の療治は皆無素人でも、時としては診察医も役に立つことがある。ダカラ世間の人も私の政治診断書を見て、是れは本当の開業医で療治が出来るだろう、病家を求めるだろうと推察するのは大間違いの沙汰です。
現代語訳
とはいうものの、私が政治のことをまったく知らないわけではありません。口で議論もすれば、紙に書きもします。ただし議論し書き記すだけで、自分からその事に当たろうとは思わない。その趣は、ちょうど診察医が病気を診断しても、その病気を治療しようとは思わず、また実際に治療する腕もないようなものでしょう。しかし、病床の治療は皆素人でも、ときには診察医も役に立つことがあります。だから世間の人が私の政治診断書を見て、これは本当の開業医で治療ができるだろう、病家を求めているのだろうと推察するのは、大間違いです。
解説
福沢は自分を、政治の診察医であって開業医ではないと位置づけます。診断はするが、自ら治療に当たる気も腕もない。それでも診断が役に立つ場面はある、という控えめな自己規定です。当時の彼の論説が、野心の表れと疑われたことへの返答でもあります。評論と実行は別の役割であり、評論者が実行の座を求めるとは限らない。この線引きは、コンサルタントや相談役、あるいは現場に口を出す立場の人にとって、自分の役割を見直す鏡になります。
この章句が説くこと
診察医開業医政治診断書評論役割野心
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