福翁自伝 / 老余の半生・明治十四年の政変(1)
この事に就て一寸と語りますが、明治十四年の頃、日本の政治社会に大騒動が起て、私の身にも大笑いな珍事が出来ました。明治十三年の冬、時の執政大隈、伊藤、井上の三人から私方に何か申して参て、或る処に面会して見ると、何か公報のような官報のような新聞紙を起すから私に担任して呉れろと云う。一向趣意が分らぬから先ず御免と申して去ると、その後度々人の往復を重ねて話が濃くなり、とう/\仕舞に、政府はいよ/\国会を開く積りでその用意の為めに新聞紙も起す事であると秘密を明かしたから、是れは近頃面白い話だ、ソンな事なら考え直して新聞紙も引受けようと凡そ約束は出来たが、マダ何時からと云う期日は定まらずに、そのまゝに年も明けて明治十四年と為り、十四年も春去秋来、頓と埒の明かぬ様子なれども、此方も左まで急ぐ事でないから打遣て置く中に、何か政府中に議論が生じたと見え、以前至極同主義でありし隈伊井の三人が漸く不和になって、その果ては大隈が辞職することになりました。扨大隈の辞職は左まで驚くに足らず、大臣の進退は毎度珍らしくもない事であるが、この辞職の一条が福澤にまで影響して来たのが大笑いだ。当時の政府の騒ぎは中々一通りでない。政府が動けば政界の小輩も皆動揺して、随て又種々様々の風聞を製造する者も多いその風聞の一、二を申せば、全体大隈と云うは専横な男で、様々に事を企てるその後には、福澤が居て謀主になってるその上に、三菱の岩崎弥太郎が金主になって既に三十万円の大金を出したそうだなんて、馬鹿な茶番狂言の筋書見たような事を触廻わして、ソレから大隈の辞職と共に政府の大方針が定まり、国会開設は明治二十三年と予約して色々の改革を施す中にも、従前の教育法を改めて所謂儒教主義を複活せしめ、文部省も一時妙な風になって来て、その風が全国の隅々までも靡かして、十何年後の今日に至るまで政府の人もその始末に当惑して居るでしょう。
新字:この事に就て一寸と語りますが、明治十四年の頃、日本の政治社会に大騒動が起て、私の身にも大笑いな珍事が出来ました。明治十三年の冬、時の執政大隈、伊藤、井上の三人から私方に何か申して参て、或る処に面会して見ると、何か公報のような官報のような新聞紙を起すから私に担任して呉れろと云う。一向趣意が分らぬから先ず御免と申して去ると、その後度々人の往復を重ねて話が濃くなり、とう/\仕舞に、政府はいよ/\国会を開く積りでその用意の為めに新聞紙も起す事であると秘密を明かしたから、是れは近頃面白い話だ、ソンな事なら考え直して新聞紙も引受けようと凡そ約束は出来たが、マダ何時からと云う期日は定まらずに、そのまゝに年も明けて明治十四年と為り、十四年も春去秋来、頓と埒の明かぬ様子なれども、此方も左まで急ぐ事でないから打遣て置く中に、何か政府中に議論が生じたと見え、以前至極同主義でありし隈伊井の三人が漸く不和になって、その果ては大隈が辞職することになりました。扨大隈の辞職は左まで驚くに足らず、大臣の進退は毎度珍らしくもない事であるが、この辞職の一条が福沢にまで影響して来たのが大笑いだ。当時の政府の騒ぎは中々一通りでない。政府が動けば政界の小輩も皆動揺して、随て又種々様々の風聞を製造する者も多いその風聞の一、二を申せば、全体大隈と云うは専横な男で、様々に事を企てるその後には、福沢が居て謀主になってるその上に、三菱の岩崎弥太郎が金主になって既に三十万円の大金を出したそうだなんて、馬鹿な茶番狂言の筋書見たような事を触廻わして、ソレから大隈の辞職と共に政府の大方針が定まり、国会開設は明治二十三年と予約して色々の改革を施す中にも、従前の教育法を改めて所謂儒教主義を複活せしめ、文部省も一時妙な風になって来て、その風が全国の隅々までも靡かして、十何年後の今日に至るまで政府の人もその始末に当惑して居るでしょう。
書き下し
この事に就て一寸と語りますが、明治十四年の頃、日本の政治社会に大騒動が起て、私の身にも大笑いな珍事が出来ました。明治十三年の冬、時の執政大隈、伊藤、井上の三人から私方に何か申して参て、或る処に面会して見ると、何か公報のような官報のような新聞紙を起すから私に担任して呉れろと云う。一向趣意が分らぬから先ず御免と申して去ると、その後度々人の往復を重ねて話が濃くなり、とう/\仕舞に、政府はいよ/\国会を開く積りでその用意の為めに新聞紙も起す事であると秘密を明かしたから、是れは近頃面白い話だ、ソンな事なら考え直して新聞紙も引受けようと凡そ約束は出来たが、マダ何時からと云う期日は定まらずに、そのまゝに年も明けて明治十四年と為り、十四年も春去秋来、頓と埒の明かぬ様子なれども、此方も左まで急ぐ事でないから打遣て置く中に、何か政府中に議論が生じたと見え、以前至極同主義でありし隈伊井の三人が漸く不和になって、その果ては大隈が辞職することになりました。扨大隈の辞職は左まで驚くに足らず、大臣の進退は毎度珍らしくもない事であるが、この辞職の一条が福澤にまで影響して来たのが大笑いだ。当時の政府の騒ぎは中々一通りでない。政府が動けば政界の小輩も皆動揺して、随て又種々様々の風聞を製造する者も多いその風聞の一、二を申せば、全体大隈と云うは専横な男で、様々に事を企てるその後には、福澤が居て謀主になってるその上に、三菱の岩崎弥太郎が金主になって既に三十万円の大金を出したそうだなんて、馬鹿な茶番狂言の筋書見たような事を触廻わして、ソレから大隈の辞職と共に政府の大方針が定まり、国会開設は明治二十三年と予約して色々の改革を施す中にも、従前の教育法を改めて所謂儒教主義を複活せしめ、文部省も一時妙な風になって来て、その風が全国の隅々までも靡かして、十何年後の今日に至るまで政府の人もその始末に当惑して居るでしょう。
現代語訳
この件について少し語りますが、明治十四年のころ、日本の政治社会に大騒動が起こり、私の身にも大笑いの珍事が起こりました。明治十三年の冬、当時の執政、大隈、伊藤、井上の三人から私のところに何か言ってきて、ある所で面会してみると、公報のような官報のような新聞紙を起こすから、私に担当してくれと言います。さっぱり趣旨が分からないので、まず御免と言って去りましたが、その後たびたび人の往復を重ねて話が濃くなり、ついに最後には、政府はいよいよ国会を開くつもりで、その用意のために新聞紙も起こすのだと、秘密を明かしたので、これは近頃面白い話だ、そういうことなら考え直して新聞紙も引き受けようと、おおよその約束はできましたが、まだいつからという期日は決まらないまま、年も明けて明治十四年となり、十四年も春去り秋来たり、さっぱり埒が明かない様子でしたが、こちらもそれほど急ぐことではないので放っておくうちに、政府の中で何か議論が生じたと見えて、以前はまったく同じ主義だった大隈、伊藤、井上の三人がだんだん不和になり、その果てに大隈が辞職することになりました。 さて、大隈の辞職はそれほど驚くに足りません。大臣の進退は毎度珍しいことではありませんが、この辞職の一件が福澤にまで影響してきたのが大笑いです。当時の政府の騒ぎは並大抵ではありませんでした。政府が動けば政界の小物もみな動揺し、したがってさまざまな風聞をこしらえる者も多く、その風聞の一、二を申せば、そもそも大隈という男は専横な男で、さまざまに事を企てるが、その後ろには福澤がいて謀主になっている、そのうえ三菱の岩崎弥太郎が金主になって、すでに三十万円の大金を出したそうだ、などと、馬鹿げた茶番狂言の筋書きのようなことを触れ回しました。それから大隈の辞職とともに政府の大方針が定まり、国会開設は明治二十三年と予約して、いろいろな改革を施す中にも、従来の教育法を改めて、いわゆる儒教主義を復活させ、文部省も一時妙な風になってきて、その風が全国の隅々までなびき、十何年後の今日に至るまで、政府の人もその始末に困っているでしょう。
解説
この章句が説くこと
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