福翁自伝 / 品行家風・三百何十通の手紙
又親子の間は愛情一偏で、何ほど年を取ても互に理窟らしい議論は無用の沙汰である。是れは私も妻も全く同説で、親子の間を成る丈け離れぬようにする計り。例えば先年、長男次男が六年の間亜米利加に行て居ましたその時には、亜米利加の郵船が一週間に大抵一度、時としては二週間に一度と云う位の往復でしたが、小供両人の在米中、私は何か要用のときは勿論、仮令い用事がなくても毎便必ず手紙を遣らない事はない。六年の間何でも三百何十通と云う手紙を書きましたが、私が手紙を書放にして家内が校合方になって封じて遣るから、両親の親筆に相違ない。彼方の小供両人も飛脚船の来る度に必ず手紙を寄越す。この事は両人出発の節堅く申付て、「留学中手紙は毎便必ず/\出せ、用がなければ用がないと云て寄越せ、又学問を勉強して不死半生の色の青い大学者になって帰て来るより、筋骨逞しき無学文盲なものになって帰て来い、その方が余程悦しい。仮初にも無法な事をして勉強し過ぎるな。倹約は何処までも倹約しろ、けれども健康に係わると云うほどの病気か何かの事に付き、金次第で如何にもなると云うことならば思い切て金を使え、少しも構わぬからと斯う云うのが私の命令で、ソンな事で六年の間学んで二人とも無事に帰て来ました。
書き下し
又親子の間は愛情一偏で、何ほど年を取ても互に理窟らしい議論は無用の沙汰である。是れは私も妻も全く同説で、親子の間を成る丈け離れぬようにする計り。例えば先年、長男次男が六年の間亜米利加に行て居ましたその時には、亜米利加の郵船が一週間に大抵一度、時としては二週間に一度と云う位の往復でしたが、小供両人の在米中、私は何か要用のときは勿論、仮令い用事がなくても毎便必ず手紙を遣らない事はない。六年の間何でも三百何十通と云う手紙を書きましたが、私が手紙を書放にして家内が校合方になって封じて遣るから、両親の親筆に相違ない。彼方の小供両人も飛脚船の来る度に必ず手紙を寄越す。この事は両人出発の節堅く申付て、「留学中手紙は毎便必ず/\出せ、用がなければ用がないと云て寄越せ、又学問を勉強して不死半生の色の青い大学者になって帰て来るより、筋骨逞しき無学文盲なものになって帰て来い、その方が余程悦しい。仮初にも無法な事をして勉強し過ぎるな。倹約は何処までも倹約しろ、けれども健康に係わると云うほどの病気か何かの事に付き、金次第で如何にもなると云うことならば思い切て金を使え、少しも構わぬからと斯う云うのが私の命令で、ソンな事で六年の間学んで二人とも無事に帰て来ました。
現代語訳
またさらに、親子の間は愛情が一途で、どれほど年を取ってもお互いに理屈らしい議論は無用の沙汰です。これは私も妻もまったく同じ説で、親子の間をできるだけ離れないようにするだけです。たとえば先年、長男と次男が六年間アメリカに行っていましたその時には、アメリカの郵船が一週間にたいてい一度、時としては二週間に一度というくらいの往復でしたが、子供両人の在米中、私は何か要用のときはもちろん、たとえ用事がなくても毎便必ず手紙をやらないことはありませんでした。六年の間、何でも三百何十通という手紙を書きましたが、私が手紙を書き放しにして、家内が校正役になって封じてやりますから、両親の直筆に違いありません。あちらの子供両人も飛脚船の来るたびに必ず手紙を寄越しました。このことは両人出発の際に堅く申し付けて、「留学中、手紙は毎便必ず出せ、用がなければ用がないと言って寄越せ、また学問を勉強して、不死半生の色の青い大学者になって帰ってくるよりも、筋骨たくましい無学文盲の者になって帰ってこい。その方がよほど喜ばしい。かりそめにも無法なことをして勉強しすぎるな。倹約はどこまでも倹約しろ。けれども健康にかかわるというほどの病気か何かのことについて、金次第でどうにかなるということなら、思い切って金を使え、少しも構わぬ」と、こう言うのが私の命令で、そんなことで六年の間学んで、二人とも無事に帰ってきました。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・品行家風・子供の活動を妨げず養育法は着物よりも食物の方に心を用い、粗服はさせても滋養物は屹と与えるようにして、九人とも幼少の時から体養に不足はない。又その躾方は温和と活溌とを旨とし、大抵の処までは子供の自由に任せる。例えば風呂の湯を熱くして無理に入れるような事はせず、据風呂の側に大きな水桶を置て、子供の勝手次第に、ぬるくも熱くもさせる。全く自由自在のようなれども、左ればとて食物を勝手に任せて何品でも喰い次第にすると云う訳けではない。又子供の身体の活溌を祈れば室内の装飾などは迚も手に及ばぬ事と覚悟して、障子唐紙を破り諸道具に疵付けても先ず見逃がしにして、大抵な乱暴には大きな声をして叱ることはない。酷く剛情を張るような事があれば、父母の顔色を六かしくして睨む位が頂上で、如何なる場合にも手を下して打たことは一度もない。又親が実子に向ても嫁に接しても、又兄姉が弟妹に対しても名を呼棄にせず、家の中に厳父慈母の区別なく、厳と云えば父母共に厳なり、慈と云えば父母共に慈なり、一家の中は丸で朋友のようで、今でも小さい孫などは、阿母さんはどうかすると怖いけれども、お祖父さんが一番怖くないと云て居る。世間並にすると少し甘いように見えるが、ソレでも私方の孫子に限て別段に我儘でもなし、長少戯れながら長者の真面目に言う事は能く聞て逆う者もないから、余り厳重にせぬ方が利益かと思われる。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・子供の学資金を謝絶す(3)幸にして金が出来れば教育して遣る、出来なければ無学文盲のまゝにして打遣て置くと、私の心に決断して、扨先方の人は誠に厚意を以て話して呉れたので、固より私の心事を知る訳けもないから、体能く礼を述べて断りましたが、その問答応接の間、私は眼前に子供を見てその行末を思い、又顧みて自分の身を思い、一進一退これを決断するには随分心を悩ましました。その話は相済み、その後も相替らず真面目に家を治めて著書飜訳の事を勉めて居ると、存外に利益が多くて、マダその二人の小供が外国行の年頃にならぬ先きに金の方が出来たから、小供を後廻しにして中上川彦次郎を英国に遣りました。彦次郎は私の為めに只た一人の甥で、彼方も亦只た一人の叔父さんで外に叔父はない、私も亦彦次郎の外に甥はないから、先ず親子のようなものです。彼れが三、四年も英国に居る間には随分金も費しましたが、ソレでも後の小供を修業に遣ると云う金はチャンと用意が出来て、二人とも亜米利加に六年ばかり遣て置きました。私は今思い出しても誠に宜い心持がします。能くあの時に金を貰わなかった、貰えば生涯気掛りだが、宜い事をしたと、今日までも折々思い出して、大事な玉に瑾を付けなかったような心持がします。
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福翁自伝・品行家風・体育を先にす扨又子供の教育法に就ては、私は専ら身体の方を大事にして、幼少の時から強いて読書などさせない。先ず獣身を成して後に人心を養うと云うのが私の主義であるから、生れて三歳五歳まではいろはの字も見せず、七、八歳にもなれば手習をさせたりさせなかったり、マダ読書はさせない。夫れまでは唯暴れ次第に暴れさせて、唯衣食には能く気を付けて遣り、又子供ながらも卑劣な事をしたり賤しい言葉を真似たりすれば之を咎るのみ、その外は一切投遣りにして自由自在にして置くその有様は、犬猫の子を育てると変わることはない。即ち是れが先ず獣身を成すの法にして、幸に犬猫のように長成して無事無病、八、九歳か十歳にもなればソコで始めて教育の門に入れて、本当に毎日時を定めて修業をさせる。尚おその時にも身体の事は決して等閑にしない。世間の交母は動もすると勉強々々と云て、子供が静にして読書すれば之を賞める者が多いが、私方の子供は読書勉強して遂ぞ賞められたことはないのみか、私は反対に之を止めて居る。小供は既に通り過ぎて今は幼少な孫の世話をして居るが、矢張り同様で、年齢不似合に遠足したとか、柔術体操がエラクなったとか云えば、褒美でも与えて賞めて遣るけれども、本を能く読むと云て賞めたことはない。既に二十年前の事です。長男一太郎と次男捨次郎と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させて居た処が兎角胃が悪くなる。ソレから宅に呼返して色々手当すると次第に宜くなる。宜くなるから又入れると又悪くなる。到頭三度入れて三度失敗した。その時には田中不二麿と云う人が文部の長官をして居たから、田中にも毎度話をしました。私方の小供を予備門に入れて実際の実験があるが、文部学校の教授法をこのまゝにして遣て行けば、生徒を殺すに極て居る。殺さなければ気狂いになるか、然らざれば身心共に衰弱して半死半生の片輪者になって仕舞うに違いない。丁度この予備門の修業が三、四年かゝる、その間に大学の法が改まるだろうと思て、ソレを便りに子供を予備門に入れて置くが、早く改正して貰いたい。この儘で置くならば東京大学は少年の健康屠殺場と命名して宜しい。早々教授法を改めて貰いたいと、懇意の間柄で遠慮なく話はしたが、何分埒が明かず、子供は相替らず三ヶ月遣て置けば三ヶ月引かして置かなければならぬと云うような訳けで、何としても予備門の修業に堪えず、私も遂に断念して仕舞うて、夫れから此方の塾(慶應義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて、亜米利加に遣て彼の大学校の世話になりました。私は日本大学の教科を悪いと云うのではない、けれども教育の仕様が余り厳重で、荷物が重過ぎるのを恐れて文部大学を避けたのです。その通りで今でも説は変えない、何としても身体が大事だと思います。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・子供の学資金を謝絶す(2)成程是れは宜い話で、此方はモウ実に金に焦れて居るその最中に、二人の子供の洋行費が天から降て来たようなもので、即刻応と返辞をしなければならぬ処だが、私は考えました。待て霎時、どうも爾うでない、抑も乃公が彼の学校の監督をしないと云うものは、為ない所以があって為ないとチャンと説を極めて居る。ソコで今金の話が出て来て、その金の声を聞き前説を変じて学校監督の需に応じようと云えば、前に之を謝絶したのが間違いか、ソレが間違いでなければ今その金を請取るのが間違いである。金の為めに変説と云えば、金さえ見れば何でもすると斯う成らなければならぬ。是れは出来ない。且つ又今日金の欲しいと云うのは何の為めに欲しいかと云えば、小供の為めだ。小供を外国で修業させて役に立つように為よう、学者に為ようと云う目的であるが、子を学者にすると云う事が果して親の義務であるかないか、是れも考えて見なければならぬ。家に在る子は親の子に違いない。違いないが、衣食を授けて親の力相応の教育を授けて、ソレで沢山だ。如何あっても最良の教育を授けなければ親たる者の義務を果さないと云う理窟はない。親が自分に自から信じて心に決して居るその説を、子の為めに変じて進退すると云ては、所謂独立心の居処が分らなくなる。親子だと云ても、親は親、子は子だ。その子の為めに節を屈して子に奉公しなければならぬと云うことはない。宜しい、今後若し乃公の子が金のない為めに十分の教育を受けることが出来なければ、是れはその子の運命だ。
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福翁自伝・品行家風・家に秘密事なし・礼儀足らざるが如し又家の中に秘密事なしと云うのが私方の家風で夫婦親子の間に隠す事はない、ドンな事でも云われないことはない。子供が段々成長して、是れは彼の子に話して此の子には内証なんて、ソンな事は絶えてない。親が子供の不行届を咎めて遣れば、子供も亦親の失策を笑うと云うような次第で、古風な目を以て見ると一寸と尊卑の礼儀がないように見えましょう。 その礼儀の事に就て申せば、家の主人が出入するとき家内の者が玄関まで送迎して御辞儀をすると云うような事が能く世間にあるが、私の処では絶えてソンな事がない。私の外出するには玄関からも出れば台所からも出る。帰るときもその通りで唯足の向た方に這入て来る。或は車に乗て帰て来た時に、車夫又別当共へ、玄関の処で御帰りなんて余計な事を云て呉れるな、と云う訳けであるから、幾ら玄関で怒鳴ても出て来る人はない。その一点になると世間の人じゃない近くは内の御祖母さんが怪んで居ましょう。この老人は土岐家の後室、本年七十七歳、むかしは奥平藩士の奥様で、武家の礼儀作法を大事に勤めた身であるから、今日の福澤の家風を見て、何分不作法で善くない、左ればとて是れが悪いと云う箇条もない、妙な事だと思て居るだろうと、私は窃に推察します。
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