福翁自伝 / 品行家風・子女の間に軽重なし
ソレから又私に九人の子供があるが、その九人の中に軽重愛憎と云うことは真実一寸ともない。又四男五女のその男の子と女の子と違いのあられよう訳けもない。世間では男子が生れると大造目出度がり、女の子でも無病なれば先ず/\目出度いなんて、自から軽重があるようだが、コンな馬鹿気た事はない。娘の子なれば何が悪いか、私は九人の子がみんな娘だって少しも残念と思わぬ。唯今日では男の子が四人、女の子が五人、宜い塩梅に振分けになってると思うばかり、男女長少、腹の底から之を愛して兎の毛ほども分隔てはない。道徳学者は動もすると世界中の人を相手にして一視同仁なんて大きな事を云てるではないか。況して自分の生んだ子供の取扱いに、一視同仁が出来ぬと云うような浅ましい事があられるものか。唯私の考に、総領もその他の子供も同じとは云いながら、私が死ねば総領が相続する、相続すれば自から中心になるから、財産を分配するにも、外の子に比較して一段手厚くして、又何か物があって、兄弟中誰にも遣りようがない、唯一つしかないと云うような物は、総領の一太郎が取て宜かろうと云うくらいな事で、その外には何も変ることはない。例えば斯う云う事がある。明治十四、五年の頃、月日は忘れたが、私が日本橋の知る人の家に行て見ると、その座敷に金屏風だの蒔絵だの花活だのゴテ/\一杯に列べてある。コリャ何だと聞て見れば、亜米利加に輸出する品だと云う。夫れから私が不図した出来心で、この品を一目見渡して私の欲しいものは一品でもない、皆不用品だが、又入用と云えば一品も残さず皆入用だ、兎に角に之を亜米利加に積出して幾らの金になれば宜いのかソレは知らぬけれども、売ると云えば皆買うが如何だ、買たからと云てソレを又儲けて売ろうと云うのではない、家に仕舞込んで置くのだと云うと、その主人も唯の素町人でない、成程爾うだな、コリャ名古屋から来た物であるが、亜米利加に遣て仕舞えば是れ丈けの品がなくなる、お前さんの処に遣れば失くならずにあるから売りましょう、ソンなら皆買うと云て、二千二、三百円かで、何百品あるか碌に品も見ないで皆買て仕舞たが、夫れから私がその品を見て楽むではなし、品柄も能く知らず数も覚えず、唯邪魔になるばかりだから、五、六年前の事でした、九人の小供に分けて取て仕舞えと申して、小供がワイ/\寄て、その品を九に分けて、ソレを籤で取て、今では皆小供が銘々に引受けて、家を持て居る者は家に持て行く者もあり、マダ私のところの土蔵の中に入れてあるのもある、と云うのが凡そ私の財産分配法で、如何にもその子に厚薄と云うものは一寸ともないのですから、小供の中に不平があろうたッて有られた訳けのものでないと思て居ます。
書き下し
ソレから又私に九人の子供があるが、その九人の中に軽重愛憎と云うことは真実一寸ともない。又四男五女のその男の子と女の子と違いのあられよう訳けもない。世間では男子が生れると大造目出度がり、女の子でも無病なれば先ず/\目出度いなんて、自から軽重があるようだが、コンな馬鹿気た事はない。娘の子なれば何が悪いか、私は九人の子がみんな娘だって少しも残念と思わぬ。唯今日では男の子が四人、女の子が五人、宜い塩梅に振分けになってると思うばかり、男女長少、腹の底から之を愛して兎の毛ほども分隔てはない。道徳学者は動もすると世界中の人を相手にして一視同仁なんて大きな事を云てるではないか。況して自分の生んだ子供の取扱いに、一視同仁が出来ぬと云うような浅ましい事があられるものか。唯私の考に、総領もその他の子供も同じとは云いながら、私が死ねば総領が相続する、相続すれば自から中心になるから、財産を分配するにも、外の子に比較して一段手厚くして、又何か物があって、兄弟中誰にも遣りようがない、唯一つしかないと云うような物は、総領の一太郎が取て宜かろうと云うくらいな事で、その外には何も変ることはない。例えば斯う云う事がある。明治十四、五年の頃、月日は忘れたが、私が日本橋の知る人の家に行て見ると、その座敷に金屏風だの蒔絵だの花活だのゴテ/\一杯に列べてある。コリャ何だと聞て見れば、亜米利加に輸出する品だと云う。夫れから私が不図した出来心で、この品を一目見渡して私の欲しいものは一品でもない、皆不用品だが、又入用と云えば一品も残さず皆入用だ、兎に角に之を亜米利加に積出して幾らの金になれば宜いのかソレは知らぬけれども、売ると云えば皆買うが如何だ、買たからと云てソレを又儲けて売ろうと云うのではない、家に仕舞込んで置くのだと云うと、その主人も唯の素町人でない、成程爾うだな、コリャ名古屋から来た物であるが、亜米利加に遣て仕舞えば是れ丈けの品がなくなる、お前さんの処に遣れば失くならずにあるから売りましょう、ソンなら皆買うと云て、二千二、三百円かで、何百品あるか碌に品も見ないで皆買て仕舞たが、夫れから私がその品を見て楽むではなし、品柄も能く知らず数も覚えず、唯邪魔になるばかりだから、五、六年前の事でした、九人の小供に分けて取て仕舞えと申して、小供がワイ/\寄て、その品を九に分けて、ソレを籤で取て、今では皆小供が銘々に引受けて、家を持て居る者は家に持て行く者もあり、マダ私のところの土蔵の中に入れてあるのもある、と云うのが凡そ私の財産分配法で、如何にもその子に厚薄と云うものは一寸ともないのですから、小供の中に不平があろうたッて有られた訳けのものでないと思て居ます。
現代語訳
それからまた私には九人の子供がありますが、その九人の中に軽重愛憎ということは本当に少しもありません。また四男五女の、その男の子と女の子とで違いがあるはずもありません。世間では男の子が生まれると大層めでたがり、女の子でも無病ならまあまあめでたいなどと言って、自然と軽重があるようですが、こんな馬鹿げたことはありません。娘の子ならば何が悪いか、私は九人の子がみな娘でも少しも残念とは思いません。ただ今日では男の子が四人、女の子が五人、よい具合に振り分けになっていると思うばかりで、男女長少、心の底からこれを愛して、兎の毛ほども分け隔てはありません。道徳学者はともすれば世界中の人を相手にして、一視同仁などと大きなことを言っているではないか。まして自分が生んだ子供の取り扱いに、一視同仁ができないというようなあさましいことがあってよいものか。ただ私の考えに、総領もその他の子供も同じとは言いながら、私が死ねば総領が相続する、相続すればおのずから中心になるから、財産を分配するにも、ほかの子に比べて一段手厚くし、また何か物があって、兄弟の誰にもやりようがない、ただ一つしかないというような物は、総領の一太郎が取ってよかろうというくらいのことで、そのほかには何も変わることはありません。たとえばこういうことがあります。明治十四、五年のころ、月日は忘れましたが、私が日本橋の知る人の家に行ってみると、その座敷に金屏風だの蒔絵だの花活けだのが、ごてごてと一杯に並べてあります。これは何かと聞いてみれば、アメリカに輸出する品だと言います。それから私がふとした出来心で、この品を一目見渡して、私の欲しいものは一品もない、みな不用品だが、また入用と言えば一品も残さずみな入用だ、とにかくこれをアメリカに積み出していくらの金になれば良いのか、それは知らないけれども、売ると言えばみな買うが、どうだ、買ったからといってそれをまた儲けて売ろうというのではない、家にしまい込んでおくのだと言うと、その主人もただの素町人ではなく、なるほどそうだな、これは名古屋から来た物であるが、アメリカにやってしまえばこれだけの品がなくなる、お前さんのところにやれば失くならずにあるから売りましょう、それならみな買うと言って、二千二、三百円ほどで、何百品あるかろくに品も見ないでみな買ってしまいましたが、それから私がその品を見て楽しむでもなく、品柄もよく知らず数も覚えず、ただ邪魔になるばかりだから、五、六年前のことでしたが、九人の子供に分けて取ってしまえと言って、子供たちがわいわい寄って、その品を九つに分け、それをくじで取って、今ではみな子供が銘々に引き受けて、家を持っている者は家に持っていく者もあり、まだ私のところの土蔵の中に入れてあるのもあります、というのがおよそ私の財産分配法で、いかにもその子に厚薄ということはちっともないのですから、子供の中に不平があろうと、あるはずのものではないと思っています。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・品行家風・妻を娶て九子を生むソレから私方の家事家風を語りましょう。文久元年、旧同藩士の媒妁を以て同藩士族江戸定府土岐太郎八の次女を娶り、是れが今の老妻です。結婚の時私は二十八歳、妻は十七歳、藩制の身分を申せば妻の方は上流士族、私は小士族、少し不釣合のようにあるが、血統は両人共頗る宜しく、往古はイザ知らず、凡そ五世以降双方の家に遺伝病質もなければ忌むべき病に罹りたる先人もなし。妻は無論、私の身に悪疾のあるべきようもなく、夫妻無病。文久三年に生れたのが一太郎、その次は捨次郎と、次第に誕生して四男五女、合して九人の子供になり、幸にして九人とも生れたまゝ皆無事で一人も欠けない。九人の内五人までは母の乳で養い、以下四人は多産の母の身体衛生の為めに乳母を雇うて育てました。
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福翁自伝・品行家風・子供の活動を妨げず養育法は着物よりも食物の方に心を用い、粗服はさせても滋養物は屹と与えるようにして、九人とも幼少の時から体養に不足はない。又その躾方は温和と活溌とを旨とし、大抵の処までは子供の自由に任せる。例えば風呂の湯を熱くして無理に入れるような事はせず、据風呂の側に大きな水桶を置て、子供の勝手次第に、ぬるくも熱くもさせる。全く自由自在のようなれども、左ればとて食物を勝手に任せて何品でも喰い次第にすると云う訳けではない。又子供の身体の活溌を祈れば室内の装飾などは迚も手に及ばぬ事と覚悟して、障子唐紙を破り諸道具に疵付けても先ず見逃がしにして、大抵な乱暴には大きな声をして叱ることはない。酷く剛情を張るような事があれば、父母の顔色を六かしくして睨む位が頂上で、如何なる場合にも手を下して打たことは一度もない。又親が実子に向ても嫁に接しても、又兄姉が弟妹に対しても名を呼棄にせず、家の中に厳父慈母の区別なく、厳と云えば父母共に厳なり、慈と云えば父母共に慈なり、一家の中は丸で朋友のようで、今でも小さい孫などは、阿母さんはどうかすると怖いけれども、お祖父さんが一番怖くないと云て居る。世間並にすると少し甘いように見えるが、ソレでも私方の孫子に限て別段に我儘でもなし、長少戯れながら長者の真面目に言う事は能く聞て逆う者もないから、余り厳重にせぬ方が利益かと思われる。
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福翁自伝・幼少の時・儒教主義の教育夫れから最う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛もなく算盤を執て金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯う云うことがある。私は勿論幼少だから手習どころの話でないが、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家には町家の小供も来る。其処でイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞て、怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯う云う処に小供は遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました。何でも大変喧ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心、屋漏に愧じずということ許り心掛たものと思われるから、その遺風は自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合は少く、明ても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思て、骨肉の従兄弟に対してさえ、心の中には何となく之を目下に見下して居て、夫等の者のすることは一切咎もせぬ、多勢に無勢、咎立をしようと云ても及ぶ話でないと諦らめて居ながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛び廻わり刎ね廻わりして、至極活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬと云うのも、兎角同藩中の子弟と打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為でしょう。
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福翁自伝・品行家風・子女幼時の記事又私の考に、人間は成長して後に自分の幼年の時の有様を知りたいもので、他人はイザ知らず私が自分で左様思うから、筆まめな事だが私は小供の生立の模様を書て置きました。この子は何年何月何日何分に産れ、産の難易は云々、幼少の時の健康は斯く/\、気質の強弱、生付きの癖など、ザッと荒増し記してあれば、幼少の時の写真を見ると同様、この書たものを見れば成長の後、第一面白いに違いない、自から又心得になる事もありましょう。私などは不幸にして実父の面も知らず、画像に写したものもなし、又私がドンな子供であったか母に聞たばかりで書たものはない。少年の時から長老の人がソンな話をすると耳を傾けて聞て、唯残念にばかり思うて、独り身の不幸を悲んで居たから、今度は私の番になってこの通りに自分の伝を記して子供の為めにし、又先年小供の生立の事をも認めて置たから先ず遺憾はない積りです。
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福翁自伝・品行家風・体育を先にす扨又子供の教育法に就ては、私は専ら身体の方を大事にして、幼少の時から強いて読書などさせない。先ず獣身を成して後に人心を養うと云うのが私の主義であるから、生れて三歳五歳まではいろはの字も見せず、七、八歳にもなれば手習をさせたりさせなかったり、マダ読書はさせない。夫れまでは唯暴れ次第に暴れさせて、唯衣食には能く気を付けて遣り、又子供ながらも卑劣な事をしたり賤しい言葉を真似たりすれば之を咎るのみ、その外は一切投遣りにして自由自在にして置くその有様は、犬猫の子を育てると変わることはない。即ち是れが先ず獣身を成すの法にして、幸に犬猫のように長成して無事無病、八、九歳か十歳にもなればソコで始めて教育の門に入れて、本当に毎日時を定めて修業をさせる。尚おその時にも身体の事は決して等閑にしない。世間の交母は動もすると勉強々々と云て、子供が静にして読書すれば之を賞める者が多いが、私方の子供は読書勉強して遂ぞ賞められたことはないのみか、私は反対に之を止めて居る。小供は既に通り過ぎて今は幼少な孫の世話をして居るが、矢張り同様で、年齢不似合に遠足したとか、柔術体操がエラクなったとか云えば、褒美でも与えて賞めて遣るけれども、本を能く読むと云て賞めたことはない。既に二十年前の事です。長男一太郎と次男捨次郎と両人を帝国大学の予備門に入れて修学させて居た処が兎角胃が悪くなる。ソレから宅に呼返して色々手当すると次第に宜くなる。宜くなるから又入れると又悪くなる。到頭三度入れて三度失敗した。その時には田中不二麿と云う人が文部の長官をして居たから、田中にも毎度話をしました。私方の小供を予備門に入れて実際の実験があるが、文部学校の教授法をこのまゝにして遣て行けば、生徒を殺すに極て居る。殺さなければ気狂いになるか、然らざれば身心共に衰弱して半死半生の片輪者になって仕舞うに違いない。丁度この予備門の修業が三、四年かゝる、その間に大学の法が改まるだろうと思て、ソレを便りに子供を予備門に入れて置くが、早く改正して貰いたい。この儘で置くならば東京大学は少年の健康屠殺場と命名して宜しい。早々教授法を改めて貰いたいと、懇意の間柄で遠慮なく話はしたが、何分埒が明かず、子供は相替らず三ヶ月遣て置けば三ヶ月引かして置かなければならぬと云うような訳けで、何としても予備門の修業に堪えず、私も遂に断念して仕舞うて、夫れから此方の塾(慶應義塾なり)に入れて普通の学科を卒業させて、亜米利加に遣て彼の大学校の世話になりました。私は日本大学の教科を悪いと云うのではない、けれども教育の仕様が余り厳重で、荷物が重過ぎるのを恐れて文部大学を避けたのです。その通りで今でも説は変えない、何としても身体が大事だと思います。
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『論語と算盤』教育と情誼・孝は強ふべきものに非ず父がかかる思想をもって私に対して下されたため、自然その感化を受けたものか、私も私の子に対しては父と同じような態度をもって臨むことにしている。私がかく申すと少しおこがましくはあるが、いずれかと言えば、父よりも多少優れた所があったので、父と全く行動を異にし、父と違った所があって、父のごとくになり得なかったのである。私の子女等は将来いかなるものか、もとより神ならぬ私の断言し得る限りでないが、今の所では、とにかく、私と違った所がある。この方は、私と父とが違った違い方と反対で、いずれかと申せば劣る方である。しかしかく私と違うのを責めて、私の思う通りになれよ、と子女等に強いて試みたところで、それはかく注文して強いる私の方が無理である。私の通りになれよ、と私に強いられても、私のようになれぬ子女は、どうしても成れぬはずのものである。しかるになお強いて、子女等をすべて私の思う通りにしようとすれば、子女等は私の思う通りになり得ぬだけのことで、不孝の子になってしまわねばならぬ。私の思う通りにならぬからとて、子女等を不孝の子にしてしまうのは忍ぶべからざる事である。
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