福翁自伝 / 一身一家経済の由来・子供の学資金を謝絶す(2)
成程是れは宜い話で、此方はモウ実に金に焦れて居るその最中に、二人の子供の洋行費が天から降て来たようなもので、即刻応と返辞をしなければならぬ処だが、私は考えました。待て霎時、どうも爾うでない、抑も乃公が彼の学校の監督をしないと云うものは、為ない所以があって為ないとチャンと説を極めて居る。ソコで今金の話が出て来て、その金の声を聞き前説を変じて学校監督の需に応じようと云えば、前に之を謝絶したのが間違いか、ソレが間違いでなければ今その金を請取るのが間違いである。金の為めに変説と云えば、金さえ見れば何でもすると斯う成らなければならぬ。是れは出来ない。且つ又今日金の欲しいと云うのは何の為めに欲しいかと云えば、小供の為めだ。小供を外国で修業させて役に立つように為よう、学者に為ようと云う目的であるが、子を学者にすると云う事が果して親の義務であるかないか、是れも考えて見なければならぬ。家に在る子は親の子に違いない。違いないが、衣食を授けて親の力相応の教育を授けて、ソレで沢山だ。如何あっても最良の教育を授けなければ親たる者の義務を果さないと云う理窟はない。親が自分に自から信じて心に決して居るその説を、子の為めに変じて進退すると云ては、所謂独立心の居処が分らなくなる。親子だと云ても、親は親、子は子だ。その子の為めに節を屈して子に奉公しなければならぬと云うことはない。宜しい、今後若し乃公の子が金のない為めに十分の教育を受けることが出来なければ、是れはその子の運命だ。
書き下し
成程是れは宜い話で、此方はモウ実に金に焦れて居るその最中に、二人の子供の洋行費が天から降て来たようなもので、即刻応と返辞をしなければならぬ処だが、私は考えました。待て霎時、どうも爾うでない、抑も乃公が彼の学校の監督をしないと云うものは、為ない所以があって為ないとチャンと説を極めて居る。ソコで今金の話が出て来て、その金の声を聞き前説を変じて学校監督の需に応じようと云えば、前に之を謝絶したのが間違いか、ソレが間違いでなければ今その金を請取るのが間違いである。金の為めに変説と云えば、金さえ見れば何でもすると斯う成らなければならぬ。是れは出来ない。且つ又今日金の欲しいと云うのは何の為めに欲しいかと云えば、小供の為めだ。小供を外国で修業させて役に立つように為よう、学者に為ようと云う目的であるが、子を学者にすると云う事が果して親の義務であるかないか、是れも考えて見なければならぬ。家に在る子は親の子に違いない。違いないが、衣食を授けて親の力相応の教育を授けて、ソレで沢山だ。如何あっても最良の教育を授けなければ親たる者の義務を果さないと云う理窟はない。親が自分に自から信じて心に決して居るその説を、子の為めに変じて進退すると云ては、所謂独立心の居処が分らなくなる。親子だと云ても、親は親、子は子だ。その子の為めに節を屈して子に奉公しなければならぬと云うことはない。宜しい、今後若し乃公の子が金のない為めに十分の教育を受けることが出来なければ、是れはその子の運命だ。
現代語訳
なるほどこれはいい話で、こちらはもう実に金に焦れているその最中に、二人の子供の洋行費が天から降ってきたようなもので、すぐに応と返事をしなければならないところですが、私は考えました。待て、しばらく、どうもそうではない。そもそも俺があの学校の監督をしないというのは、しない理由があって、しないとちゃんと説を決めているのだ。そこで今、金の話が出てきて、その金の声を聞いて前の説を変え、学校監督の需めに応じようと言えば、前にこれを断ったのが間違いか、それが間違いでなければ、今その金を受け取るのが間違いである。金のために変説というなら、金さえ見れば何でもする、ということにならなければならない。これはできない。かつまた、今日、金が欲しいというのは何のために欲しいかといえば、子供のためだ。子供を外国で修業させて役に立つようにしよう、学者にしようという目的であるが、子を学者にするということが、果たして親の義務であるかないか、これも考えてみなければならない。家にいる子は親の子に違いない。違いないが、衣食を授け、親の力相応の教育を授けて、それで十分だ。どうあっても最良の教育を授けなければ親たる者の義務を果たさないという理屈はない。親が自分で自ら信じて心に決めているその説を、子供のために変えて進退するというのでは、いわゆる独立心の居どころが分からなくなる。親子だといっても、親は親、子は子だ。その子のために節を屈して子に奉公しなければならないということはない。よろしい、今後もし俺の子が金のないために十分な教育を受けることができなければ、これはその子の運命だ。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・一身一家経済の由来・子供の学資金を謝絶す(1)それに又似寄たことがある。明治の初年に横浜の或る豪商が学校を拵えて、この慶應義塾の若い人を教師に頼んでその学校の始末をして居ました。爾うするとその主人は私に親から新塾に出張して監督をして貰いたいと云う意があるように見える。私の家にはそのとき男子が二人、娘が一人あって、兄が七歳に弟が五歳ぐらい。是れも追々成長するに違いない、成長すれば外国に遊学させたいと思て居る、所が世間一般の風を見るに、学者とか役人とか云う人が動もすれば政府に依頼して、自分の子を官費生にして外国に修業させることを祈て、ドウやら斯うやら周旋が行届て目的を達すると獲物でもあったように悦ぶ者が多い。嗚呼見苦しい事だ、自分の産んだ子ならば学問修業の為めに洋行させるも宜しいが、貧乏で出来なければ為せぬが宜しい、夫れを乞食のように人に泣付て修業をさせて貰うとは扨も/\意気地のない奴共だと、心窃に之を愍笑して居ながら、私にも男子が二人ある、この子が十八、九歳にもなれば是非とも外国に遣らなければならぬが、先だつものは金だ、どうかしてその金を造り出したいと思えども、前途甚だ遥なり、二人遣て何年間の学費は中々の大金、自分の腕で出来ようか如何だろうか誠に覚束ない、困たことだと常に心に思て居るから、敢て愧ることでもなし、颯々と人に話して、金が欲しい、金が欲しい、ドウかして洋行をさせたい、今この子が七歳だ五歳だと云うけれども、モウ十年経てば仕度をしなければならぬ、ドウもソレまでに金が出来れば宜いがと、人に話して居ると、誰かこの話を例の豪商にも告げた者があるか、或日私の処に来て商人の云うに、お前さんに彼の学校の監督をお頼み申したい、斯く申すのは月に何百円とかその月給を上げるでもない、態々月給と云ては取りもしなかろうが、茲に一案があります、外ではない、お前さんの小供両人、彼のお坊ッちゃん両人を外国に遣るその修業金になるべきものを今お渡し申すが如何だろう、此処で今五千円か一万円ばかりの金をお前さんに渡す、所で今要らない金だからソレを何処へか預けて置く、預けて置く中に小供衆が成長する、成長して外国に行こうと云うときには、その金も利倍増長して確かに立派な学費になって、不自由なく修業が出来ましょう、この御相談は如何で御座ると云い出した。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・子供の学資金を謝絶す(3)幸にして金が出来れば教育して遣る、出来なければ無学文盲のまゝにして打遣て置くと、私の心に決断して、扨先方の人は誠に厚意を以て話して呉れたので、固より私の心事を知る訳けもないから、体能く礼を述べて断りましたが、その問答応接の間、私は眼前に子供を見てその行末を思い、又顧みて自分の身を思い、一進一退これを決断するには随分心を悩ましました。その話は相済み、その後も相替らず真面目に家を治めて著書飜訳の事を勉めて居ると、存外に利益が多くて、マダその二人の小供が外国行の年頃にならぬ先きに金の方が出来たから、小供を後廻しにして中上川彦次郎を英国に遣りました。彦次郎は私の為めに只た一人の甥で、彼方も亦只た一人の叔父さんで外に叔父はない、私も亦彦次郎の外に甥はないから、先ず親子のようなものです。彼れが三、四年も英国に居る間には随分金も費しましたが、ソレでも後の小供を修業に遣ると云う金はチャンと用意が出来て、二人とも亜米利加に六年ばかり遣て置きました。私は今思い出しても誠に宜い心持がします。能くあの時に金を貰わなかった、貰えば生涯気掛りだが、宜い事をしたと、今日までも折々思い出して、大事な玉に瑾を付けなかったような心持がします。
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『論語と算盤』教育と情誼・孝は強ふべきものに非ず父がかかる思想をもって私に対して下されたため、自然その感化を受けたものか、私も私の子に対しては父と同じような態度をもって臨むことにしている。私がかく申すと少しおこがましくはあるが、いずれかと言えば、父よりも多少優れた所があったので、父と全く行動を異にし、父と違った所があって、父のごとくになり得なかったのである。私の子女等は将来いかなるものか、もとより神ならぬ私の断言し得る限りでないが、今の所では、とにかく、私と違った所がある。この方は、私と父とが違った違い方と反対で、いずれかと申せば劣る方である。しかしかく私と違うのを責めて、私の思う通りになれよ、と子女等に強いて試みたところで、それはかく注文して強いる私の方が無理である。私の通りになれよ、と私に強いられても、私のようになれぬ子女は、どうしても成れぬはずのものである。しかるになお強いて、子女等をすべて私の思う通りにしようとすれば、子女等は私の思う通りになり得ぬだけのことで、不孝の子になってしまわねばならぬ。私の思う通りにならぬからとて、子女等を不孝の子にしてしまうのは忍ぶべからざる事である。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・他人に私事を語らず私が経済上に堅固を守て臆病で大胆な事の出来ないのは、先天の性質であるか、抑も亦身の境遇に駈られて遂に堅く凝り固まったものでしょう。本年六十五歳になりますが、二十一歳のとき家を去て以来、自から一身の謀を為し、二十三歳、家兄を喪いしより後は、老母と姪と二人の身の上を引受け、二十八歳にして妻を娶り子を生み、一家の責任を自分一身に担うて、今年に至るまで四十五年のその間、二十三歳の冬大阪緒方先生に身の貧困を訴えて大恩に浴したるのみ、その他は仮初にも身事家事の私を他人に相談したこともなければ又依頼したこともない。人の智恵を借りようとも思わず、人の差図を受けようとも思わず、人間万事天運に在りと覚悟して、勉めることは飽くまでも根気能く勉めて、種々様々の方便を運らし、交際を広くして愛憎の念を絶ち、人に勧め又人の同意を求めるなどは十人並に遣りながら、ソレでも思う事の叶わぬときは、尚おそれ以上に進んで哀願はしない、唯元に立戻て独り静に思止るのみ。詰る所、他人の熱に依らぬと云うのが私の本願で、この一義は私が何時発起したやら、自分にも是れと云う覚えはないが、少年の時からソンな心掛け、イヤ心掛けと云うよりもソンな癖があったと思われます。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・頼母子の金弐朱を返す是れから私が一身一家の経済の事を陳べましょう。凡そ世の中に何が怖いと云ても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。他人に対して金銭の不義理は相済まぬ事と決定すれば、借金はます/\怖くなります。私共の兄弟姉妹は幼少の時から貧乏の味を嘗め尽して、母の苦労した様子を見ても生涯忘れられません。貧小士族の衣食住その艱難の中に、母の精神を以て自から私共を感化した事の数々あるその一例を申せば、私が十三、四歳のとき母に云付けられて金子返済の使をしたことがあります。その次第柄は斯う云うことです。天保七年、大阪に於て私共が亡父の不幸で母に従て故郷の中津に帰りましたとき、家の普請をするとか何とか云うに、勝手向は勿論不如意ですから、人の世話で頼母子講を拵えて一口金二朱ずつで何両とやら纏まった金が出来て一時の用を弁じて、その後、毎年幾度か講中が二朱ずつの金を持寄り、鬮引にて満座に至りて皆済になる仕組であるが、大家の人は二朱計りの金の為めに何年もこんな事に関係して居るのは面倒だと云う所から、一時二朱の掛金を出したまゝに手を引く者がある。之を掛棄と云います。その実は講主が人に金を唯貰うような事なれども、一般の風俗で左まで世間に怪しむ者もない。所が福澤の頼母子に大阪屋五郎兵衛と云う廻船屋が一口二朱を掛棄にしたそうです。勿論私の三、四歳頃か幼少の時の事で何も知りませんでしたが、十三、四歳のとき或日母が私に申すに、「お前は何も知らぬ事だが、十年前に斯う/\云う事があって大阪屋が掛棄にして、福澤の家は大阪屋に金二朱を貰うたようなものだ。誠に気に済まぬ。武家が町人から金を恵まれて夫れを唯貰うて黙て居ることは出来ません。疾うから返したい/\と思ては居たがドウも爾う行かずに、ヤッと今年は少し融通が付いたから、この二朱のお金を大阪屋に持て行て厚う礼を述べて返して来いと申して、その金を紙に包んで私に渡しました。ソレから私は大阪屋に参て金の包みを出すと、先方では意外に思うたか、「御返済など却て痛入ります。最早や古い事です。決してそんな御心配には及びませんと云て頻りに辞退すれども、私は母の云うことを聞て居るから、是非渡さねばならぬと、互に押し返して口喧嘩のように争うて、金を置て帰たことがあります。今はハヤ五十二、三年も過ぎてむかし/\の事であるが、そのとき母に云付けられた口上も、先方の大阪屋の事も、チャンと記憶に存して忘れません。年月日は覚えないが何でも朝のことゝ思う、豊前中津下小路の西南の角屋敷、大阪屋五郎兵衛の家に行て主人五郎兵衛は留守で、弟の源七に金を渡したと云うことまで覚えて居ます。こんなことが少年の時から私の脳中に遺て居るから、金銭の事に就ては何としても大胆な横着な挙動は出来られません。
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福翁自伝・幼少の時・儒教主義の教育夫れから最う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛もなく算盤を執て金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、斯う云うことがある。私は勿論幼少だから手習どころの話でないが、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家には町家の小供も来る。其処でイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、その事を父が聞て、怪しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯う云う処に小供は遣て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました。何でも大変喧ましい人物であったことは推察が出来る。その書遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心、屋漏に愧じずということ許り心掛たものと思われるから、その遺風は自から私の家には存して居なければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合は少く、明ても暮れても唯母の話を聞く許り、父は死んでも生きてるような者です。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思て、骨肉の従兄弟に対してさえ、心の中には何となく之を目下に見下して居て、夫等の者のすることは一切咎もせぬ、多勢に無勢、咎立をしようと云ても及ぶ話でないと諦らめて居ながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、云わば人を馬鹿にして居たようなものです。今でも覚えて居るが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛び廻わり刎ね廻わりして、至極活溌にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬと云うのも、兎角同藩中の子弟と打解けて遊ぶことが出来ずに孤立した所為でしょう。
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