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福翁自伝 / 再度米国行・太平海の郵便汽船始めて通ず

この時には亜米利加と日本との間に太平海の郵便船が始めて開通したその歳で、第一着に日本に来たのがコロラドと云う船で、その船に乗込む。前年亜米利加に行た時には小さな船で海上三十七日も掛たと云うのが、今度のコロラドは四千噸の飛脚船、船中の一切万事、実に極楽世界で、廿二日目に桑港に着た。着たけれども今とは違てその時分はマダ鉄道のないときで、パナマに廻らなければならぬから、桑港に二週間ばかり逗留して、其処で太平洋汽船会社の別の船に乗替えてパナマに行て、蒸気車に乗てあの地峡を踰えて、向側に出て又船に乗て、丁度三月十九日に紐育に着き、華聖頓に落付て、取敢えず亜米利加の国務卿に遇うて例の金の話を始めた。その時の始末でも幕府の模様が能く分る。此方を出立する時から、先方の談判には八十万弗渡したと云う請取がなければならぬと云うことは能く分て居る。所がどうも丸で一寸とした紙切に十万とか五万とか書てあるものが何でも十枚もある、その中には而かも三角の紙切に僅に何万弗請取りと記して唯プラインと云う名ばかり書てあるのが何枚もある。何の為めにどうして請取たと云う約定もなければ何にもない。只金を請取たと云う丈けの印ばかりである。代言流義に行けば誠に薄弱な殆んど無証拠と云ても宜い位。ソコでその事に就ては出発前に随分議論しました。却て是れが宜しい、此方では一切万事、亜米利加の公使と云うものを信じ抜て、イヤ亜米利加の公使を信じたのではない、日本の政府が亜米利加の政府を信じたのだ、書付も要らなければ条約も要らない、只口で請取たら請取たと云うた丈けで沢山だ、是れは只覚書に数を記した丈けの事、固よりこんな物は証拠にしないと云う風に出ようと相談を極めて、彼方へ行てからその話に及ぶと、直ぐに前の公使プラインが出て来た。出て来て何とも云わない、ドウですか船を渡すなり金を渡すなりドウでも宜いと、文句なしに立派に出掛けて来た。

書き下し

この時には亜米利加と日本との間に太平海の郵便船が始めて開通したその歳で、第一着に日本に来たのがコロラドと云う船で、その船に乗込む。前年亜米利加に行た時には小さな船で海上三十七日も掛たと云うのが、今度のコロラドは四千噸の飛脚船、船中の一切万事、実に極楽世界で、廿二日目に桑港に着た。着たけれども今とは違てその時分はマダ鉄道のないときで、パナマに廻らなければならぬから、桑港に二週間ばかり逗留して、其処で太平洋汽船会社の別の船に乗替えてパナマに行て、蒸気車に乗てあの地峡を踰えて、向側に出て又船に乗て、丁度三月十九日に紐育に着き、華聖頓に落付て、取敢えず亜米利加の国務卿に遇うて例の金の話を始めた。その時の始末でも幕府の模様が能く分る。此方を出立する時から、先方の談判には八十万弗渡したと云う請取がなければならぬと云うことは能く分て居る。所がどうも丸で一寸とした紙切に十万とか五万とか書てあるものが何でも十枚もある、その中には而かも三角の紙切に僅に何万弗請取りと記して唯プラインと云う名ばかり書てあるのが何枚もある。何の為めにどうして請取たと云う約定もなければ何にもない。只金を請取たと云う丈けの印ばかりである。代言流義に行けば誠に薄弱な殆んど無証拠と云ても宜い位。ソコでその事に就ては出発前に随分議論しました。却て是れが宜しい、此方では一切万事、亜米利加の公使と云うものを信じ抜て、イヤ亜米利加の公使を信じたのではない、日本の政府が亜米利加の政府を信じたのだ、書付も要らなければ条約も要らない、只口で請取たら請取たと云うた丈けで沢山だ、是れは只覚書に数を記した丈けの事、固よりこんな物は証拠にしないと云う風に出ようと相談を極めて、彼方へ行てからその話に及ぶと、直ぐに前の公使プラインが出て来た。出て来て何とも云わない、ドウですか船を渡すなり金を渡すなりドウでも宜いと、文句なしに立派に出掛けて来た。

現代語訳

この時には、アメリカと日本との間に太平洋の郵便船が初めて開通した年で、第一着に日本に来たのがコロラドという船で、その船に乗り込みました。前年アメリカに行ったときには小さな船で海上三十七日もかかったというのが、今度のコロラドは四千トンの飛脚船で、船中の一切万事、実に極楽世界、二十二日目にサンフランシスコに着きました。着いたけれども、今とは違ってその時分はまだ鉄道のない時で、パナマを回らなければならないので、サンフランシスコに二週間ばかり逗留し、そこで太平洋汽船会社の別の船に乗り換えてパナマに行き、蒸気車に乗ってあの地峡を越えて、向こう側に出てまた船に乗り、ちょうど三月十九日にニューヨークに着き、ワシントンに落ち着いて、とりあえずアメリカの国務長官に会って、例の金の話を始めました。そのときの始末でも幕府の模様がよくわかります。こちらを出立する時から、先方との談判には八十万ドル渡したという受取がなければならないということは、よくわかっています。ところがどうも、まるでちょっとした紙切れに十万とか五万とか書いてあるものが、確か十枚ばかりもある。そのうちには、しかも三角の紙切れにわずかに何万ドル受取りと記して、ただプラインという名ばかり書いてあるものが何枚もある。何のために、どうして受け取ったという約定もなければ何もない。ただ金を受け取ったというだけの印ばかりです。代言人の流儀でいけば、まことに薄弱で、ほとんど無証拠といってもいいくらい。そこでその事については、出発前にずいぶん議論しました。かえってこれがよい。こちらでは一切万事、アメリカの公使というものを信じ抜いて、いや、アメリカの公使を信じたのではない、日本の政府がアメリカの政府を信じたのだ。書付も要らなければ条約も要らない、ただ口で受け取ったら受け取ったと言っただけで十分だ。これはただ覚書に数を記しただけのことで、もとよりこんな物は証拠にしないという風に出ようと相談を決めて、あちらへ行ってからその話に及ぶと、すぐに前の公使プラインが出てきました。出てきて何とも言わない、どうですか、船を渡すなり金を渡すなり、どうでもいいと、文句なしに立派に出掛けてきました。

解説

太平洋郵便汽船の開通期に、福沢が快適な航海を経てアメリカに着き、軍艦代金の精算に臨む場面です。受取書が三角の紙切れだけという頼りない証拠を前に、福沢たちは、証拠が薄弱だからこそ相手を信じ抜く態度で臨もうと決めました。結果、前公使が文句なしに応じます。証拠が不十分な状況で、疑わず信頼を前面に出す戦略は一種の賭けですが、誠実な相手には通用します。取引の場では、書類の有無より相手との信頼関係が結果を左右することがあります。

この章句が説くこと

太平洋郵便船コロラド受取書信頼交渉プライン

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