福翁自伝 / 再度米国行・吾妻艦を買う
先ず是れで安心であるとした所で、此方では軍艦一艘欲しい。夫れから諸方の軍艦を見て廻て、是れが宜かろうと云て、ストーンウオールと云う船、ソレが日本に来て東艦となりましたろう、この甲鉄艦を買うことにして、その外小銃何百挺か何千挺か買入れたけれども、ソレでもマダ金が彼方に七、八万弗残て居る。是れは亜米利加の政府に預けて置て、その船を廻航するに付て、私共は先に帰たが、海軍省から行た人はアトに残て、そうして亜米利加の船長を一人雇うて此方に廻航することになって、夫れで事が済んだ。丁度船の日本に着たのは王政維新の明治政府になってから、即ち明治元年であるが、その事に就て当時会計を司って居た由利公正さんに遇て後に聞た所が、ドウもあの時金を払うには誠に困た、明治政府には金がない。如何やら斯うやらヤット何十万弗拵えて払たと云う話を私が聞て、ソレは大間違いだ、マダ幾らか金が余て彼方に預けてある筈だと云うたら、爾うかと云って、由利は大造驚いて居ました。何処にドウなったか、二重に金を払たことがある。亜米利加人が取る訳けはない、何処かに舞込んで仕舞たに違いない。
書き下し
先ず是れで安心であるとした所で、此方では軍艦一艘欲しい。夫れから諸方の軍艦を見て廻て、是れが宜かろうと云て、ストーンウオールと云う船、ソレが日本に来て東艦となりましたろう、この甲鉄艦を買うことにして、その外小銃何百挺か何千挺か買入れたけれども、ソレでもマダ金が彼方に七、八万弗残て居る。是れは亜米利加の政府に預けて置て、その船を廻航するに付て、私共は先に帰たが、海軍省から行た人はアトに残て、そうして亜米利加の船長を一人雇うて此方に廻航することになって、夫れで事が済んだ。丁度船の日本に着たのは王政維新の明治政府になってから、即ち明治元年であるが、その事に就て当時会計を司って居た由利公正さんに遇て後に聞た所が、ドウもあの時金を払うには誠に困た、明治政府には金がない。如何やら斯うやらヤット何十万弗拵えて払たと云う話を私が聞て、ソレは大間違いだ、マダ幾らか金が余て彼方に預けてある筈だと云うたら、爾うかと云って、由利は大造驚いて居ました。何処にドウなったか、二重に金を払たことがある。亜米利加人が取る訳けはない、何処かに舞込んで仕舞たに違いない。
現代語訳
まずこれで安心であるとしたところで、こちらでは軍艦が一艘欲しい。それから諸方の軍艦を見て回って、これがよかろうと言って、ストーンウォールという船を、それが日本に来て東艦となりましたでしょう、この甲鉄艦を買うことにして、そのほか小銃を何百挺か何千挺か買い入れたけれども、それでもまだ金が向こうに七、八万ドル残っていました。これはアメリカの政府に預けておいて、その船を回航するについて、私たちは先に帰りましたが、海軍省から行った人はあとに残って、アメリカの船長を一人雇い、こちらに回航することになって、それで事が済みました。ちょうど船が日本に着いたのは、王政維新の明治政府になってから、つまり明治元年ですが、その事について、当時会計を司っていた由利公正さんに会って後に聞いたところが、どうもあの時金を払うには本当に困った、明治政府には金がない。どうにかこうにかやっと何十万ドルかこしらえて払ったという話を私が聞いて、それは大間違いだ、まだいくらか金が余って向こうに預けてあるはずだと言ったら、そうかといって、由利は大層驚いていました。どこにどうなったか、二重に金を払ったことがあります。アメリカ人が取るはずはない、どこかに紛れ込んでしまったに違いありません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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福翁自伝・再度米国行夫から慶応三年になって又私は亜米利加に行た。是れで三度目の外国行。慶応三年の正月二十三日に横浜を出帆して、今度の亜米利加行に就ても亦なか/\話がある。と云うのは、先年亜米利加の公使ロペルト・エーチ・プラインと云う人が来て居て、その時に幕府で軍艦を拵えなければならぬと云うことで、亜米利加の公使にその買入方を頼んで、数度に渡したその金高は八十万弗、そうして追々にその軍艦が出来て来る筈。ソレで文久三、四年の頃、富士山と云う船が一艘出来て来て、その価は四十万弗。所がその後幕府はなか/\な混雑、又亜米利加にも南北戦争と云う内乱が起たと云うような訳で、その後一向便りもない。何しろ金は八十万弗渡したその中で、四十万弗の船が来た丈けでその後は何も来ない。左りとは埓が明かぬから、アトの軍艦は此方から行て請取ろう。その序に鉄砲も買て来ようと云うような事で、そのとき派遣の委員長に命ぜられたのは小野友五郎、この人は御勘定吟味役と云う役目で御勘定奉行の次席、なか/\時の政府に於ては権力もあり地位も高い役人である。その人が委員長を命ぜられて、その副長には松本寿太夫と云う人が命ぜられたと云うことは、その前年の冬に定まった。夫れから私もモウ一度行て見たいものだと思て、小野の家に度々行て頼んだ。何卒一緒に連れて行て呉れないかと云た所が、連れて行こうと云うことになって、私は小野に随従して行くことになりました。その外同行の人は、船を請取るのですから海軍の人も両人ばかり、又通弁の人も行きました。
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福翁自伝・再度米国行・太平海の郵便汽船始めて通ずこの時には亜米利加と日本との間に太平海の郵便船が始めて開通したその歳で、第一着に日本に来たのがコロラドと云う船で、その船に乗込む。前年亜米利加に行た時には小さな船で海上三十七日も掛たと云うのが、今度のコロラドは四千噸の飛脚船、船中の一切万事、実に極楽世界で、廿二日目に桑港に着た。着たけれども今とは違てその時分はマダ鉄道のないときで、パナマに廻らなければならぬから、桑港に二週間ばかり逗留して、其処で太平洋汽船会社の別の船に乗替えてパナマに行て、蒸気車に乗てあの地峡を踰えて、向側に出て又船に乗て、丁度三月十九日に紐育に着き、華聖頓に落付て、取敢えず亜米利加の国務卿に遇うて例の金の話を始めた。その時の始末でも幕府の模様が能く分る。此方を出立する時から、先方の談判には八十万弗渡したと云う請取がなければならぬと云うことは能く分て居る。所がどうも丸で一寸とした紙切に十万とか五万とか書てあるものが何でも十枚もある、その中には而かも三角の紙切に僅に何万弗請取りと記して唯プラインと云う名ばかり書てあるのが何枚もある。何の為めにどうして請取たと云う約定もなければ何にもない。只金を請取たと云う丈けの印ばかりである。代言流義に行けば誠に薄弱な殆んど無証拠と云ても宜い位。ソコでその事に就ては出発前に随分議論しました。却て是れが宜しい、此方では一切万事、亜米利加の公使と云うものを信じ抜て、イヤ亜米利加の公使を信じたのではない、日本の政府が亜米利加の政府を信じたのだ、書付も要らなければ条約も要らない、只口で請取たら請取たと云うた丈けで沢山だ、是れは只覚書に数を記した丈けの事、固よりこんな物は証拠にしないと云う風に出ようと相談を極めて、彼方へ行てからその話に及ぶと、直ぐに前の公使プラインが出て来た。出て来て何とも云わない、ドウですか船を渡すなり金を渡すなりドウでも宜いと、文句なしに立派に出掛けて来た。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・銀貨狼藉扨それから船が出てずっと北の方に乗出した。その咸臨丸と云うのは百馬力の船であるから、航府中、始終石炭を焚くと云うことは出来ない。只港を出るとき這入るときに焚く丈けで、沖に出れば丸で帆前船、と云うのは石炭が積まれますまい、石炭がなければ帆で行かなければならぬ。その帆前船に乗て太平海を渡るのであるから、それは/\毎日の暴風で、艀船が四艘あったが激浪の為めに二艘取られて仕舞うた。その時は私は艦長の家来であるから、艦長の為めに始終左右の用を弁じて居た。艦長は船の艫の方の部屋に居るので、或る日、朝起きていつもの通り用を弁じましょうと思て艫の部屋に行た、所がその部屋に弗が何百枚か何千枚か知れぬ程散乱して居る。如何したのかと思うと、前夜の大嵐で、袋に入れて押入の中に積上げてあった弗、定めし錠も卸してあったに違いないが、劇しい船の動揺で、弗の袋が戸を押破て外に散乱したものと見える。是れは大変な事と思て、直に引返して舳の方に居る公用方の吉岡勇平にその次第を告げると、同人も大に驚き、場所に駈付け、私も加勢してその弗を拾集めて袋に入れて元の通り戸棚に入れたことがあるが、元来船中にこんな事の起るその次第は、当時外国為替と云う事に就て一寸とも考えがないので、旅をすれば金が要る、金が要れば金を持て行くと云う極簡単な話で、何万弗だか知れない弗を、袋などに入れて艦長の部屋に蔵めて置たその金が、嵐の為めに溢れ出たと云うような奇談を生じたのである。夫れでも大抵四十年前の事情が分りましょう。今ならば一向訳けはない。為替で一寸と送て遣れば、何も正金を船に積で行く必要はないが、商売思想のない昔の武家は大抵こんなものである。航海中は毎日の嵐で、始終船中に波を打上げる。今でも私は覚えて居るが、甲板の下に居ると上に四角な窓があるので、船が傾くとその窓から大洋の立浪が能く見える。それは大層な波で、船体が三十七、八度傾くと云うことは毎度の事であった。四十五度傾くと沈むと云うけれども、幸に大きな災もなく只その航路を進で行く。進で行く中に、何も見えるものはないその中で以て、一度帆前船に遇うたことがあった。ソレは亜米利加の船で、支那人を乗せて行くのだと云うその船を一艘見た切り、外には何も見ない。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・軍艦の修繕に価を求めず・始めて日本に英辞書を入る前に云うた通り亜米利加人は誠に能く世話をして呉れた。軍艦を船渠に入れて修覆して呉れたのみならず、乗組員の手元に入用な箱を拵えて呉れるとか云うことまでも親切にして呉れた。いよ/\船の仕度も出来て帰ると云う時に、軍艦の修覆その他の入用を払いたいと云うと、彼方の人は笑て居る。代金などゝは何の事だと云うような調子で一寸とも話にならない。何と云うても勘定を取りそうにもしない。 その時に私と通弁の中浜万次郎と云う人と両人がウエブストルの字引を一冊ずつ買て来た。是れが日本にウエブストルと云う字引の輸入の第一番、それを買てモウ外には何も残ることなく、首尾克く出帆して来た。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・咸臨丸ソレカラ私が江戸に来た翌年、即ち安政六年冬、徳川政府から亜米利加に軍艦を遣ると云う日本開闢以来、未曾有の事を決断しました。扨その軍艦と申しても至極小さなもので、蒸気は百馬力、ヒユルプマシーネと申して、港の出入に蒸気を焚くばかり、航海中は唯風を便りに運転せねばならぬ。二、三年前、和蘭から買入れ、価は小判で二万五千両、船の名を咸臨丸と云う。その前、安政二年の頃から幕府の人が長崎に行て、蘭人に航海術を伝習してその技術も漸く進歩したから、この度使節がワシントンに行くに付き、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海と斯う云う訳けで幕議一決、艦長は時の軍艦奉行木村摂津守、これに随従する指揮官は勝麟太郎、運用方は佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、鈴藤勇次郎、測量は小野友五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、蒸気は肥田浜五郎、山本金次郎、公用方には吉岡勇平、小永井五八郎、通弁官は中浜万次郎、少年士官には根津欽次郎、赤松大三郎、岡田井蔵、小杉雅之進と、医師二人、水夫火夫六十五人、艦長の従者を併せて九十六人。船の割にしては多勢の乗組人でありしが、この航海の事に就ては色々お話がある。 今度咸臨丸の航海は日本開闢以来、初めての大事業で、乗組士官の面々は固より日本人ばかりで事に当ると覚悟して居た処が、その時亜米利加の甲比丹ブルツクと云う人が、太平洋の海底測量の為めに小帆前船ヘネモコパラ号に乗て航海中、薩摩の大島沖で難船して幸に助かり、横浜に来て徳川政府の保護を受けて、甲比丹以下、士官一人、医師一人、水夫四、五人、久しく滞留の折柄、日本の軍艦がサンフランシスコに航海と聞き、幸便だから之に乗て帰国したいと云うので、その事が定まろうとすると、日本の乗組員は米国人と一緒に乗るのは厭だと云う。何故かと云うに、若しその人達を連れて帰れば、却て銘々共が亜米利加人に連れて行て貰たように思われて、日本人の名誉に係るから乗せないと剛情を張る。夫れ是れで政府も余程困た様子でありしが、到頭ソレを無理圧付けにして同船させたのは、政府の長老も内実は日本士官の伎倆を覚束なく思い、一人でも米国の航海士が同船したらばマサカの時に何かの便利になろうと云う老婆心であったと思われる。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・浦賀に上陸して酒を飲む咸臨丸の出帆は万延元年の正月で、品川沖を出て先ず浦賀に行た。同時に日本から亜米利加に使節が立て行くので、亜米利加からその使節の迎船が来た。ポーハタンと云うその軍艦に乗て行くのであるが、そのポーハタンは後から来ることになって、咸臨丸は先に出帆して先ず浦賀に泊た。浦賀に居て面白い事がある。船に乗組で居る人は皆若い人で、もう是れが日本の訣別であるから浦賀に上陸して酒を飲もうではないかと云出した者がある。何れも同説で、夫れから陸に上て茶屋見たような処に行て、散々酒を飲でサア船に帰ると云う時に、誠に手癖の悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上に嗽茶椀が一つあった、是れは船の中で役に立ちそうな物だと思て、一寸と私が夫を盗で来た。その時は冬の事で、サア出帆した所が大嵐、毎日々々の大嵐、なか/\茶椀に飯を盛て本式に喫べるなんと云うことは容易な事ではない。所が私の盗だ嗽茶椀が役に立て、その中に一杯飯を入れて、その上に汁でも何でも皆掛けて、立て喰う。誠に世話のない話で、大層便利を得て、亜米利加まで行て、帰りの航海中も毎日用いて、到頭日本まで持て帰て、久しく私の家にゴロチャラして居た。程経て聞けばその浦賀で上陸して飲食いした処は遊女屋だと云う。夫れはその当時私は知らなかったが、そうして見ると彼の大きな茶椀は女郎の嗽茶椀であったろう。思えば穢ないようだが、航海中は誠に調法、唯一の宝物であったのが可笑しい。
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