福翁自伝 / 攘夷論・松木、五代、埼玉郡に潜む(2)
清水は昨夜から待て居るので万事の都合宜く、その船宿に二晩窃に泊て、夫れから清水の故郷武州埼玉郡羽生村まで二人を連れて来て、其処も何だか気味が悪いと云うので、又その清水の親類で奈良村に吉田一右衛門と云う人がある、その別荘に移して、此処は極淋しい処で見付かるような気遣いはないと安心して二人とも収め込んで仕舞い、五代はその後五、六ヶ月して窃に長崎の方に行き、松木は凡そ一年ばかりも其処に居る中に、本藩の方でも松木の事を心頭に掛けてその所在を探索し、大久保、岩下、重野を始めとして、江戸の薩州屋敷には肥後七左衛門、南部弥八など云う人が様々周旋の末、これは清水卯三郎が知て居はしないかと思い付て、清水の処に尋ねに来た。所が清水はドウも怖くて云われない、不意と捕まえられて首を斬られるのではなかろうかと思て真実が吐かれない。一応は唯知らぬと答えたれども、薩摩の方では中々疑て居る様子。爾うかと思うと時としては幕府の方からも清水の家に尋ねに来る。ソコで清水も当惑して、如何しようとも考えが付かない。殺さないなら早く出して遣りたいが、殺すような事なら今まで助けて置たものだから出したくないと、自分の思案に余て、夫れから江戸の洋学の大家川本幸民先生は松木の恩師であるから、この大先生の意見に任せようと思て相談に行た所が、先生の説に、「ソリャ出すが宜かろう、薩藩人が爾う云うなら有のまゝに明して渡して遣るが宜かろう、マサカ殺しもしなかろうと云うので、ソコで始めて決断して清水の方から薩人に通知して、実は初めから何も斯も自分が世話をした事で一切知て居る、早速御引渡し申すが、只約束は決して本人を殺さぬようにと念を押して、ソコデ松木が始めて薩人に面会して、この時から松木弘安を改めて寺島陶蔵と化けたのです。右の一条は薩州の方でも甚だ秘密にして、事実を知て居る者は藩中に唯七人しかないと清水が聞たそうだが、その七人とは多分大久保、岩下なぞでしょう。
書き下し
清水は昨夜から待て居るので万事の都合宜く、その船宿に二晩窃に泊て、夫れから清水の故郷武州埼玉郡羽生村まで二人を連れて来て、其処も何だか気味が悪いと云うので、又その清水の親類で奈良村に吉田一右衛門と云う人がある、その別荘に移して、此処は極淋しい処で見付かるような気遣いはないと安心して二人とも収め込んで仕舞い、五代はその後五、六ヶ月して窃に長崎の方に行き、松木は凡そ一年ばかりも其処に居る中に、本藩の方でも松木の事を心頭に掛けてその所在を探索し、大久保、岩下、重野を始めとして、江戸の薩州屋敷には肥後七左衛門、南部弥八など云う人が様々周旋の末、これは清水卯三郎が知て居はしないかと思い付て、清水の処に尋ねに来た。所が清水はドウも怖くて云われない、不意と捕まえられて首を斬られるのではなかろうかと思て真実が吐かれない。一応は唯知らぬと答えたれども、薩摩の方では中々疑て居る様子。爾うかと思うと時としては幕府の方からも清水の家に尋ねに来る。ソコで清水も当惑して、如何しようとも考えが付かない。殺さないなら早く出して遣りたいが、殺すような事なら今まで助けて置たものだから出したくないと、自分の思案に余て、夫れから江戸の洋学の大家川本幸民先生は松木の恩師であるから、この大先生の意見に任せようと思て相談に行た所が、先生の説に、「ソリャ出すが宜かろう、薩藩人が爾う云うなら有のまゝに明して渡して遣るが宜かろう、マサカ殺しもしなかろうと云うので、ソコで始めて決断して清水の方から薩人に通知して、実は初めから何も斯も自分が世話をした事で一切知て居る、早速御引渡し申すが、只約束は決して本人を殺さぬようにと念を押して、ソコデ松木が始めて薩人に面会して、この時から松木弘安を改めて寺島陶蔵と化けたのです。右の一条は薩州の方でも甚だ秘密にして、事実を知て居る者は藩中に唯七人しかないと清水が聞たそうだが、その七人とは多分大久保、岩下なぞでしょう。
現代語訳
清水は前の晩から待っていたので万事都合がよく、その船宿に二晩ひそかに泊まって、それから清水の故郷の武州埼玉郡羽生村まで二人を連れてきて、そこもなんとなく気味が悪いというので、また清水の親類で奈良村に吉田一右衛門という人がいて、その別荘に移し、ここはきわめて寂しい所で見つかるような心配はないと安心して、二人とも身を隠し、五代はその後五、六か月してひそかに長崎の方に行き、松木はおよそ一年ばかりもそこにいるうちに、薩摩の本藩の方でも松木のことを気にかけてその所在を探索し、大久保、岩下、重野をはじめとして、江戸の薩州屋敷には肥後七左衛門、南部弥八などという人がさまざまに周旋したすえ、これは清水卯三郎が知っているのではないかと思いつき、清水のところに尋ねに来ました。ところが清水はどうも怖くて言えない、不意に捕まえられて首を斬られるのではなかろうかと思って、真実が言えません。いったんは知らないと答えましたが、薩摩の方ではなかなか疑っている様子。そうかと思うと、時には幕府の方からも清水の家に尋ねに来る。そこで清水も困って、どうしようとも考えがつきません。殺さないなら早く出してやりたいが、殺すようなことなら今まで助けておいたものだから出したくないと、自分の思案に余って、それから江戸の洋学の大家の川本幸民先生は松木の恩師なので、この大先生の意見に任せようと思って相談に行ったところ、先生の説に、「それは出したがよかろう、薩摩の人がそう言うなら、ありのままに明かして渡してやるがよかろう、まさか殺しもしなかろう」というので、そこで初めて決断して、清水の方から薩摩の人に通知し、実は初めから何もかも自分が世話をしたことで一切知っている、早速お引き渡しするが、ただ約束は決して本人を殺さぬようにと念を押して、そこで松木が初めて薩摩の人に面会して、この時から松木弘安を改めて寺島陶蔵と化けたのです。この一件は薩摩の方でも非常に秘密にして、事実を知っている者は藩中にただ七人しかないと、清水が聞いたそうですが、その七人とは多分、大久保、岩下などでしょう。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・攘夷論・松木、五代、埼玉郡に潜む(1)扨夫れから私の気になる松木、即ち寺島の話は斯う云う次第である。松木、五代が薩摩の船から英の軍艦に乗移た所が、清水が居たので松木も驚いた。清水と云う男は以前江戸にて英書の不審を松木に聞て居たこともある至極懇意な間柄で、その清水が英の軍艦に居るから松木の驚くも無理はない。「イヤ如何して此処に居るか。「お前さんは如何して又此処に来たと云うような訳けで、大変好都合であった。ソコで横浜に来たけれども、この儘に何時迄もこの船の中に居られるものでない。マア如何かして上陸したい、と云うその事に付ては清水卯三郎が一切引受ける。それは松木と五代は極々日蔭者で、青天白日の身と云うのは清水一人、そこで清水が先ず横浜に上て、夫れから亜米利加人のヴエンリートと云う人にその話をした所が、如何でも周旋しよう、兎に角に艀船に乗て神奈川の方に上る趣向に為よう、その船も何も世話をして遣ろうと云うことになった。所でアドミラルが如何云うかソレに聞て見なければならぬので、アドミラルにその事を話すと至極寛大で、上陸差支なしと云うので、ソレカラ一切万事、清水とヴエンリートと諜し合せて、落人両人の者は夜分窃にその艀船に乗り移り、神奈川以東の海岸から上る積りに用意した所が、その時には横浜から江戸に来る街道一町か二町目毎に今の巡査交番所見たようなものがずっと建て居て、一人でも径しいものは通行を咎めると云うことになって居るから、なか/\大小などを挟して行かれるものでない。ソコで大小も陣笠も一切の物はヴエンリートの家に預けて、丸で船頭か百姓のような風をして、小舟に乗込み、舟は段々東に下てとう/\羽根田の浜から上陸して、ソレカラ道中は忍び忍んで江戸に這入るとした所で、マダ幕府の探偵が甚だ恐ろしい。只の宿屋には泊られないから、江戸に這入たらば堀留の鈴木と云う船宿に清水が先へ行て待て居るから其処へ来いと云う約束がしてある。ソコで両人は夜中勝手も知れぬ海浜に上陸して、探り/″\に江戸の方に向て足を進める中に夜が明けて仕舞い、コリャ大変と夫れから駕籠に乗て面を隠して堀留の船宿に来たのがその翌日の昼であった。
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福翁自伝・攘夷論・始めて松木に逢うその時は既に文久四年となり、四年の何月かドウモ覚えない、寒い時ではなかった、夏か秋だと思いますが、或日肥後七左衛門が不意と私方に来て、松木が居るが、お前の処に来ても差支はないかと云う。私は実に驚いた。去年からモウ気になって居て、箕作と遇いさえすればその噂をして居たが、生きて居たか。「確かに生きて居る。「何処に居るか。「江戸に居る、兎に角に此処に来て宜いか。「宜いとも、大宜しだ。何も憚ることはない、少しも構わない、直ぐに逢いたいと云うと、その翌日松木が出て来た。誠に冥土の人に遭たような気がして、ソレカラいろ/\な話を聞て、清水と一緒になったと云うことも分れば何も箇も分て仕舞た。その時、私は新銭座に居ましたが、マア久振りで飲食を共にして、何処に居るかと聞けば、白銀台町に曹某と云う医者がある、その家は寺島の内君の里なので、その縁で曹の家に潜んで居ると云う。その日は先ずその儘分れて、夫れから私は直ぐに箕作の処に事の次第を云て遣て、箕作も直ぐその翌日出て来て両人同道して白銀の曹の家に行き、三友団座昼から晩までいろ/\な事を話すその中に、例の麑島戦争の話などもあって、その戦争の事に就てはマダ/″\いろ/\面白い事があるけれども、長くなるから此処で之を略し、扨寺島の身の上は如何だと云うに、薩摩の方は大抵是れで宜しいがマダ幕府の意向が分らない、けれども是れとても別段に幕府の罪人でもないから爾う恐れる事もない訳け。ソコで寺島は何をして喰て居るかと聞けば、今は本藩の飜訳などして居ると云う。それこれの話の中に寺島が云うには、モウ/\鉄砲は嫌だ/\、今でも乃公は鉄砲の音がドーンと鳴ると頭の中がズーンとして来る、モウ嫌だぜ/\、乃公は思い出しても身がブル/\ッとする、夫れから又その船の火薬庫に導火を点けるときは随分気味の悪い話だった、だが命拾いをしたその時、懐中に金が二十五両あったからその金を持て上陸したと云う。いろ/\の話の中に英人が薩摩湾に碇泊中菓物が欲しいと云うと、薩摩人が之を進上する風をしてその機に乗じて斬込もうとして出来なかったと云うような種々様々な話がありますが、それはマア止めにして錨の話。
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福翁自伝・攘夷論・松木、五代、英艦に投ずそれは扨置き茲に薩摩の船を二艘此方に引張て来ると云う時に、その船長の松木弘安(後に寺嶋陶蔵又後に宗則)、五代才助(後に五代友厚)の両人が、船奉行と云う名義で云わば船長である。ソコで英の軍艦が二艘の船を引張て来ようと云うその時に、乗込の水夫などは其処から上陸させたが、船長二人だけは英艦の方に投じた。投じたけれども自分の船から出るときに、実は松木と五代と申し談じて窃にその船の火薬車に導火を点けて置たから、間もなく船は二艘とも焼けて仕舞た。夫れは夫れとして、扨松木に五代と云うものは捕虜でもなければ御客でもない、何しろ英の軍艦に乗込んで横浜に来たに違はない。その事は横浜の新聞紙にも出て居たのであるが、ソレ切り少しも消息が分らない。私はその前年松木と欧羅巴に一緒に行たのみならず、以前から私と箕作と松木と云うものは甚だ親しい朋友の間柄で、ソコで松木が英船に乗たと云うが如何したろうかと只その噂をするばかりで尋ねる所もない。英人が若しこの両人を薩摩の方へ還せば、ソリャもう若武者共が直ぐに殺すに極て居る。然ればと云て之を幕府の方に渡せば、殺さぬまでもマア嫌疑の筋があるとか取調べる廉があるとか云て取敢えず牢には入れるだろう。所が今日まで薩摩に還したと云う沙汰もなければ、幕府に引渡したと云う様子もない。如何したろうか、如何にも不審な事じゃと唯箕作と私と始終その話をして居た。所が凡そこの事が済んで一年ばかり経てから、不意とその松木を見付け出したこそ不思議の因縁である。
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福翁自伝・攘夷論・薩人、英人と談判松木の話は次にして置て、横浜に英吉利の軍艦が帰て来た跡で、薩摩から談判の為めに江戸に人が出て来た。その江戸に人の出て来たと云うのは、岩下佐治右衛門、重野孝之丞(後に安繹)、その外に黒幕見たような役目を帯びて来たのが大久保市蔵(後に利通)、その三人が出て来た処で、第一番に薩摩の望む所は兎にも角にもこの戦争を暫く延引して貰いたいと云う注文なれども、その周旋を誰に頼むと云う手掛りもなく当惑の折柄、こゝに一人の人があるその一人と云うのは清水卯三郎(瑞穂屋卯三郎)と云う人で、この人は商人ではあるけれども英書も少し読み西洋の事に付ては至極熱心、先ず当時に於てはその身分に不似合な有志者である。初め英艦が薩摩に行こうと云うときに、若し薩摩の方から日本文の書翰を出されたときには之を読むに困る。通弁にはアレキサンドル・シーボルトがあるから差支ないけれども、日本文の書翰を颯々と読む人がない、と云うので英人から同行を頼まれた。清水は平生勇気もあり随分そんな事の好きな人で、夫れは面白い行て見ようと容易承諾し、横浜税関の免状を申受けて旗艦に乗込み、先方に着して親しく戦争をも見物したその縁があるので、今度薩州の人が江戸に来て英人との談判に付き、黒幕の大久保市蔵は取敢えず清本卯三郎を頼み、兎に角にこの戦争を暫く延引して貰いたいと云う事を、在横浜の英公使ジョン・ニールに掛合うことにした。ソコで清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けてその話を申込んだ所が、取次の者の言うに、斯る重大事件を談ずるに商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たら宜かろうと云うから、清水は之を押し返し、人に大小軽重はない、談判の委任を受けて居れば沢山だ、夫れでも拙者と話は出来ないかと少しく理屈を云た所が、そう云う訳けなら直ぐに遇うと云うので、夫れから公使に面会して戦争中止の事を話掛けると、なか/\聞きそうにも為ない。イヤもう既に印度洋から軍艦を増発して何千の兵士は唯今支度最中、然るにこの戦争の時期を延して待つなどゝは謂れのない話だ云々と、思うさま威嚇して聞きそうな顔色がない。ソコで清水はその挨拶を承って薩人に報告すると、重野が、迚もこりゃ六かしそうだ、兎に角に自分達が自から談判して見ようと云て、遂に薩英談判会を開き、種々様々問答の末、とう/\要求通りの償金を払う事になり、高は二万五千磅、時の相場にして凡そ七万両ぐらいに当り、その七万両の金は内実幕府から借用して、そうして島津薩摩守の名義では払われないと云うので、分家の島津淡路守の名を以て金を渡すことにして、且つ又リチャルドソンを殺した罪人は何分にも何処にか逃げて分らないから、若し分たらば死刑と云うことで以て事が収まった。その談判の席には大久保市蔵は出ない。岩下と重野の両人、それから幕府の外国方から鵜飼弥市、監察方から斎藤金吾と云う人が立会い、いよ/\書面を取換して事のすっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔日か二日頃であった。
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福翁自伝・雑記・独立敢て新事例を開く(5)サア今藩主に話をして来たがドウだ。藩主は大参事次第だと確かに申された。然らば則ち生殺はお前さんの手中にある、殺す気か、殺さぬ気か。仮しや殺す積りで捜し出そうと云ても決して出る気遣いはない。私はちゃんと居処を知て居る、捜せるなら試みに捜して見るが宜い、捕縛すると云うなら私の力の有らん限り隠蔽して見せよう、出来るだけ摘発して見なさい、何時まで経ても無益だ。そんな事をして人を苦しめないでも宜いだろうと、裏表から色々話すと、大参事にも言葉がない。いよ/\助ける、助けるけれども薩州辺りから何とか口を添えて呉れると都合が宜いなんて又弱い事を云うから、宜しいと云い棄てゝ、夫れから私は薩州の屋敷に行て、斯う/\云う次第柄だから助けて遣て呉れぬかと云うと、大藩とか強藩とか云うので口を出すのは実は迷惑な話だが、何も六かしい事はない、宮内省に弁事と云うものがあるから、その者に就て政府の内意を聞て上げるからと云て、薩摩の公用人が政府の内意を聞て、私の処に報知して呉れたには、兎も角も自訴させるが宜しい、自訴すれば八十日の禁錮ですっかり罪は滅びて仕舞うと云うことが分た。夫れから念の為め私は又仙台の屋敷に行て大参事に面会して、政府の方は自訴すれば八十日と極て居るが、之にお負けが付きはしないか、自訴と云えばこの屋敷に自訴するのであるが、この屋敷で本藩の私を以て八十日を八年にして遣ろうなんと云うお負けを遣りはしないか、ソレを確かに約束しなければ玉は出されないと、念に念を入れて問答を重ね、最後には若し違約すれば復讐するとまで脅迫して、いよ/\大丈夫と安心して、ソレからその翌日両人を連れて日比谷の屋敷に行た、所が屋敷の役所見たような処には罪人、大童、松倉の旧時の属官ばかりが列んで居るだろう、罪人の方が余程エライ、オイ貴様はドウして居るのだと云うような調子で、私は側から見て可笑しかった。夫れから宇田川町の仙台屋敷の長屋の二階に八十日居て、ソレで事が済んで、ソレから二人は晴天白日、外を歩くようになって、その後は今日に至るまでも旧の通りに交際して互に文通して居ます。生涯変らぬ事でしょう。只この事たるや仙台藩の無気力残酷を憤ると同時に、藩中稀有の名士が不幸に陥りたるを気の毒に感じたからのことで、随分彼方此方と歩き廻りましたが、口で云えば何でもないけれども、人力車のある時節ではなし、一切歩いて行かなければならぬから中々骨が折れました。
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