福翁自伝 / 欧羅巴各国に行く・旅行中用意の品々失策又失策(1)
日本出発前に外国は何でも食物が不自由だからと云うので、白米を箱に詰めて何百箱の兵糧を貯え、又旅中止宿の用意と云うので、廊下に灯す金行灯=二尺四方もある鉄網作りの行灯を何十台も作り、その外提灯、手燭、ボンボリ、蝋燭等に至るまで一切取揃えて船に積込んだその趣向は、大名が東海道を通行して宿駅の本陣に止宿する位の胸算に違いない。夫れからいよ/\巴里に着して、先方から接待員が迎いに出て来ると、一応の挨拶終りて先ず此方よりの所望は、随行員も多勢なり荷物も多いことゆえ、下宿は成るべく本陣に近い処に頼むと云うのは、万事不取締不安心だから、一行の者を使節の近処に置きたいと云う意味でしょう。スルト接待員はいさい承知して、先ず人数を聞糺し、惣勢三十何人と分て、「是ればかりの人数なれば一軒の旅館に十組や二十組は引受けますとの答に、何の事やら訳けが分らぬ。ソレカラ案内に連られて止宿した旅館は、巴里の王宮の門外にあるホテルデロウブルと云う広大な家で、五階造り六百室、婢僕五百余人、旅客は千人以上差支なしと云うので、日本の使節などは何処に居るやら分らぬ。唯旅館中の廊下の道に迷わぬように、当分はソレガ心配でした。各室には温めた空気が流通するから、ストーヴもなければ蒸気もなし、無数の瓦斯灯は室内廊下を照らして日の暮るゝを知らず、食堂には山海の珍味を並べて、如何なる西洋嫌いも口腹に攘夷の念はない、皆喜んで之を味うから、爰に手持不沙汰なるは日本から脊負て来た用意の品物で、ホテルの廊下に金行灯を点けるにも及ばず、ホテルの台所で米の飯を炊くことも出来ず、とう/\仕舞には米を始め諸道具一切の雑物を、接待掛りの下役のランベヤと云う男に進上して、唯貰て貰うたのも可笑しかった。
書き下し
日本出発前に外国は何でも食物が不自由だからと云うので、白米を箱に詰めて何百箱の兵糧を貯え、又旅中止宿の用意と云うので、廊下に灯す金行灯=二尺四方もある鉄網作りの行灯を何十台も作り、その外提灯、手燭、ボンボリ、蝋燭等に至るまで一切取揃えて船に積込んだその趣向は、大名が東海道を通行して宿駅の本陣に止宿する位の胸算に違いない。夫れからいよ/\巴里に着して、先方から接待員が迎いに出て来ると、一応の挨拶終りて先ず此方よりの所望は、随行員も多勢なり荷物も多いことゆえ、下宿は成るべく本陣に近い処に頼むと云うのは、万事不取締不安心だから、一行の者を使節の近処に置きたいと云う意味でしょう。スルト接待員はいさい承知して、先ず人数を聞糺し、惣勢三十何人と分て、「是ればかりの人数なれば一軒の旅館に十組や二十組は引受けますとの答に、何の事やら訳けが分らぬ。ソレカラ案内に連られて止宿した旅館は、巴里の王宮の門外にあるホテルデロウブルと云う広大な家で、五階造り六百室、婢僕五百余人、旅客は千人以上差支なしと云うので、日本の使節などは何処に居るやら分らぬ。唯旅館中の廊下の道に迷わぬように、当分はソレガ心配でした。各室には温めた空気が流通するから、ストーヴもなければ蒸気もなし、無数の瓦斯灯は室内廊下を照らして日の暮るゝを知らず、食堂には山海の珍味を並べて、如何なる西洋嫌いも口腹に攘夷の念はない、皆喜んで之を味うから、爰に手持不沙汰なるは日本から脊負て来た用意の品物で、ホテルの廊下に金行灯を点けるにも及ばず、ホテルの台所で米の飯を炊くことも出来ず、とう/\仕舞には米を始め諸道具一切の雑物を、接待掛りの下役のランベヤと云う男に進上して、唯貰て貰うたのも可笑しかった。
現代語訳
日本出発前に、外国は何でも食べ物が不自由だからというので、白米を箱に詰めて何百箱もの兵糧を蓄え、また旅中の宿泊の用意として、廊下に灯す金行灯、これは二尺四方もある鉄網作りの行灯ですが、それを何十台も作り、そのほか提灯、手燭、ぼんぼり、蝋燭に至るまで一切取りそろえて船に積み込みました。その趣向は、大名が東海道を通行して宿駅の本陣に泊まる程度の胸算用に違いありません。それからいよいよパリに着いて、先方から接待員が迎えに出てくると、ひととおりの挨拶が終わって、まずこちらからの希望として、随行員も大勢で荷物も多いことだから、宿は本陣になるべく近いところに頼むと言いました。というのは、万事不取り締まりで不安だから、一行の者を使節の近所に置きたいという意味でしょう。すると接待員は細かく承知して、まず人数を聞きただし、総勢三十何人と分かると、「これだけの人数なら、一軒の旅館に十組や二十組は引き受けます」という答えで、何のことやら訳が分かりません。それから案内に連れられて泊まった旅館は、パリの王宮の門外にあるホテル・デュ・ルーヴルという広大な建物で、五階造り六百室、使用人五百余人、旅客は千人以上差し支えなしということで、日本の使節などはどこにいるやら分かりません。ただ旅館の中の廊下の道に迷わないよう、当分はそれが心配でした。各室には温めた空気が流通するので、ストーブもなければ蒸気もなく、無数のガス灯が室内や廊下を照らして、日の暮れるのも知らず、食堂には山海の珍味が並び、どんな西洋嫌いも口腹に攘夷の念はなく、みな喜んでこれを味わいました。そこで手持ちぶさたなのは日本から背負ってきた用意の品物で、ホテルの廊下に金行灯を点ける必要もなく、ホテルの台所で米の飯を炊くこともできず、とうとう最後には、米をはじめ諸道具一切の雑物を、接待係の下役のランベーという男に進上して、ただもらってもらったのもおかしなことでした。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・欧羅巴各国に行く・欧羅巴各国に行く(2)それから欧羅巴に行くと云うことになって、船の出発したのは文久元年十二月の事であった。この度の船は日本の使節が行くと云う為めに、英吉利から迎船のようにして来たオーヂンと云う軍艦で、その軍艦に乗て香港、新嘉堡と云うような印度洋の港々に立寄り、紅海に這入て、蘇士から上陸して蒸気車に乗て、埃及のカイロ府に着て二晩ばかり泊り、それから地中海に出て、其処から又船に乗て仏蘭西の馬塞耳、ソコデ蒸汽車に乗て里昂に一泊、巴里に着て滞在凡そ二十日、使節の事を終り、巴里を去て英吉利に渡り、英吉利から和蘭、和蘭から普魯西の都の伯林に行き、伯林から露西亜のペートルスボルグ、夫れから再び巴里に帰て来て、仏蘭西から船に乗て、葡萄牙に行き、ソレカラ地中海に這入て、元の通りの順路を経て帰て来たその間の年月は凡そ一箇年、即ち文久二年一杯、推詰てから日本に帰て来ました。 扨今度の旅行に就て申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語ると云うことが徐々出来て、夫れから前に申す通りに金も聊か持て居るその金は何も遣い所はないから、只日本を出る時に尋常一様の旅装をした丈けで、その当時は物価の安い時だから何もそんなに金の要る訳けがない、その余た金は皆携えて行て竜動に逗留中、外に買物もない、唯英書ばかりを買て来た。是れが抑も日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったと云うのも是れからの事である。 夫れから彼の国の巡回中色々観察見聞したことも多いが、是れは後の話にして、先ず使節一行の有様を申さんに、その人員は、 竹内下野守(正使)松平石見守(副使)京極能登守(御目付)柴田貞太郎(組頭)日高圭三郎(御勘定)福田作太郎(御徒士目付)水品楽太郎(調役)岡綺藤左衛門(同)高嶋祐啓(御医師但し漢方医なり)川崎道民(雇医)益頭駿次郎(御普請役)上田友助(定役元締)森鉢太郎(定役)福地源一郎(通弁)立広作(同)太田源三郎(同)斎藤大之進(同心)高松彦三郎(御小人目付)山田八郎(同)松木弘安(反訳方)箕作秋坪(同)福澤諭吉(同) 右の外に三使節の家来両三人ずつと、賄小使六、七人、この小使の中には内証で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福澤等は先ず役人のような者ではあるが、大名の家来、所謂陪臣の身分であるから、一行中の一番下席で惣人数凡そ四十人足らず、孰れも日本服に大小を横えて巴里、竜動を闊歩したも可笑しい。
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福翁自伝・欧羅巴各国に行く・旅行中用意の品々失策又失策(2)先ずこんな塩梅式だから、吾々一行の失策物笑いは数限りもない。シガーとシュガーを間違えて烟草を買いに遣て砂糖を持て来るもあり、医者は人参と思て買て来て生姜の粉であったこともある。又或るときに三使節中の一人が便所に行く、家来がボンボリを持て御供をして、便所の二重の戸を明放しにして、殿様が奥の方で日本流に用を達すその間、家来は袴着用、殿様の御腰の物を持て、便所の外の廊下に平き直てチャント番をして居るその廊下は旅館中の公道で、男女往来織るが如くにして、便所の内外瓦斯の光明昼よりも明なりと云うから堪らない。私は丁度其処を通り掛て、驚いたとも驚くまいとも、先ず表に立塞がって物も言わずに戸を打締めて、夫れからそろ/\その家来殿に話したことがある。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・敷物に驚く所が此方は一切万事不慣れで、例えば馬車を見ても始めてだから実に驚いた。其処に車があって馬が付て居れば乗物だと云うことは分りそうなものだが、一見したばかりでは一寸と考が付かぬ。所で戸を開けて這入ると馬が駈出す。成程是れは馬の挽く車だと始めて発明するような訳け。何れも日本人は大小を挟して穿物は麻裏草履を穿て居る。ソレでホテルに案内されて行て見ると、絨氈が敷詰めてあるその絨氈はどんな物かと云うと、先ず日本で云えば余程の贅沢者が一寸四方幾干と云て金を出して買うて、紙入にするとか莨入にするとか云うようなソンナ珍らしい品物を、八畳も十畳も恐ろしい広い処に敷詰めてあって、その上を靴で歩くとは、扨々途方もない事だと実に驚いた。けれども亜米利加人が往来を歩いた靴の儘で颯々と上るから此方も麻裏草履でその上に上た。上ると突然酒が出る。徳利の口を明けると恐ろしい音がして、先ず変な事だと思うたのはシャンパンだ。そのコップの中に何か浮て居るのも分らない。三、四月暖気の時節に氷があろうとは思いも寄らぬ話で、ズーッと銘々の前にコップが並んで、その酒を飲む時の有様を申せば、列座の日本人中で、先ずコップに浮いて居るものを口の中に入れて胆を潰して吹出す者もあれば、口から出さずにガリ/″\噛む者もあると云うような訳けで、漸く氷が這入て居ると云うことが分った。ソコで又煙草を一服と思た所で、煙草盆がない、灰吹がないから、そのとき私はストーヴの火で一寸と点けた。マッチも出て居たろうけれどもマッチも何も知りはせぬから、ストーヴで吸付けた所が、どうも灰吹がないので吸殻を棄る所がない。夫れから懐中の紙を出してその紙の中に吸殻を吹出して、念を入れて揉で/\火の気のないように捩付けて袂に入れて、暫くして又後の一服を遣ろうとするその時に、袂から煙が出て居る。何ぞ図らん、能く消したと思たその吸殻の火が紙に移て煙が出て来たとは大に胆を潰した。
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福翁自伝・欧羅巴各国に行く・見物自由の中又不自由夫れは扨居き、私がこの前亜米利加に行たときには、カリフ※ルニヤ地方にマダ鉄道がなかったから、勿論鉄道を見たことがない、けれども今度は蘇士に上て始めて鉄道に乗り、ソレカラ欧羅巴各国を彼方此方と行くにも皆鉄道ばかり、到る処に歓迎せられて、海陸軍の場所を始めとして、官私の諸工場、銀行会社、寺院、学校、倶楽部等は勿論、病院に行けば解剖も見せる、外科手術も見せる、或は名ある人の家に晩餐の饗応、舞踏の見物など、誠に親切に案内せられて、却て招待の多いのに草臥れると云う程の次第であったが、唯こゝに一つ可笑しいと云うのは、日本はその時丸で鎖国の世の中で、外国に居ながら兎角外国人に遇うことを止めようとするのが可笑しい。使節は竹内、松平、京極の三使節、その中の京極は御目附と云う役目で、ソレには又相応の属官が幾人も附て居る。ソレが一切の同行人を目ッ張子で見て居るので、なか/\外国人に遇うことが六かしい。同行者は何れも幕府の役人連で、その中に先ず同志同感、互に目的を共にすると云うのは箕作秋坪と松木弘安と私と、この三人は年来の学友で互に往来して居たので、彼方に居てもこの三人だけは自然別なものにならぬ。何でも有らん限りの物を見ようと計りして居る、ソレが役人連の目に面白くないと見え、殊に三人とも陪臣で、然かも洋書を読むと云うから中々油断をしない。何か見物に出掛けようとすると、必ず御目附方の下役が附いて行かなければならぬと云う御定まりで始終附て廻る。此方は固より密売しようではなし、国の秘密を洩らす気遣いもないが、妙な役人が附て来れば只蒼蠅い。蒼蠅いのはマダ宜いが、その下役が何か外に差支があると、私共も出ることが出来ない。ソレは甚だ不自由でした。私はその時に==是れはマア何の事はない、日本の鎖国をそのまゝ担いで来て、欧羅巴各国を巡回するようなものだと云て、三人で笑たことがあります。
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福翁自伝・攘夷論・米と味噌と大失策夫れから又可笑しい事がある。私の考えに、是れは何でも戦争になるに違いないから、マア米を買おうと思て、出入の米屋に申付けて米を三十俵買て米屋に預け、仙台味噌を一樽買て納屋に入れて置た。所が期日が切迫するに従て、切迫すればするほど役に立たないものは米と味噌、その三十俵の米を如何すると云うた所が、担いで行かれるものでもなければ、味噌樽を背負て駈けることも出来なかろう。是れは可笑しい、昔は戦争のとき米と味噌があれば宜いと云たが、戦争の時ぐらい米と味噌の邪魔になるものはない、是れはマア逃げる時はこの米と味噌樽は棄てゝ行くより外はないと云て、その騒動の真盛りに大笑いを催した事がある。その時にも新銭座の家に学生が幾人か居て、私はその時二分金で百両か百五十両持て居たから、この金を独りで持て居ても策でない、イザと云えば誰が何処にどう行くか分らない、金があれば先ず餒えることはないから、この金は私が一人で持て居るよりか、家内が一人で持て居るよりか、是れは銘々に分けて持つが宜かろうと云うので、その金を四つか五つに分けて、頭割にして銘々ソレを腰に巻て行こうと、用意金の分配まで出来て、明日か明後日は愈よ戦争の始まり、外に道はないと覚悟した所が、茲に幸な事があると云うのは、その時に唐津の殿様で小笠原壹岐守と云う閣老がある。夫れから横浜に浅野備前守と云う奉行がある。
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『論語と算盤』実業と士道・天然の抵抗を征服せよさてそのごとく世界は広大無辺のものなれば、とても我々の人智では容易にこれを究むることのできるもので無いとしていたのである。しかるに文明の進歩とともに交通機関が発達して来たために、地球の面積は漸次に減縮せられ、最近の半世紀間においては、ほとんど隔世の感がある。顧みれば千八百六十七年、ナポレオン第三世が在位の時に当たり、フランスのパリに世界大博覧会の開かるるに際し、我が徳川幕府よりは将軍の親弟徳川民部大輔を特命使節として差遣せられ、余は随行員の一人として渡欧したのであるが、当時一行の者は横浜よりフランス郵船に乗りインド洋および紅海を経てスエズの地峡に到りしに、フランス人レセップス氏の経営に係る同所開鑿の一大工事は、すでに着手せられていたけれども、いまだ成就しなかったがため、一行は船を棄てて地峡に上り、鉄道によりてエジプトを横断し、「カイロー」を経て「アレキサンドリヤ」に出で、再び乗船して地中海を航し、横浜出帆以来五十五日にして、初めてフランスの「マルセーユ」に到着したのであった。かくて翌年の冬期に帰朝する時にそこを過ぎたが、なお運河の工事は竣成の運びに至らなかった。
人生を、一行の式にしてみた。
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