福翁自伝 / 欧羅巴各国に行く・欧羅巴各国に行く(1)
私が亜米利加から帰たのは万延元年、その年に華英通語と云うものを飜訳して出版したことがある。是れが抑も私が出版の始まり、先ずこの両三年間と云うものは、人に教うると云うよりも自分で以て英語研究が専業であった。所が文久二年の冬、日本から欧羅巴諸国に使節派遣と云うことがあって、その時に又私はその使節に附て行かれる機会を得ました。この前亜米利加に行く時には私に木村摂津守に懇願して、その従僕と云うことにして連れて行て貰たが、今度は幕府に雇われて居て欧羅巴行を命ぜられたのであるから、自から一人前の役人のような者になって、金も四百両ばかり貰たかと思う。旅中は一切官費で、只手当として四百両の金を貰たから、誠に世話なし。ソコで私は平生頓と金の要らない男で、徒に金を費すと云うことは決してない。四百両貰たその中で百両だけ国に居る母に送てやった。如何にも母に対して気の毒だと云うのは、亜米利加から帰てマダ国へ親の機嫌を聞きに行きもせずに、重ねて欧羅巴に行くと云うのだから、如何にも済まない。而已ならず私が亜米利加旅行中にも、郷里中津の者共が色々様々な風聞を立てゝ、亜米利加に行て彼の地で死んだと云い、甚だしきに至れば現在の親類の中の一人が私共の母に向て、誠に気の毒な事じゃ、諭吉さんもとう/\亜米利加で死んで、身体は醢けにして江戸に持て帰たそうだなんと、威すのか冷すのかソンな事まで云て母を嬲て居たと云うような事で、是れも時節柄で我慢して黙て居るより外に仕方がないとして居ながら、母に対しては如何にも気が済まない。金をやったからと云てソレで償える訳けのものではないけれども、マア/\百両だの二百両だのと云う金は生れてから見たこともない金だから、ソレでも送て遣ろうと思て、幕府から請取た金を分けて送りました。
新字:私が亜米利加から帰たのは万延元年、その年に華英通語と云うものを翻訳して出版したことがある。是れが抑も私が出版の始まり、先ずこの両三年間と云うものは、人に教うると云うよりも自分で以て英語研究が専業であった。所が文久二年の冬、日本から欧羅巴諸国に使節派遣と云うことがあって、その時に又私はその使節に附て行かれる機会を得ました。この前亜米利加に行く時には私に木村摂津守に懇願して、その従僕と云うことにして連れて行て貰たが、今度は幕府に雇われて居て欧羅巴行を命ぜられたのであるから、自から一人前の役人のような者になって、金も四百両ばかり貰たかと思う。旅中は一切官費で、只手当として四百両の金を貰たから、誠に世話なし。ソコで私は平生頓と金の要らない男で、徒に金を費すと云うことは決してない。四百両貰たその中で百両だけ国に居る母に送てやった。如何にも母に対して気の毒だと云うのは、亜米利加から帰てマダ国へ親の機嫌を聞きに行きもせずに、重ねて欧羅巴に行くと云うのだから、如何にも済まない。而已ならず私が亜米利加旅行中にも、郷里中津の者共が色々様々な風聞を立てゝ、亜米利加に行て彼の地で死んだと云い、甚だしきに至れば現在の親類の中の一人が私共の母に向て、誠に気の毒な事じゃ、諭吉さんもとう/\亜米利加で死んで、身体は醢けにして江戸に持て帰たそうだなんと、威すのか冷すのかソンな事まで云て母を嬲て居たと云うような事で、是れも時節柄で我慢して黙て居るより外に仕方がないとして居ながら、母に対しては如何にも気が済まない。金をやったからと云てソレで償える訳けのものではないけれども、マア/\百両だの二百両だのと云う金は生れてから見たこともない金だから、ソレでも送て遣ろうと思て、幕府から請取た金を分けて送りました。
書き下し
私が亜米利加から帰たのは万延元年、その年に華英通語と云うものを飜訳して出版したことがある。是れが抑も私が出版の始まり、先ずこの両三年間と云うものは、人に教うると云うよりも自分で以て英語研究が専業であった。所が文久二年の冬、日本から欧羅巴諸国に使節派遣と云うことがあって、その時に又私はその使節に附て行かれる機会を得ました。この前亜米利加に行く時には私に木村摂津守に懇願して、その従僕と云うことにして連れて行て貰たが、今度は幕府に雇われて居て欧羅巴行を命ぜられたのであるから、自から一人前の役人のような者になって、金も四百両ばかり貰たかと思う。旅中は一切官費で、只手当として四百両の金を貰たから、誠に世話なし。ソコで私は平生頓と金の要らない男で、徒に金を費すと云うことは決してない。四百両貰たその中で百両だけ国に居る母に送てやった。如何にも母に対して気の毒だと云うのは、亜米利加から帰てマダ国へ親の機嫌を聞きに行きもせずに、重ねて欧羅巴に行くと云うのだから、如何にも済まない。而已ならず私が亜米利加旅行中にも、郷里中津の者共が色々様々な風聞を立てゝ、亜米利加に行て彼の地で死んだと云い、甚だしきに至れば現在の親類の中の一人が私共の母に向て、誠に気の毒な事じゃ、諭吉さんもとう/\亜米利加で死んで、身体は醢けにして江戸に持て帰たそうだなんと、威すのか冷すのかソンな事まで云て母を嬲て居たと云うような事で、是れも時節柄で我慢して黙て居るより外に仕方がないとして居ながら、母に対しては如何にも気が済まない。金をやったからと云てソレで償える訳けのものではないけれども、マア/\百両だの二百両だのと云う金は生れてから見たこともない金だから、ソレでも送て遣ろうと思て、幕府から請取た金を分けて送りました。
現代語訳
私がアメリカから帰ったのは万延元年で、その年に『華英通語』というものを翻訳して出版しました。これがそもそも私の出版の始まりで、まずこの両三年間というものは、人に教えるというよりも自分で英語を研究するのが専業でした。ところが、文久二年の冬、日本からヨーロッパ諸国に使節を派遣するということがあり、そのときにまた私は、その使節に随行して行く機会を得ました。この前アメリカに行くときは、私が木村摂津守に懇願して、その従僕ということにして連れて行ってもらいましたが、今度は幕府に雇われていてヨーロッパ行きを命ぜられたのですから、おのずから一人前の役人のようなものになり、金も四百両ばかりもらったかと思います。旅中は一切官費で、ただ手当として四百両の金をもらったのですから、まことに世話がありません。そこで私は、ふだんほとんど金の要らない男で、いたずらに金を使うということは決してありません。四百両もらったうち、百両だけは国にいる母に送ってやりました。いかにも母に対して気の毒だというのは、アメリカから帰って、まだ国へ親の機嫌をうかがいにも行かないのに、重ねてヨーロッパに行くというのですから、いかにも済まないのです。そればかりか、私がアメリカ旅行中にも、郷里の中津の者たちがいろいろさまざまな風聞を立て、アメリカに行ってあちらで死んだといい、はなはだしきに至っては、現在の親類の中の一人が私の母に向かって、まことにお気の毒なことじゃ、諭吉さんもとうとうアメリカで死んで、身体は塩漬けにして江戸に持ち帰ったそうだなどと、脅すのか冷やかすのか、そんなことまで言って母をからかっていたということで、これも時節柄で我慢して黙っているよりほかにしかたがないとしながら、母に対してはいかにも気が済まない。金をやったからといってそれで償えるわけのものではないけれども、まあまあ百両だの二百両だのという金は、生まれてから見たこともない金ですから、それでも送ってやろうと思って、幕府から受け取った金を分けて送りました。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・欧羅巴各国に行く・欧羅巴各国に行く(2)それから欧羅巴に行くと云うことになって、船の出発したのは文久元年十二月の事であった。この度の船は日本の使節が行くと云う為めに、英吉利から迎船のようにして来たオーヂンと云う軍艦で、その軍艦に乗て香港、新嘉堡と云うような印度洋の港々に立寄り、紅海に這入て、蘇士から上陸して蒸気車に乗て、埃及のカイロ府に着て二晩ばかり泊り、それから地中海に出て、其処から又船に乗て仏蘭西の馬塞耳、ソコデ蒸汽車に乗て里昂に一泊、巴里に着て滞在凡そ二十日、使節の事を終り、巴里を去て英吉利に渡り、英吉利から和蘭、和蘭から普魯西の都の伯林に行き、伯林から露西亜のペートルスボルグ、夫れから再び巴里に帰て来て、仏蘭西から船に乗て、葡萄牙に行き、ソレカラ地中海に這入て、元の通りの順路を経て帰て来たその間の年月は凡そ一箇年、即ち文久二年一杯、推詰てから日本に帰て来ました。 扨今度の旅行に就て申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語ると云うことが徐々出来て、夫れから前に申す通りに金も聊か持て居るその金は何も遣い所はないから、只日本を出る時に尋常一様の旅装をした丈けで、その当時は物価の安い時だから何もそんなに金の要る訳けがない、その余た金は皆携えて行て竜動に逗留中、外に買物もない、唯英書ばかりを買て来た。是れが抑も日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったと云うのも是れからの事である。 夫れから彼の国の巡回中色々観察見聞したことも多いが、是れは後の話にして、先ず使節一行の有様を申さんに、その人員は、 竹内下野守(正使)松平石見守(副使)京極能登守(御目付)柴田貞太郎(組頭)日高圭三郎(御勘定)福田作太郎(御徒士目付)水品楽太郎(調役)岡綺藤左衛門(同)高嶋祐啓(御医師但し漢方医なり)川崎道民(雇医)益頭駿次郎(御普請役)上田友助(定役元締)森鉢太郎(定役)福地源一郎(通弁)立広作(同)太田源三郎(同)斎藤大之進(同心)高松彦三郎(御小人目付)山田八郎(同)松木弘安(反訳方)箕作秋坪(同)福澤諭吉(同) 右の外に三使節の家来両三人ずつと、賄小使六、七人、この小使の中には内証で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福澤等は先ず役人のような者ではあるが、大名の家来、所謂陪臣の身分であるから、一行中の一番下席で惣人数凡そ四十人足らず、孰れも日本服に大小を横えて巴里、竜動を闊歩したも可笑しい。
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福翁自伝・再度米国行・謹慎を命ぜらるサア夫れから江戸に帰た所が、前にも云う通り私は幕府の外務省に出て飜訳をして居たのであるが、外国奉行から咎められた。ドウも貴様は亜米利加行の御用中不都合があるから引込んで謹慎せよと云う。勿論幕府の引込めと云うのは誠に楽なもので、外に出るのは一向構わぬ。只役所に出さえしなければ宜しいのであるから、一身の為めには何ともない。却て暇になって難有い位のことだから、命令の通り直ぐ引込んで、その時に西洋旅案内と云う本を書て居ました。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・幕府に雇わる亜米利加から帰てから塾生も次第に増して相替らず教授して居る中に、私は亜米利加渡航を幸に彼の国人に直接して英語ばかり研究して、帰てからも出来るだけ英書を読むようにして、生徒の教授にも蘭書は教えないで悉く英書を教える。所がマダなか/\英書が六かしくて自由自在に読めない。読めないから便る所は英蘭対訳の字書のみ。教授とは云いながら、実は教うるが如く学ぶが如く、共に勉強して居る中に、私は幕府の外国方(今で云えば外務省)に雇われた。その次第は外国の公使領事から政府の閣老又は外国奉行へ差出す書翰を飜訳する為めである。当時の日本に英仏等の文を読む者もなければ書く者もないから、諸外国の公使領事より来る公文には必ず和蘭の飜訳文を添うるの慣例にてありしが、幕府人に横文字読む者とては一人もなく、止むを得ず吾々如き陪臣(大名の家来)の蘭書読む者を雇うて用を弁じたことであるが、雇われたに就ては自から利益のあると云うのは、例えば英公使、米公使と云うような者から来る書翰の原文が英文で、ソレに和蘭の訳文が添うてある。如何かしてこの飜訳文を見ずに直接に英文を飜訳してやりたいものだと思て試みる、試みて居る間に分らぬ処がある、分らぬと蘭訳文を見る、見ると分ると云うような訳けで、なか/\英文研究の為めになりました。ソレからもう一つには幕府の外務省には自から書物がある、種々様々な英文の原書がある。役所に出て居て読むのは勿論、借りて自家へ持て来ることも出来るから、ソンな事で幕府に雇われたのは身の為めに大に便利になりました。
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福翁自伝・大阪修業・家兄の不幸再遊困難所が又不幸な話で、九月の十日頃であったと思う。国から手紙が来て、九月三日に兄が病死したから即刻帰て来いと云う急報。どうも驚いたけれども仕方がない。取るものも取り敢えずスグ船に乗て、この度は誠に順風で、速に中津の港に着て、家に帰て見ればモウ葬式は勿論、何も斯も片が付て仕舞た後の事で、ソレカラ私は叔父の処の養子になって居た、所が自分の本家、即ち里の主人が死亡して、娘が一人あれども女の子では家督相続は出来ない、是れは弟が相続する、当然の順序だと云うので、親類相談の上、私は知らぬ間にチャント福澤の主人になって居て、当人の帰国を待て相談なんと云うことはありはしない。貴様は福澤の主人になったと知らせて呉れる位の事だ。扨てその跡を襲だ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服を勤めねばならぬ。夫れから家督相続と云えば其れ相応の勤がなくてはならぬ、藩中小士族相応の勤を命ぜられて居る、けれども私の心と云うものは天外万里、何もかも浮足になって一寸とも落付かぬ。何としても中津に居ようなど云うことは思いも寄らぬ事であるけれども、藩の正式に依ればチャント勤をしなければならぬから、その命を拒むことは出来ない。唯言行を謹み、何と云われてもハイ/\と答えて勤めて居ました。自分の内心には如何しても再遊と決して居るけれども、周囲の有様と云うものは中々寄付かれもしない。藩中一般の説は姑く差措き、近い親類の者までも西洋は大嫌で、何事も話し出すことが出来ない。ソコデ私に叔父があるから、其処に行て何か話をして、序ながら夫れとなく再遊の事を少しばかり言掛けて見ると、夫れは/\恐ろしい剣幕で頭から叱られた。「怪からぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤をする筈のものだ。ソレに和蘭の学問とは何たる心得違いか、呆返った話だとか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を冷かして、貴様のような奴は負角力の瘠錣と云うものじゃと苦々しく睨み付けたのは、身の程知らずと云う意味でしょう。迚も叔父さんに賛成して貰おうと云うことは出来そうにもしないが、私が心に思って居れば自から口の端にも出る。出れば狭い所だから直ぐ分る。近処辺りに何処となく評判する。平生私の処に能く来るお婆さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重さんと云う人。今でも其の人の面を覚えて居る。つい向うのお婆さんで、或るとき私方に来て、「何か聞けば諭吉さんは又大阪に行くと云う話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんな事はさせなさらんじゃろう、再び出すなんと云うのはお前さんは気が違うて居はせぬかと云うような、世間一般先ずソンナ風で、その時の私の身の上を申せば寄辺汀の捨小舟、まるで唄の文句のようだ。
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福翁自伝・一身一家経済の由来・子供の学資金を謝絶す(3)幸にして金が出来れば教育して遣る、出来なければ無学文盲のまゝにして打遣て置くと、私の心に決断して、扨先方の人は誠に厚意を以て話して呉れたので、固より私の心事を知る訳けもないから、体能く礼を述べて断りましたが、その問答応接の間、私は眼前に子供を見てその行末を思い、又顧みて自分の身を思い、一進一退これを決断するには随分心を悩ましました。その話は相済み、その後も相替らず真面目に家を治めて著書飜訳の事を勉めて居ると、存外に利益が多くて、マダその二人の小供が外国行の年頃にならぬ先きに金の方が出来たから、小供を後廻しにして中上川彦次郎を英国に遣りました。彦次郎は私の為めに只た一人の甥で、彼方も亦只た一人の叔父さんで外に叔父はない、私も亦彦次郎の外に甥はないから、先ず親子のようなものです。彼れが三、四年も英国に居る間には随分金も費しましたが、ソレでも後の小供を修業に遣ると云う金はチャンと用意が出来て、二人とも亜米利加に六年ばかり遣て置きました。私は今思い出しても誠に宜い心持がします。能くあの時に金を貰わなかった、貰えば生涯気掛りだが、宜い事をしたと、今日までも折々思い出して、大事な玉に瑾を付けなかったような心持がします。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・軍艦の修繕に価を求めず・始めて日本に英辞書を入る前に云うた通り亜米利加人は誠に能く世話をして呉れた。軍艦を船渠に入れて修覆して呉れたのみならず、乗組員の手元に入用な箱を拵えて呉れるとか云うことまでも親切にして呉れた。いよ/\船の仕度も出来て帰ると云う時に、軍艦の修覆その他の入用を払いたいと云うと、彼方の人は笑て居る。代金などゝは何の事だと云うような調子で一寸とも話にならない。何と云うても勘定を取りそうにもしない。 その時に私と通弁の中浜万次郎と云う人と両人がウエブストルの字引を一冊ずつ買て来た。是れが日本にウエブストルと云う字引の輸入の第一番、それを買てモウ外には何も残ることなく、首尾克く出帆して来た。
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