福翁自伝 / 始めて亜米利加に渡る・義勇兵
所で私が二度目に亜米利加に行たとき、甲比丹ブルックに再会して八年目に聞た話がある。それは最初日本の咸臨丸が亜米利加に着たとき、桑港で中々議論があった。今度日本の軍艦が来たからその接待を盛にしなければならぬと云うので、彼処に陸軍の出張所を見たようなものがある。其処へ甲比丹ブルックが行て、大に歓迎しようではないかと相談を掛けると、華盛頓に伺うた上でなければ出来ないと云う。「そんな事をして居ては間に合わないから、何でも出張所の独断で遣れと談じても、兎角埓が明かないから、甲比丹は少し立腹して、いよ/\政府の筋で出来なければ此方に仕様があると云て、夫れから方向を転じて桑港の義勇兵に持込んで、どうだ斯う云う訳けであるから接待せぬかと云うと、義勇兵は大悦びで直に用意が出来た。全体この義勇兵と云うものは不断軍役のあるではなし、大将は御医者様で、少将は染物屋の主人と云うような者で組立てゝあるけれども、チャント軍服も持て居れば鉄砲も何もすっかり備えて居て、日曜か何か暇な時か又は月夜などに操練をして、イザ戦争と云う時に出て行くと云うばかりで、太平の時は先ず若い者の道楽仕事であるから、折角拵えた軍服も滅多に着ることがない所に、今度甲比丹ブルックの話を聞て千歳一遇の好機会と思い、晴れの軍服を光らして日本の軍艦咸臨丸を歓迎したのであると、甲比丹が話して居ました。
書き下し
所で私が二度目に亜米利加に行たとき、甲比丹ブルックに再会して八年目に聞た話がある。それは最初日本の咸臨丸が亜米利加に着たとき、桑港で中々議論があった。今度日本の軍艦が来たからその接待を盛にしなければならぬと云うので、彼処に陸軍の出張所を見たようなものがある。其処へ甲比丹ブルックが行て、大に歓迎しようではないかと相談を掛けると、華盛頓に伺うた上でなければ出来ないと云う。「そんな事をして居ては間に合わないから、何でも出張所の独断で遣れと談じても、兎角埓が明かないから、甲比丹は少し立腹して、いよ/\政府の筋で出来なければ此方に仕様があると云て、夫れから方向を転じて桑港の義勇兵に持込んで、どうだ斯う云う訳けであるから接待せぬかと云うと、義勇兵は大悦びで直に用意が出来た。全体この義勇兵と云うものは不断軍役のあるではなし、大将は御医者様で、少将は染物屋の主人と云うような者で組立てゝあるけれども、チャント軍服も持て居れば鉄砲も何もすっかり備えて居て、日曜か何か暇な時か又は月夜などに操練をして、イザ戦争と云う時に出て行くと云うばかりで、太平の時は先ず若い者の道楽仕事であるから、折角拵えた軍服も滅多に着ることがない所に、今度甲比丹ブルックの話を聞て千歳一遇の好機会と思い、晴れの軍服を光らして日本の軍艦咸臨丸を歓迎したのであると、甲比丹が話して居ました。
現代語訳
さて、私が二度目にアメリカに行ったとき、ブルック艦長に再会して、八年目に聞いた話があります。それは、最初に日本の咸臨丸がアメリカに着いたとき、サンフランシスコでなかなか議論があったというものです。今度日本の軍艦が来たからその接待を盛大にしなければならないというので、あちらに陸軍の出張所のようなものがありました。そこへブルック艦長が行って、大いに歓迎しようではないかと相談をもちかけると、ワシントンに伺いを立てたうえでなければできないと言います。「そんなことをしていては間に合わない、何でも出張所の独断でやれ」と談じ込んでも、とかくらちが明かないので、艦長は少し腹を立て、いよいよ政府の筋でできないならこちらに考えがあると言って、方向を転じてサンフランシスコの義勇兵に持ち込み、どうだ、こういうわけだから接待しないかと言うと、義勇兵は大喜びで、すぐに用意ができました。そもそもこの義勇兵というものは、ふだん軍役があるわけではなく、大将は御医者様で、少将は染物屋の主人というような者で組み立ててありますが、ちゃんと軍服も持っていれば鉄砲も何もすっかりそなえていて、日曜か何か暇なとき、あるいは月夜などに操練をして、いざ戦争というときに出て行くというだけで、太平の時代にはまず若者の道楽仕事ですから、せっかく作った軍服もめったに着ることがありません。そこへ今度、ブルック艦長の話を聞いて、千載一遇の好機会と思い、晴れの軍服を光らせて、日本の軍艦咸臨丸を歓迎したのだと、艦長が話していました。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・咸臨丸ソレカラ私が江戸に来た翌年、即ち安政六年冬、徳川政府から亜米利加に軍艦を遣ると云う日本開闢以来、未曾有の事を決断しました。扨その軍艦と申しても至極小さなもので、蒸気は百馬力、ヒユルプマシーネと申して、港の出入に蒸気を焚くばかり、航海中は唯風を便りに運転せねばならぬ。二、三年前、和蘭から買入れ、価は小判で二万五千両、船の名を咸臨丸と云う。その前、安政二年の頃から幕府の人が長崎に行て、蘭人に航海術を伝習してその技術も漸く進歩したから、この度使節がワシントンに行くに付き、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海と斯う云う訳けで幕議一決、艦長は時の軍艦奉行木村摂津守、これに随従する指揮官は勝麟太郎、運用方は佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、鈴藤勇次郎、測量は小野友五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、蒸気は肥田浜五郎、山本金次郎、公用方には吉岡勇平、小永井五八郎、通弁官は中浜万次郎、少年士官には根津欽次郎、赤松大三郎、岡田井蔵、小杉雅之進と、医師二人、水夫火夫六十五人、艦長の従者を併せて九十六人。船の割にしては多勢の乗組人でありしが、この航海の事に就ては色々お話がある。 今度咸臨丸の航海は日本開闢以来、初めての大事業で、乗組士官の面々は固より日本人ばかりで事に当ると覚悟して居た処が、その時亜米利加の甲比丹ブルツクと云う人が、太平洋の海底測量の為めに小帆前船ヘネモコパラ号に乗て航海中、薩摩の大島沖で難船して幸に助かり、横浜に来て徳川政府の保護を受けて、甲比丹以下、士官一人、医師一人、水夫四、五人、久しく滞留の折柄、日本の軍艦がサンフランシスコに航海と聞き、幸便だから之に乗て帰国したいと云うので、その事が定まろうとすると、日本の乗組員は米国人と一緒に乗るのは厭だと云う。何故かと云うに、若しその人達を連れて帰れば、却て銘々共が亜米利加人に連れて行て貰たように思われて、日本人の名誉に係るから乗せないと剛情を張る。夫れ是れで政府も余程困た様子でありしが、到頭ソレを無理圧付けにして同船させたのは、政府の長老も内実は日本士官の伎倆を覚束なく思い、一人でも米国の航海士が同船したらばマサカの時に何かの便利になろうと云う老婆心であったと思われる。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・米国人の歓迎祝砲(1)海上恙なく桑港に着た。着くやいなや土地の重立たる人々は船まで来て祝意を表し、之を歓迎の始めとして、陸上の見物人は黒山の如し。次で陸から祝砲を打つと云うことになって、彼方から打てば咸臨丸から応砲せねばならぬと、この事に就て一奇談がある。勝麟太郎と云う人は艦長木村の次に居て指揮官であるが、至極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかったが、着港になれば指揮官の職として万端差図する中に、彼の祝砲の事が起た。所で勝の説に、ソレは迚も出来る事でない、ナマジ応砲などして遣り傷うよりも此方は打たぬ方が宜いと云う。爾うすると運用方の佐々倉桐太郎は、イヤ打てないことはない、乃公が打て見せる。「馬鹿云え、貴様達に出来たら乃公の首を遣ると冷かされて、佐々倉はいよ/\承知しない。何でも応砲して見せると云うので、夫れから水夫共を差図して大砲の掃除、火薬の用意して、砂時計を以て時を計り、物の見事に応砲が出来た。サア佐々倉が威張り出した。首尾克く出来たから勝の首は乃公の物だ。併し航海中、用も多いから暫く彼の首を当人に預けて置くと云て、大に船中を笑わした事がある。兎も角もマア祝砲だけは立派に出来た。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・米国人の歓迎祝砲(2)ソコで無事に港に着たらば、サアどうも彼方の人の歓迎と云うものは、それは/\実に至れり尽せり、この上の仕様がないと云う程の歓迎。亜米利加人の身になって見れば、亜米利加人が日本に来て始めて国を開いたと云うその日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たと云う訳けであるから、丁度自分の学校から出た生徒が実業に着て自分と同じ事をすると同様、乃公がその端緒を開いたと云わぬ計の心持であったに違いない。ソコでもう日本人を掌の上に乗せて、不自由をさせぬように不自由をさせぬようにとばかり、桑港に上陸するや否や馬車を以て迎いに来て、取敢えず市中のホテルに休息と云うそのホテルには、市中の役人か何かは知りませぬが、市中の重立た人が雲霞の如く出掛けて来た。様々の接待饗応。ソレカラ桑港の近傍に、メールアイランドと云う処に海軍港附属の官舎を咸臨丸一行の止宿所に貸して呉れ、船は航海中なか/\損所が出来たからとて、船渠に入れて修覆をして呉れる。逗留中は勿論彼方で賄も何もそっくり為て呉れる筈であるが、水夫を始め日本人が洋食に慣れない、矢張り日本の飯でなければ喰えないと云うので、自分賄と云う訳けにした所が、亜米利加の人は兼て日本人の魚類を好むと云うことを能く知て居るので、毎日々々魚を持て来て呉れたり、或は日本人は風呂に這入ることが好きだと云うので、毎日風呂を立てゝ呉れると云うような訳け。所でメールアイランドと云う処は町でないものですから、折節今日は桑港に来いと云て誘う。夫れから船に乗て行くと、ホテルに案内して饗応すると云うような事が毎度ある。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・浦賀に上陸して酒を飲む咸臨丸の出帆は万延元年の正月で、品川沖を出て先ず浦賀に行た。同時に日本から亜米利加に使節が立て行くので、亜米利加からその使節の迎船が来た。ポーハタンと云うその軍艦に乗て行くのであるが、そのポーハタンは後から来ることになって、咸臨丸は先に出帆して先ず浦賀に泊た。浦賀に居て面白い事がある。船に乗組で居る人は皆若い人で、もう是れが日本の訣別であるから浦賀に上陸して酒を飲もうではないかと云出した者がある。何れも同説で、夫れから陸に上て茶屋見たような処に行て、散々酒を飲でサア船に帰ると云う時に、誠に手癖の悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上に嗽茶椀が一つあった、是れは船の中で役に立ちそうな物だと思て、一寸と私が夫を盗で来た。その時は冬の事で、サア出帆した所が大嵐、毎日々々の大嵐、なか/\茶椀に飯を盛て本式に喫べるなんと云うことは容易な事ではない。所が私の盗だ嗽茶椀が役に立て、その中に一杯飯を入れて、その上に汁でも何でも皆掛けて、立て喰う。誠に世話のない話で、大層便利を得て、亜米利加まで行て、帰りの航海中も毎日用いて、到頭日本まで持て帰て、久しく私の家にゴロチャラして居た。程経て聞けばその浦賀で上陸して飲食いした処は遊女屋だと云う。夫れはその当時私は知らなかったが、そうして見ると彼の大きな茶椀は女郎の嗽茶椀であったろう。思えば穢ないようだが、航海中は誠に調法、唯一の宝物であったのが可笑しい。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・牢屋に大地震の如し所で三十七日掛て桑港に着た。航海中私は身体が丈夫だと見えて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「是れは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入て毎日毎夜大地震に遇て居ると思えば宜いじゃないかと笑て居る位な事で、船が沈もうと云うことは一寸とも思わない。と云うのは私が西洋を信ずるの念が骨に徹して居たものと見えて、一寸とも怖いと思たことがない。夫れから途中で水が乏しくなったので布哇に寄るか寄らぬかと云う説が起た。辛抱して行けば布哇に寄らないでも間に合うであろうが、極用心をすれば寄港して水を取て行く、如何しようかと云うが、遂に布哇に寄らずに桑港に直航と斯う決定して、夫れから水の倹約だ。何でも飲むより外は一切水を使うことはならぬと云うことになった。所でその時に大に人を感激せしめた事がある、と云うのは船中に亜米利加の水夫が四、五人居ましたその水夫等が、動もすると水を使うので、甲比丹ブルックに、どうも水夫が水を使うて困ると云たら甲比丹の云うには、水を使うたら直に鉄砲で撃殺して呉れ、是れは共同の敵じゃから説諭も要らなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さいと云う。理屈を云えば、その通りに違いない。夫れから水夫を呼で、水を使えは鉄砲で撃殺すから爾う思えと云うような訳けで水を倹約したから、如何やら斯うやら水の尽きると云うことがなくて、同勢合せて九十六人無事に亜米利加に着た。船中の混雑は中々容易ならぬ事で、水夫共は皆筒袖の着物は着て居るけれども穿物は草鞋だ。草鞋が何百何千足も貯えてあったものと見える。船中はもうビショ/\で、カラリとした天気は三十七日の間に四日か五日あったと思います。誠に船の中は大変な混雑であった(桑港着船の上、艦長の奮発で水夫共に長靴を一足ずつ買て遣て夫れから大に体裁が好くなった)。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・銀貨狼藉扨それから船が出てずっと北の方に乗出した。その咸臨丸と云うのは百馬力の船であるから、航府中、始終石炭を焚くと云うことは出来ない。只港を出るとき這入るときに焚く丈けで、沖に出れば丸で帆前船、と云うのは石炭が積まれますまい、石炭がなければ帆で行かなければならぬ。その帆前船に乗て太平海を渡るのであるから、それは/\毎日の暴風で、艀船が四艘あったが激浪の為めに二艘取られて仕舞うた。その時は私は艦長の家来であるから、艦長の為めに始終左右の用を弁じて居た。艦長は船の艫の方の部屋に居るので、或る日、朝起きていつもの通り用を弁じましょうと思て艫の部屋に行た、所がその部屋に弗が何百枚か何千枚か知れぬ程散乱して居る。如何したのかと思うと、前夜の大嵐で、袋に入れて押入の中に積上げてあった弗、定めし錠も卸してあったに違いないが、劇しい船の動揺で、弗の袋が戸を押破て外に散乱したものと見える。是れは大変な事と思て、直に引返して舳の方に居る公用方の吉岡勇平にその次第を告げると、同人も大に驚き、場所に駈付け、私も加勢してその弗を拾集めて袋に入れて元の通り戸棚に入れたことがあるが、元来船中にこんな事の起るその次第は、当時外国為替と云う事に就て一寸とも考えがないので、旅をすれば金が要る、金が要れば金を持て行くと云う極簡単な話で、何万弗だか知れない弗を、袋などに入れて艦長の部屋に蔵めて置たその金が、嵐の為めに溢れ出たと云うような奇談を生じたのである。夫れでも大抵四十年前の事情が分りましょう。今ならば一向訳けはない。為替で一寸と送て遣れば、何も正金を船に積で行く必要はないが、商売思想のない昔の武家は大抵こんなものである。航海中は毎日の嵐で、始終船中に波を打上げる。今でも私は覚えて居るが、甲板の下に居ると上に四角な窓があるので、船が傾くとその窓から大洋の立浪が能く見える。それは大層な波で、船体が三十七、八度傾くと云うことは毎度の事であった。四十五度傾くと沈むと云うけれども、幸に大きな災もなく只その航路を進で行く。進で行く中に、何も見えるものはないその中で以て、一度帆前船に遇うたことがあった。ソレは亜米利加の船で、支那人を乗せて行くのだと云うその船を一艘見た切り、外には何も見ない。
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