福翁自伝 / 始めて亜米利加に渡る・軍艦の修繕に価を求めず・始めて日本に英辞書を入る
前に云うた通り亜米利加人は誠に能く世話をして呉れた。軍艦を船渠に入れて修覆して呉れたのみならず、乗組員の手元に入用な箱を拵えて呉れるとか云うことまでも親切にして呉れた。いよ/\船の仕度も出来て帰ると云う時に、軍艦の修覆その他の入用を払いたいと云うと、彼方の人は笑て居る。代金などゝは何の事だと云うような調子で一寸とも話にならない。何と云うても勘定を取りそうにもしない。 その時に私と通弁の中浜万次郎と云う人と両人がウエブストルの字引を一冊ずつ買て来た。是れが日本にウエブストルと云う字引の輸入の第一番、それを買てモウ外には何も残ることなく、首尾克く出帆して来た。
書き下し
前に云うた通り亜米利加人は誠に能く世話をして呉れた。軍艦を船渠に入れて修覆して呉れたのみならず、乗組員の手元に入用な箱を拵えて呉れるとか云うことまでも親切にして呉れた。いよ/\船の仕度も出来て帰ると云う時に、軍艦の修覆その他の入用を払いたいと云うと、彼方の人は笑て居る。代金などゝは何の事だと云うような調子で一寸とも話にならない。何と云うても勘定を取りそうにもしない。 その時に私と通弁の中浜万次郎と云う人と両人がウエブストルの字引を一冊ずつ買て来た。是れが日本にウエブストルと云う字引の輸入の第一番、それを買てモウ外には何も残ることなく、首尾克く出帆して来た。
現代語訳
前にも言ったとおり、アメリカ人はまことによく世話をしてくれました。軍艦をドックに入れて修理してくれたばかりか、乗組員が手元に必要とする箱を作ってくれるなど、そんなことまで親切にしてくれました。いよいよ船の支度もできて帰るというとき、軍艦の修理その他の費用を払いたいと言うと、向こうの人は笑っています。代金などとは何のことだというような調子で、まるで話になりません。何と言っても勘定を取りそうにもしません。 そのとき、私と通訳の中浜万次郎という人と二人で、ウェブスターの辞書を一冊ずつ買ってきました。これが日本にウェブスターという辞書が輸入された第一番で、それを買ってもう他には何も残ることなく、首尾よく出帆してきました。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・大阪を去て江戸に行く・蕃書調所に入門その前に私が横浜に行た時にキニツフルの店で薄い蘭英会話書を二冊買て来た。ソレを独で読とした所で字書がない。英蘭対訳の字書があれば先生なしで自分一人で解することが出来るから、どうか字書を欲いものだと云た所で横浜に字書などを売る処はない。何とも仕方がない。所がその時に九段下に蕃書調所と云う幕府の洋学校がある。其処には色々な字書があると云うことを聞出したから、如何かしてその字書を借りたいものだ、借りるには入門しなければならぬ、けれども藩士が出抜けに公儀(幕府)の調所に入門したいと云ても許すものでない、藩士の入門願にはその藩の留守居と云うものが願書に奥印をして然る後に入門を許すと云う。夫れから藩の留守居の処に行て奥印の事を頼み、私はを着て蕃書調所に行て入門を願うた。その時には箕作麟祥のお祖父さんの箕作阮甫と云う人が調所の頭取で、早速入門を許して呉れて、入門すれば字書を借ることが出来る。直に拝借を願うて、英蘭対訳の字書を手に請取て、通学生の居る部屋があるから其処で暫く見て、夫れから懐中の風呂敷を出してその字書を包で帰ろうとすると、ソレはならぬ、此処で見るならば許して苦しくないが、家に持帰ることは出来ませぬと、その係の者が云う。こりゃ仕方がない、鉄砲洲から九段阪下まで毎日字引を引きに行くと云うことは迚も間に合ぬ話だ。ソレも漸く入門してたった一日行た切で断念。 扨如何したら宜かろうかと考えた。所で段々横浜に行く商人がある。何か英蘭対訳の字書はないかと頼んで置た所が、ホルトロツプと云う英蘭対訳発音付の辞書一部二冊物がある。誠に小さな字引だけれども価五両と云う。夫れから私は奥平の藩に歎願して買取て貰て、サアもう是れで宜しい、この字引さえあればもう先生は要らないと、自力研究の念を固くして、唯その字引と首引で、毎日毎夜独り勉強、又或は英文の書を蘭語に飜訳して見て、英文に慣れる事ばかり心掛けて居ました。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・木村摂津守艦長木村摂津守と云う人は軍艦奉行の職を奉じて海軍の長上官であるから、身分相当に従者を連れて行くに違いない。夫れから私はどうもその船に乗て亜米利加に行て見たい志はあるけれども、木村と云う人は一向知らない。去年大阪から出て来た計りで、そんな幕府の役人などに縁のある訳けはない。所が幸に江戸に桂川と云う幕府の蘭家の侍医がある。その家は日本国中蘭学医の総本山とでも名を命けて宜しい名家であるから、江戸は扨置き日本国中、蘭学社会の人で桂川と云う名前を知らない者はない。ソレ故私なども江戸に来れば何は扨置き桂川の家には訪問するので、度々その家に出入して居る。その桂川の家と木村の家とは親類――極近い親類である。夫れから私は桂川に頼で、如何かして木村さんの御供をして亜米利加に行きたいが紹介して下さることは出来まいかと懇願して、桂川の手紙を貰て木村の家に行てその願意を述べた所が、木村では即刻許して呉れて、連れて行て遣ろうと斯う云うことになった。と云うのは、案ずるに、その時の世態人情に於て、外国航海など云えば、開闢以来の珍事と云おうか、寧ろ恐ろしい命掛けの事で、木村は勿論軍艦奉行であるから家来はある、あるけれどもその家来と云う者も余り行く気はない所に、仮初にも自分から進で行きたいと云うのであるから、実は彼方でも妙な奴だ、幸と云う位なことであったろうと思う。直に許されて私は御供をすることになった。
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福翁自伝・王政維新・義塾次第に繁昌扨四月になった所で普請も出来上り、塾生は丁度慶応三年と四年の境が一番諸方に散じて仕舞て、残た者は僅に十八人、夫れから四月になった所が段々帰て来て、追々塾の姿を成して次第に盛になる。又盛になる訳けもある、と云うのは今度私が亜米利加に行た時には、其以前、亜米利加に行た時よりも多く金を貰いました。所で旅行中の費用は都て官費であるから、政府から請取た金は皆手元に残る故、その金を以て今度こそは有らん限りの原書を買て来ました。大中小の辞書、地理書、歴史等は勿論、その外法律書、経済書、数学書などもその時殆めて日本に輸入して、塾の何十人と云う生徒に銘々その版本を持たして立派に修業の出来るようにしたのは、実に無上の便利でした。ソコデその当分十年余も亜米利加出版の学校読本が日本国中に行われて居たのも、畢竟私が始めて持て帰たのが因縁になったことです。その次第は生徒が始めて塾で学ぶ、その学んで卒業した者が方々に出て教師になる、教師になれば自分が今まで学んだものをその学校に用るのも自然の順序であるから、日本国中に慶應義塾に用いた原書が流布して広く行われたと云うのも、事の順序はよく分て居ます。
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福翁自伝・欧羅巴各国に行く・欧羅巴各国に行く(1)私が亜米利加から帰たのは万延元年、その年に華英通語と云うものを飜訳して出版したことがある。是れが抑も私が出版の始まり、先ずこの両三年間と云うものは、人に教うると云うよりも自分で以て英語研究が専業であった。所が文久二年の冬、日本から欧羅巴諸国に使節派遣と云うことがあって、その時に又私はその使節に附て行かれる機会を得ました。この前亜米利加に行く時には私に木村摂津守に懇願して、その従僕と云うことにして連れて行て貰たが、今度は幕府に雇われて居て欧羅巴行を命ぜられたのであるから、自から一人前の役人のような者になって、金も四百両ばかり貰たかと思う。旅中は一切官費で、只手当として四百両の金を貰たから、誠に世話なし。ソコで私は平生頓と金の要らない男で、徒に金を費すと云うことは決してない。四百両貰たその中で百両だけ国に居る母に送てやった。如何にも母に対して気の毒だと云うのは、亜米利加から帰てマダ国へ親の機嫌を聞きに行きもせずに、重ねて欧羅巴に行くと云うのだから、如何にも済まない。而已ならず私が亜米利加旅行中にも、郷里中津の者共が色々様々な風聞を立てゝ、亜米利加に行て彼の地で死んだと云い、甚だしきに至れば現在の親類の中の一人が私共の母に向て、誠に気の毒な事じゃ、諭吉さんもとう/\亜米利加で死んで、身体は醢けにして江戸に持て帰たそうだなんと、威すのか冷すのかソンな事まで云て母を嬲て居たと云うような事で、是れも時節柄で我慢して黙て居るより外に仕方がないとして居ながら、母に対しては如何にも気が済まない。金をやったからと云てソレで償える訳けのものではないけれども、マア/\百両だの二百両だのと云う金は生れてから見たこともない金だから、ソレでも送て遣ろうと思て、幕府から請取た金を分けて送りました。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・浦賀に上陸して酒を飲む咸臨丸の出帆は万延元年の正月で、品川沖を出て先ず浦賀に行た。同時に日本から亜米利加に使節が立て行くので、亜米利加からその使節の迎船が来た。ポーハタンと云うその軍艦に乗て行くのであるが、そのポーハタンは後から来ることになって、咸臨丸は先に出帆して先ず浦賀に泊た。浦賀に居て面白い事がある。船に乗組で居る人は皆若い人で、もう是れが日本の訣別であるから浦賀に上陸して酒を飲もうではないかと云出した者がある。何れも同説で、夫れから陸に上て茶屋見たような処に行て、散々酒を飲でサア船に帰ると云う時に、誠に手癖の悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上に嗽茶椀が一つあった、是れは船の中で役に立ちそうな物だと思て、一寸と私が夫を盗で来た。その時は冬の事で、サア出帆した所が大嵐、毎日々々の大嵐、なか/\茶椀に飯を盛て本式に喫べるなんと云うことは容易な事ではない。所が私の盗だ嗽茶椀が役に立て、その中に一杯飯を入れて、その上に汁でも何でも皆掛けて、立て喰う。誠に世話のない話で、大層便利を得て、亜米利加まで行て、帰りの航海中も毎日用いて、到頭日本まで持て帰て、久しく私の家にゴロチャラして居た。程経て聞けばその浦賀で上陸して飲食いした処は遊女屋だと云う。夫れはその当時私は知らなかったが、そうして見ると彼の大きな茶椀は女郎の嗽茶椀であったろう。思えば穢ないようだが、航海中は誠に調法、唯一の宝物であったのが可笑しい。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・米国人の歓迎祝砲(2)ソコで無事に港に着たらば、サアどうも彼方の人の歓迎と云うものは、それは/\実に至れり尽せり、この上の仕様がないと云う程の歓迎。亜米利加人の身になって見れば、亜米利加人が日本に来て始めて国を開いたと云うその日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たと云う訳けであるから、丁度自分の学校から出た生徒が実業に着て自分と同じ事をすると同様、乃公がその端緒を開いたと云わぬ計の心持であったに違いない。ソコでもう日本人を掌の上に乗せて、不自由をさせぬように不自由をさせぬようにとばかり、桑港に上陸するや否や馬車を以て迎いに来て、取敢えず市中のホテルに休息と云うそのホテルには、市中の役人か何かは知りませぬが、市中の重立た人が雲霞の如く出掛けて来た。様々の接待饗応。ソレカラ桑港の近傍に、メールアイランドと云う処に海軍港附属の官舎を咸臨丸一行の止宿所に貸して呉れ、船は航海中なか/\損所が出来たからとて、船渠に入れて修覆をして呉れる。逗留中は勿論彼方で賄も何もそっくり為て呉れる筈であるが、水夫を始め日本人が洋食に慣れない、矢張り日本の飯でなければ喰えないと云うので、自分賄と云う訳けにした所が、亜米利加の人は兼て日本人の魚類を好むと云うことを能く知て居るので、毎日々々魚を持て来て呉れたり、或は日本人は風呂に這入ることが好きだと云うので、毎日風呂を立てゝ呉れると云うような訳け。所でメールアイランドと云う処は町でないものですから、折節今日は桑港に来いと云て誘う。夫れから船に乗て行くと、ホテルに案内して饗応すると云うような事が毎度ある。
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