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福翁自伝 / 大阪を去て江戸に行く・蕃書調所に入門

その前に私が横浜に行た時にキニツフルの店で薄い蘭英会話書を二冊買て来た。ソレを独で読とした所で字書がない。英蘭対訳の字書があれば先生なしで自分一人で解することが出来るから、どうか字書を欲いものだと云た所で横浜に字書などを売る処はない。何とも仕方がない。所がその時に九段下に蕃書調所と云う幕府の洋学校がある。其処には色々な字書があると云うことを聞出したから、如何かしてその字書を借りたいものだ、借りるには入門しなければならぬ、けれども藩士が出抜けに公儀(幕府)の調所に入門したいと云ても許すものでない、藩士の入門願にはその藩の留守居と云うものが願書に奥印をして然る後に入門を許すと云う。夫れから藩の留守居の処に行て奥印の事を頼み、私はを着て蕃書調所に行て入門を願うた。その時には箕作麟祥のお祖父さんの箕作阮甫と云う人が調所の頭取で、早速入門を許して呉れて、入門すれば字書を借ることが出来る。直に拝借を願うて、英蘭対訳の字書を手に請取て、通学生の居る部屋があるから其処で暫く見て、夫れから懐中の風呂敷を出してその字書を包で帰ろうとすると、ソレはならぬ、此処で見るならば許して苦しくないが、家に持帰ることは出来ませぬと、その係の者が云う。こりゃ仕方がない、鉄砲洲から九段阪下まで毎日字引を引きに行くと云うことは迚も間に合ぬ話だ。ソレも漸く入門してたった一日行た切で断念。 扨如何したら宜かろうかと考えた。所で段々横浜に行く商人がある。何か英蘭対訳の字書はないかと頼んで置た所が、ホルトロツプと云う英蘭対訳発音付の辞書一部二冊物がある。誠に小さな字引だけれども価五両と云う。夫れから私は奥平の藩に歎願して買取て貰て、サアもう是れで宜しい、この字引さえあればもう先生は要らないと、自力研究の念を固くして、唯その字引と首引で、毎日毎夜独り勉強、又或は英文の書を蘭語に飜訳して見て、英文に慣れる事ばかり心掛けて居ました。

新字:その前に私が横浜に行た時にキニツフルの店で薄い蘭英会話書を二冊買て来た。ソレを独で読とした所で字書がない。英蘭対訳の字書があれば先生なしで自分一人で解することが出来るから、どうか字書を欲いものだと云た所で横浜に字書などを売る処はない。何とも仕方がない。所がその時に九段下に蕃書調所と云う幕府の洋学校がある。其処には色々な字書があると云うことを聞出したから、如何かしてその字書を借りたいものだ、借りるには入門しなければならぬ、けれども藩士が出抜けに公儀(幕府)の調所に入門したいと云ても許すものでない、藩士の入門願にはその藩の留守居と云うものが願書に奥印をして然る後に入門を許すと云う。夫れから藩の留守居の処に行て奥印の事を頼み、私はを着て蕃書調所に行て入門を願うた。その時には箕作麟祥のお祖父さんの箕作阮甫と云う人が調所の頭取で、早速入門を許して呉れて、入門すれば字書を借ることが出来る。直に拝借を願うて、英蘭対訳の字書を手に請取て、通学生の居る部屋があるから其処で暫く見て、夫れから懐中の風呂敷を出してその字書を包で帰ろうとすると、ソレはならぬ、此処で見るならば許して苦しくないが、家に持帰ることは出来ませぬと、その係の者が云う。こりゃ仕方がない、鉄砲洲から九段阪下まで毎日字引を引きに行くと云うことは迚も間に合ぬ話だ。ソレも漸く入門してたった一日行た切で断念。 扨如何したら宜かろうかと考えた。所で段々横浜に行く商人がある。何か英蘭対訳の字書はないかと頼んで置た所が、ホルトロツプと云う英蘭対訳発音付の辞書一部二冊物がある。誠に小さな字引だけれども価五両と云う。夫れから私は奥平の藩に嘆願して買取て貰て、サアもう是れで宜しい、この字引さえあればもう先生は要らないと、自力研究の念を固くして、唯その字引と首引で、毎日毎夜独り勉強、又或は英文の書を蘭語に翻訳して見て、英文に慣れる事ばかり心掛けて居ました。

書き下し

その前に私が横浜に行た時にキニツフルの店で薄い蘭英会話書を二冊買て来た。ソレを独で読とした所で字書がない。英蘭対訳の字書があれば先生なしで自分一人で解することが出来るから、どうか字書を欲いものだと云た所で横浜に字書などを売る処はない。何とも仕方がない。所がその時に九段下に蕃書調所と云う幕府の洋学校がある。其処には色々な字書があると云うことを聞出したから、如何かしてその字書を借りたいものだ、借りるには入門しなければならぬ、けれども藩士が出抜けに公儀(幕府)の調所に入門したいと云ても許すものでない、藩士の入門願にはその藩の留守居と云うものが願書に奥印をして然る後に入門を許すと云う。夫れから藩の留守居の処に行て奥印の事を頼み、私はを着て蕃書調所に行て入門を願うた。その時には箕作麟祥のお祖父さんの箕作阮甫と云う人が調所の頭取で、早速入門を許して呉れて、入門すれば字書を借ることが出来る。直に拝借を願うて、英蘭対訳の字書を手に請取て、通学生の居る部屋があるから其処で暫く見て、夫れから懐中の風呂敷を出してその字書を包で帰ろうとすると、ソレはならぬ、此処で見るならば許して苦しくないが、家に持帰ることは出来ませぬと、その係の者が云う。こりゃ仕方がない、鉄砲洲から九段阪下まで毎日字引を引きに行くと云うことは迚も間に合ぬ話だ。ソレも漸く入門してたった一日行た切で断念。 扨如何したら宜かろうかと考えた。所で段々横浜に行く商人がある。何か英蘭対訳の字書はないかと頼んで置た所が、ホルトロツプと云う英蘭対訳発音付の辞書一部二冊物がある。誠に小さな字引だけれども価五両と云う。夫れから私は奥平の藩に歎願して買取て貰て、サアもう是れで宜しい、この字引さえあればもう先生は要らないと、自力研究の念を固くして、唯その字引と首引で、毎日毎夜独り勉強、又或は英文の書を蘭語に飜訳して見て、英文に慣れる事ばかり心掛けて居ました。

現代語訳

その前に、私が横浜に行ったとき、キニッフルの店で薄い蘭英会話書を二冊買ってきました。それを独りで読もうとしても辞書がありません。英蘭対訳の辞書があれば、先生なしで自分一人で理解できるのだから、どうか辞書が欲しいと思ったものの、横浜に辞書を売っているところなどありません。どうにも仕方がない。ところが、九段下に蕃書調所という幕府の洋学校があって、そこにはいろいろな辞書があると聞きつけたので、何とかしてその辞書を借りたいと思いました。借りるには入門しなければなりませんが、藩士がいきなり公儀(幕府)の調所に入門したいと言っても許されるものではありません。藩士の入門願いには、その藩の留守居という役の者が願書に奥印を押して、そのうえで入門が許されるのだそうです。そこで藩の留守居のところへ行って奥印を頼み、私は袴を着けて蕃書調所に行き、入門を願い出ました。そのときの調所の頭取は、箕作麟祥のお祖父さんにあたる箕作阮甫という人で、すぐに入門を許してくれました。入門すれば辞書を借りられます。さっそく拝借を願い出て、英蘭対訳の辞書を受け取り、通学生のいる部屋でしばらく眺め、それから懐中の風呂敷を出してその辞書を包み、帰ろうとすると、係の者が「それはいけません。ここで見るのなら構いませんが、家に持ち帰ることはできません」と言います。こりゃ仕方がない。鉄砲洲から九段坂下まで毎日辞書を引きに通うなど、とても間に合う話ではありません。結局、ようやく入門しながら、たった一日通っただけで断念しました。 さて、どうしたらよかろうかと考えました。そのうち、たびたび横浜へ行く商人がいたので、英蘭対訳の辞書はないかと頼んでおいたところ、ホルトロップという英蘭対訳で発音つきの辞書が、一部二冊ものであるといいます。たいへん小さな辞書ですが、値段は五両。そこで私は奥平藩に願い出て買い取ってもらい、さあこれでよい、この辞書さえあればもう先生は要らないと、自力で研究する決意を固め、ただその辞書とにらめっこして、毎日毎晩独りで勉強しました。あるいは英文の書を蘭語に翻訳してみて、英文に慣れることばかり心がけていました。

解説

横浜で英語の世界の広さを知った福沢が、辞書一冊を求めて奔走する場面です。蕃書調所は幕府の洋学研究機関で、他藩の藩士が入るには藩の留守居の奥印が要りました。そこまでして入門しても、辞書は持ち出せず一日で断念。ここで福沢は嘆かず、五両の辞書を藩に買わせるという別の手を打ちます。教える人がいないなら教材を自分の手元に置く、という切り替えの早さです。現代でも、制度の壁に当たったとき、規則を恨むより目的に直結する道具を調達できるかどうかで学びの速度は変わります。

この章句が説くこと

蕃書調所辞書独学奥印ホルトロップ自力研究

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人生を、一行の式にしてみた。

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