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福翁自伝 / 始めて亜米利加に渡る・木村摂津守

艦長木村摂津守と云う人は軍艦奉行の職を奉じて海軍の長上官であるから、身分相当に従者を連れて行くに違いない。夫れから私はどうもその船に乗て亜米利加に行て見たい志はあるけれども、木村と云う人は一向知らない。去年大阪から出て来た計りで、そんな幕府の役人などに縁のある訳けはない。所が幸に江戸に桂川と云う幕府の蘭家の侍医がある。その家は日本国中蘭学医の総本山とでも名を命けて宜しい名家であるから、江戸は扨置き日本国中、蘭学社会の人で桂川と云う名前を知らない者はない。ソレ故私なども江戸に来れば何は扨置き桂川の家には訪問するので、度々その家に出入して居る。その桂川の家と木村の家とは親類――極近い親類である。夫れから私は桂川に頼で、如何かして木村さんの御供をして亜米利加に行きたいが紹介して下さることは出来まいかと懇願して、桂川の手紙を貰て木村の家に行てその願意を述べた所が、木村では即刻許して呉れて、連れて行て遣ろうと斯う云うことになった。と云うのは、案ずるに、その時の世態人情に於て、外国航海など云えば、開闢以来の珍事と云おうか、寧ろ恐ろしい命掛けの事で、木村は勿論軍艦奉行であるから家来はある、あるけれどもその家来と云う者も余り行く気はない所に、仮初にも自分から進で行きたいと云うのであるから、実は彼方でも妙な奴だ、幸と云う位なことであったろうと思う。直に許されて私は御供をすることになった。

書き下し

艦長木村摂津守と云う人は軍艦奉行の職を奉じて海軍の長上官であるから、身分相当に従者を連れて行くに違いない。夫れから私はどうもその船に乗て亜米利加に行て見たい志はあるけれども、木村と云う人は一向知らない。去年大阪から出て来た計りで、そんな幕府の役人などに縁のある訳けはない。所が幸に江戸に桂川と云う幕府の蘭家の侍医がある。その家は日本国中蘭学医の総本山とでも名を命けて宜しい名家であるから、江戸は扨置き日本国中、蘭学社会の人で桂川と云う名前を知らない者はない。ソレ故私なども江戸に来れば何は扨置き桂川の家には訪問するので、度々その家に出入して居る。その桂川の家と木村の家とは親類――極近い親類である。夫れから私は桂川に頼で、如何かして木村さんの御供をして亜米利加に行きたいが紹介して下さることは出来まいかと懇願して、桂川の手紙を貰て木村の家に行てその願意を述べた所が、木村では即刻許して呉れて、連れて行て遣ろうと斯う云うことになった。と云うのは、案ずるに、その時の世態人情に於て、外国航海など云えば、開闢以来の珍事と云おうか、寧ろ恐ろしい命掛けの事で、木村は勿論軍艦奉行であるから家来はある、あるけれどもその家来と云う者も余り行く気はない所に、仮初にも自分から進で行きたいと云うのであるから、実は彼方でも妙な奴だ、幸と云う位なことであったろうと思う。直に許されて私は御供をすることになった。

現代語訳

艦長の木村摂津守という人は、軍艦奉行の職にあって海軍の長官ですから、身分にふさわしく従者を連れて行くに違いありません。そして私は、どうにもその船に乗ってアメリカへ行ってみたいという志はあるのですが、木村という人はまったく知りません。去年大阪から出てきたばかりで、そんな幕府の役人などと縁のあるわけがありません。ところが幸いにも、江戸に桂川という幕府の蘭方の侍医の家がありました。その家は日本中の蘭学医の総本山とでも名づけてよい名家ですから、江戸はさておき日本中の蘭学社会の人で、桂川の名を知らない者はありません。そのため私なども江戸に来れば、何はさておき桂川の家を訪ねて、たびたび出入りしていました。その桂川の家と木村の家とは親類で、ごく近い親類です。そこで私は桂川に頼み、何とかして木村さんのお供をしてアメリカに行きたいが、紹介していただけないでしょうかと懇願して、桂川の手紙をもらい、木村の家に行って願いの趣旨を述べたところ、木村はすぐに許して、連れて行ってやろうということになりました。というのは、思うに、そのころの世間の様子や人情では、外国への航海といえば、開闢以来の珍事というより、むしろ恐ろしい命がけの事でした。木村はもちろん軍艦奉行ですから家来はいますが、その家来たちもあまり行く気がない。そこへ、かりそめにも自分から進んで行きたいという者が現れたので、先方でも、妙な奴だが好都合だ、という程度のことだったろうと思います。すぐに許されて、私はお供をすることになりました。

解説

アメリカ行きの志はあっても、幕府の役人とは縁がない。福沢は蘭学医の名門桂川家に出入りしていた人脈を頼り、その親戚である木村摂津守への紹介状を得ました。ここには二つの教訓があります。一つは、日ごろ誠実に通っていた場所が、いざというとき道をつくること。もう一つは、誰もが避けたがる命がけの仕事は、自分から手を挙げる人に機会が回ってくること。外国航海が恐ろしい事と見られた時代ならではの話ですが、現代の新規事業や海外赴任の公募にも通じます。福沢自身が、許された理由を冷静に分析している点も見どころです。

この章句が説くこと

木村摂津守桂川家紹介人脈志願命がけ

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