福翁自伝 / 始めて亜米利加に渡る・日本国人の大胆
併しこの航海に就ては大に日本の為めに誇ることがある、と云うのは抑も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於て和蘭人から伝習したのが抑も事の始まりで、その業成て外国に船を乗出そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即ち目に蒸気船を見てから足掛け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫れで万延元年の正月に出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆と云い、是れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。前にも申した通り、航海中は一切外国人の甲比丹ブルックの助力は仮らないと云うので、測量するにも日本人自身で測量する。亜米利加の人も亦自分で測量して居る。互に測量したものを後で見合せる丈けの話で、決して亜米利加人に助けて貰うと云うことは一寸でもなかった。ソレ丈けは大に誇ても宜い事だと思う。今の朝鮮人、支那人、東洋全体を見渡した所で、航海術を五年学で太平海を乗越そうと云うその事業、その勇気のある者は決してありはしない。ソレ所ではない。昔々露西亜のペートル帝が和蘭に行て航海術を学んだと云うが、ペートル大帝でもこの事は出来なかろう。仮令い大帝は一種絶倫の人傑なりとするも、当時の露西亜に於て日本人の如く大胆にして且つ学問思想の緻密なる国民は容易になかろうと思われる。
書き下し
併しこの航海に就ては大に日本の為めに誇ることがある、と云うのは抑も日本の人が始めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年の事で、安政二年に長崎に於て和蘭人から伝習したのが抑も事の始まりで、その業成て外国に船を乗出そうと云うことを決したのは安政六年の冬、即ち目に蒸気船を見てから足掛け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、夫れで万延元年の正月に出帆しようと云うその時、少しも他人の手を藉らずに出掛けて行こうと決断したその勇気と云いその伎倆と云い、是れだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。前にも申した通り、航海中は一切外国人の甲比丹ブルックの助力は仮らないと云うので、測量するにも日本人自身で測量する。亜米利加の人も亦自分で測量して居る。互に測量したものを後で見合せる丈けの話で、決して亜米利加人に助けて貰うと云うことは一寸でもなかった。ソレ丈けは大に誇ても宜い事だと思う。今の朝鮮人、支那人、東洋全体を見渡した所で、航海術を五年学で太平海を乗越そうと云うその事業、その勇気のある者は決してありはしない。ソレ所ではない。昔々露西亜のペートル帝が和蘭に行て航海術を学んだと云うが、ペートル大帝でもこの事は出来なかろう。仮令い大帝は一種絶倫の人傑なりとするも、当時の露西亜に於て日本人の如く大胆にして且つ学問思想の緻密なる国民は容易になかろうと思われる。
現代語訳
しかし、この航海については、大いに日本のために誇ることがあります。というのは、そもそも日本人が初めて蒸気船というものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年のことで、安政二年に長崎でオランダ人から伝習を受けたのが事の始まりです。その修業が成って外国へ船を乗り出そうと決めたのは安政六年の冬、つまり蒸気船を目にしてから足かけ七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、そして万延元年の正月に出帆しようというそのとき、少しも他人の手を借りずに出かけて行こうと決断した、その勇気といい、その腕前といい、これだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足りる事実だろうと思います。前にも申したとおり、航海中は一切外国人の艦長ブルックの助力は借りないというので、測量するにも日本人自身で測量します。アメリカの人もまた自分で測量しています。たがいに測量したものを後で見比べるだけの話で、決してアメリカ人に助けてもらうということは少しもありませんでした。それだけは大いに誇ってもよいことだと思います。今の朝鮮人、中国人、東洋全体を見渡しても、航海術を五年学んで太平洋を乗り越えようとするその事業、その勇気のある者は決していません。それどころではありません。昔々、ロシアのピョートル帝がオランダへ行って航海術を学んだといいますが、ピョートル大帝でもこのことはできなかったでしょう。たとえ大帝が一種ずば抜けた人傑であるとしても、当時のロシアにおいて、日本人のように大胆で、しかも学問や思想の緻密な国民は、容易にはいなかろうと思われます。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・咸臨丸ソレカラ私が江戸に来た翌年、即ち安政六年冬、徳川政府から亜米利加に軍艦を遣ると云う日本開闢以来、未曾有の事を決断しました。扨その軍艦と申しても至極小さなもので、蒸気は百馬力、ヒユルプマシーネと申して、港の出入に蒸気を焚くばかり、航海中は唯風を便りに運転せねばならぬ。二、三年前、和蘭から買入れ、価は小判で二万五千両、船の名を咸臨丸と云う。その前、安政二年の頃から幕府の人が長崎に行て、蘭人に航海術を伝習してその技術も漸く進歩したから、この度使節がワシントンに行くに付き、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海と斯う云う訳けで幕議一決、艦長は時の軍艦奉行木村摂津守、これに随従する指揮官は勝麟太郎、運用方は佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、鈴藤勇次郎、測量は小野友五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、蒸気は肥田浜五郎、山本金次郎、公用方には吉岡勇平、小永井五八郎、通弁官は中浜万次郎、少年士官には根津欽次郎、赤松大三郎、岡田井蔵、小杉雅之進と、医師二人、水夫火夫六十五人、艦長の従者を併せて九十六人。船の割にしては多勢の乗組人でありしが、この航海の事に就ては色々お話がある。 今度咸臨丸の航海は日本開闢以来、初めての大事業で、乗組士官の面々は固より日本人ばかりで事に当ると覚悟して居た処が、その時亜米利加の甲比丹ブルツクと云う人が、太平洋の海底測量の為めに小帆前船ヘネモコパラ号に乗て航海中、薩摩の大島沖で難船して幸に助かり、横浜に来て徳川政府の保護を受けて、甲比丹以下、士官一人、医師一人、水夫四、五人、久しく滞留の折柄、日本の軍艦がサンフランシスコに航海と聞き、幸便だから之に乗て帰国したいと云うので、その事が定まろうとすると、日本の乗組員は米国人と一緒に乗るのは厭だと云う。何故かと云うに、若しその人達を連れて帰れば、却て銘々共が亜米利加人に連れて行て貰たように思われて、日本人の名誉に係るから乗せないと剛情を張る。夫れ是れで政府も余程困た様子でありしが、到頭ソレを無理圧付けにして同船させたのは、政府の長老も内実は日本士官の伎倆を覚束なく思い、一人でも米国の航海士が同船したらばマサカの時に何かの便利になろうと云う老婆心であったと思われる。
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福翁自伝・長崎遊学それから長崎に出掛けた。頃は安政元年二月、即ち私の年二十一歳(正味十九歳三箇月)の時である。その時分には中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。都会の地には洋学と云うものは百年も前からありながら、中津は田舎の事であるから、原書は扨置き、横文字を見たことがなかった。所がその頃は丁度ペルリの来た時で、亜米利加の軍艦が江戸に来たと云うことは田舎でも皆知て、同時に砲術と云うことが大変喧しくなって来て、ソコデ砲術を学ぶものは皆和蘭流に就て学ぶので、その時私の兄が申すに、「和蘭の砲術を取調べるには如何しても原書を読まなければならぬと云うから、私には分らぬ。「原書とは何の事ですと兄に質問すると、兄の答に、「原書と云うは、和蘭出版の横文字の書だ。今、日本に飜訳書と云うものがあって、西洋の事を書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本の蘭文の書を読まなければならぬ。夫れに就ては貴様はその原書を読む気はないかと云う。所が私は素と漢書を学んで居るとき、同年輩の朋友の中では何時も出来が好くて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然頼にする気があったと思われる。「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょうと、ソコデ兄弟の相談は出来て、その時丁度兄が長崎に行く序に任せ、兄の供をして参りました。長崎に落付き、始めて横文字の abc と云うものを習うたが、今では日本国中到る処に、徳利の貼紙を見ても横文字は幾許もある。目に慣れて珍しくもないが、始めての時は中々六かしい。廿六文字を習うて覚えて仕舞うまでには三日も掛りました。けれども段々読む中には又左程でもなく、次第々々に易くなって来たが、その蘭学修業の事は扨置き、抑も私の長崎に往たのは、唯田舎の中津の窮屈なのが忌で/\堪らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば難有いと云うので出掛けたことだから、故郷を去るに少しも未練はない、如斯処に誰が居るものか、一度出たらば鉄砲玉で、再び帰て来はしないぞ、今日こそ宜い心地だと独り心で喜び、後向て唾して颯々と足早にかけ出したのは今でも覚えて居る。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・牢屋に大地震の如し所で三十七日掛て桑港に着た。航海中私は身体が丈夫だと見えて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、「是れは何の事はない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入て毎日毎夜大地震に遇て居ると思えば宜いじゃないかと笑て居る位な事で、船が沈もうと云うことは一寸とも思わない。と云うのは私が西洋を信ずるの念が骨に徹して居たものと見えて、一寸とも怖いと思たことがない。夫れから途中で水が乏しくなったので布哇に寄るか寄らぬかと云う説が起た。辛抱して行けば布哇に寄らないでも間に合うであろうが、極用心をすれば寄港して水を取て行く、如何しようかと云うが、遂に布哇に寄らずに桑港に直航と斯う決定して、夫れから水の倹約だ。何でも飲むより外は一切水を使うことはならぬと云うことになった。所でその時に大に人を感激せしめた事がある、と云うのは船中に亜米利加の水夫が四、五人居ましたその水夫等が、動もすると水を使うので、甲比丹ブルックに、どうも水夫が水を使うて困ると云たら甲比丹の云うには、水を使うたら直に鉄砲で撃殺して呉れ、是れは共同の敵じゃから説諭も要らなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さいと云う。理屈を云えば、その通りに違いない。夫れから水夫を呼で、水を使えは鉄砲で撃殺すから爾う思えと云うような訳けで水を倹約したから、如何やら斯うやら水の尽きると云うことがなくて、同勢合せて九十六人無事に亜米利加に着た。船中の混雑は中々容易ならぬ事で、水夫共は皆筒袖の着物は着て居るけれども穿物は草鞋だ。草鞋が何百何千足も貯えてあったものと見える。船中はもうビショ/\で、カラリとした天気は三十七日の間に四日か五日あったと思います。誠に船の中は大変な混雑であった(桑港着船の上、艦長の奮発で水夫共に長靴を一足ずつ買て遣て夫れから大に体裁が好くなった)。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・浦賀に上陸して酒を飲む咸臨丸の出帆は万延元年の正月で、品川沖を出て先ず浦賀に行た。同時に日本から亜米利加に使節が立て行くので、亜米利加からその使節の迎船が来た。ポーハタンと云うその軍艦に乗て行くのであるが、そのポーハタンは後から来ることになって、咸臨丸は先に出帆して先ず浦賀に泊た。浦賀に居て面白い事がある。船に乗組で居る人は皆若い人で、もう是れが日本の訣別であるから浦賀に上陸して酒を飲もうではないかと云出した者がある。何れも同説で、夫れから陸に上て茶屋見たような処に行て、散々酒を飲でサア船に帰ると云う時に、誠に手癖の悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上に嗽茶椀が一つあった、是れは船の中で役に立ちそうな物だと思て、一寸と私が夫を盗で来た。その時は冬の事で、サア出帆した所が大嵐、毎日々々の大嵐、なか/\茶椀に飯を盛て本式に喫べるなんと云うことは容易な事ではない。所が私の盗だ嗽茶椀が役に立て、その中に一杯飯を入れて、その上に汁でも何でも皆掛けて、立て喰う。誠に世話のない話で、大層便利を得て、亜米利加まで行て、帰りの航海中も毎日用いて、到頭日本まで持て帰て、久しく私の家にゴロチャラして居た。程経て聞けばその浦賀で上陸して飲食いした処は遊女屋だと云う。夫れはその当時私は知らなかったが、そうして見ると彼の大きな茶椀は女郎の嗽茶椀であったろう。思えば穢ないようだが、航海中は誠に調法、唯一の宝物であったのが可笑しい。
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福翁自伝・始めて亜米利加に渡る・布哇寄港祝砲と共に目出度桑港を出帆して、今度は布哇寄港と定まり、水夫は二、三人亜米利加から連れて来たけれども、甲比丹ブルックは居らず、本当の日本人ばかりで、何やら斯うやら布哇を捜出して、其処へ寄港して三、四日逗留した。逗留中、布哇の風俗に就ては物珍しく云う程の要用はないだろう、と思うのは、三十年前の布哇も今も変たことはなかろう、その土人の風俗は汚ない有様で、一見蛮民と云うより外仕方がない。王様にも遇うたが、是れも国王陛下と云えば大層なようだけれども、其処へ行て見れば驚く程の事はない。夫婦連で出て来て、国王は只羅紗の服を着て居ると云う位な事、家も日本で云えば中位の西洋造り、宝物を見せると云うから何かと思たら、鳥の羽で拵えた敷物を持て来て、是れが一番のお宝物だと云う。あれが皇弟か、その皇弟が笊を提げて買物に行くような訳けで、マア村の漁師の親方ぐらいの者であった。
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福翁自伝・欧羅巴各国に行く・欧羅巴各国に行く(2)それから欧羅巴に行くと云うことになって、船の出発したのは文久元年十二月の事であった。この度の船は日本の使節が行くと云う為めに、英吉利から迎船のようにして来たオーヂンと云う軍艦で、その軍艦に乗て香港、新嘉堡と云うような印度洋の港々に立寄り、紅海に這入て、蘇士から上陸して蒸気車に乗て、埃及のカイロ府に着て二晩ばかり泊り、それから地中海に出て、其処から又船に乗て仏蘭西の馬塞耳、ソコデ蒸汽車に乗て里昂に一泊、巴里に着て滞在凡そ二十日、使節の事を終り、巴里を去て英吉利に渡り、英吉利から和蘭、和蘭から普魯西の都の伯林に行き、伯林から露西亜のペートルスボルグ、夫れから再び巴里に帰て来て、仏蘭西から船に乗て、葡萄牙に行き、ソレカラ地中海に這入て、元の通りの順路を経て帰て来たその間の年月は凡そ一箇年、即ち文久二年一杯、推詰てから日本に帰て来ました。 扨今度の旅行に就て申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語ると云うことが徐々出来て、夫れから前に申す通りに金も聊か持て居るその金は何も遣い所はないから、只日本を出る時に尋常一様の旅装をした丈けで、その当時は物価の安い時だから何もそんなに金の要る訳けがない、その余た金は皆携えて行て竜動に逗留中、外に買物もない、唯英書ばかりを買て来た。是れが抑も日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったと云うのも是れからの事である。 夫れから彼の国の巡回中色々観察見聞したことも多いが、是れは後の話にして、先ず使節一行の有様を申さんに、その人員は、 竹内下野守(正使)松平石見守(副使)京極能登守(御目付)柴田貞太郎(組頭)日高圭三郎(御勘定)福田作太郎(御徒士目付)水品楽太郎(調役)岡綺藤左衛門(同)高嶋祐啓(御医師但し漢方医なり)川崎道民(雇医)益頭駿次郎(御普請役)上田友助(定役元締)森鉢太郎(定役)福地源一郎(通弁)立広作(同)太田源三郎(同)斎藤大之進(同心)高松彦三郎(御小人目付)山田八郎(同)松木弘安(反訳方)箕作秋坪(同)福澤諭吉(同) 右の外に三使節の家来両三人ずつと、賄小使六、七人、この小使の中には内証で諸藩から頼んで乗込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福澤等は先ず役人のような者ではあるが、大名の家来、所謂陪臣の身分であるから、一行中の一番下席で惣人数凡そ四十人足らず、孰れも日本服に大小を横えて巴里、竜動を闊歩したも可笑しい。
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