福翁自伝 / 緒方の塾風・目的なしの勉強
兎に角に当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却て仕合で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先ばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。左ればと云て只迂闊に本ばかり見て居るのは最も宜しくない。宜しくないとは云いながら、又始終今も云う通り自分の身の行末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したらば金が手に這入るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を喰い好い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中は自から静にして居らなければならぬと云う理屈が茲に出て来ようと思う。
書き下し
兎に角に当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却て仕合で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先ばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。左ればと云て只迂闊に本ばかり見て居るのは最も宜しくない。宜しくないとは云いながら、又始終今も云う通り自分の身の行末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したらば金が手に這入るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を喰い好い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中は自から静にして居らなければならぬと云う理屈が茲に出て来ようと思う。
現代語訳
とにかく当時の緒方の書生は、十のうち七、八は目的なしに苦学した者ですが、その目的のなかったのがかえって幸せで、江戸の書生よりもよく勉強ができたのでしょう。そこから考えてみると、今日の書生にしても、あまり学問を勉強すると同時に、始終わが身の行く先ばかり考えているようでは、修業はできないだろうと思います。かといって、ただうかつに本ばかり見ているのは最もよくありません。よくないとはいいながら、また始終今も言うとおり自分の身の行く末のみ考えて、どうしたら立身ができるだろうか、どうしたら金が手に入るだろうか、立派な家に住むことができるだろうか、どうすればうまい物を食い、よい着物を着られるだろうかというようなことばかりに心を引かれて、あくせく勉強するということでは、決して真の勉強はできないだろうと思います。就学勉強中は、おのずから静かにしていなければならないという理屈が、ここに出てくると思います。
解説
この章句が説くこと
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福翁自伝・緒方の塾風・塾生の勉強(1)凡そ斯う云う風で、外に出ても亦内に居ても、乱暴もすれば議論もする。ソレ故一寸と一目見た所では――今までの話だけを開た所では、如何にも学問どころの事ではなく唯ワイ/\して居たのかと人が思うでありましょうが、其処の一段に至ては決して爾うでない。学問勉強と云うことになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政三年の三月、熱病を煩うて幸に全快に及んだが、病中は括枕で坐蒲団か何かを括って枕にして居たが、追々元の体に恢復して来た所で、只の枕をして見たいと思い、その時に私は中津の倉屋敷に兄と同居して居たので、兄の家来が一人あるその家来に、只の枕をして見たいから持て来いと云たが、枕がない、どんなに捜してもないと云うので、不図思付いた。是れまで倉屋敷に一年ばかり居たが遂ぞ枕をしたことがない、と云うのは時は何時でも構わぬ、殆んど昼夜の区別はない、日が暮れたからと云て寝ようとも思わず頻りに書を読んで居る。読書に草臥れ眠くなって来れば、机の上に突臥して眠るか、或は床の間の床側を枕にして眠るか、遂ぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどゝ云うことは只の一度もしたことがない。その時に始めて自分で気が付て、「成程枕はない筈だ、是れまで枕をして寝たことがなかったからと始めて気が付きました。是れでも大抵趣が分りましょう。是れは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大抵皆そんなもので、凡そ勉強と云うことに就ては実にこの上に為ようはないと云う程に勉強して居ました。
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福翁自伝・緒方の塾風・自身自力の研究(2)市中に出て大に酒を飲むとか暴れるとか云うのは、大抵会読を仕舞たその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も暇があると云う時に勝手次第に出て行たので、会読の日に近くなると所謂月に六回の試験だから非常に勉強して居ました。書物を能く読むと否とは人々の才不才にも依りますけれども、兎も角も外面を胡魔化して何年居るから登級するの卒業するのと云うことは絶えてなく、正味の実力を養うと云うのが事実に行われて居たから、大概の塾生は能く原書を読むことに達して居ました。
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福翁自伝・緒方の塾風・塾生の勉強(2)それから緒方の塾に這入てからも私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分に若し酒があれば酒を飲で初更に寝る。一寝して目が覚ると云うのが今で云えば十時か十時過、それからヒョイと起きて書を読む。夜明まで書を読んで居て、台所の方で塾の飯炊がコト/\飯を焚く仕度をする音が聞えると、それを相図に又寝る。寝て丁度飯の出来上った頃起きて、その儘湯屋に行て朝湯に這入て、それから塾に帰て朝飯を給べて又書を読むと云うのが、大抵緒方の塾に居る間殆んど常極りであった。勿論衛生などゝ云うことは頓と構わない。全体は医者の塾であるから衛生論も喧しく言いそうなものであるけれども、誰も気が付かなかったのか或は思出さなかったのか、一寸でも喧しく云たことはない。それで平気で居られたと云うのは、考えて見れば身体が丈夫であったのか、或は又衛生々々と云うようなことを無闇に喧しく云えば却て身体が弱くなると思て居たのではないかと思われる。
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福翁自伝・緒方の塾風・大阪書生の特色只今申したような次第で、緒方の書生は学問上の事に就ては一寸とも怠ったことはない。その時の有様を申せば、江戸に居た書生が折節大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪から態々江戸に学びに行くと云うものはない。行けば則ち教えると云う方であった。左れば大阪に限て日本国中粒選のエライ書生の居よう訳けはない。又江戸に限て日本国中の鈍い書生ばかり居よう訳けもない。然るに何故ソレが違うかと云うことに就ては考えなくてはならぬ。勿論その時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をして居たけれども、夫れは人物の相違ではない。江戸と大阪と自から事情が違て居る。江戸の方では開国の初とは云いながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷と云う者があって、西洋の新技術を求むることが広く且つ急である。従て聊かでも洋書を解すことの出来る者を雇うとか、或は飜訳をさせればその返礼に金を与えるとか云うような事で、書生輩が自から生計の道に近い。極都合の宜い者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百石の侍になったと云うことも稀にはあった。夫れに引換て大阪は丸で町人の世界で、何も武家と云うものはない。従て砲術を遣ろうと云う者もなければ原書を取調べようと云う者もありはせぬ。夫れゆえ緒方の書生が幾年勉強して何程エライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。即ち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めると云うことにも思い寄らぬので、然らば何の為めに苦学するかと云えば一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生と云えば世間に悪く云われるばかりで、既に已に焼けに成て居る。唯昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がって居るようなもので実に訳けの分らぬ身の有様とは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を叩いて見れば、自から楽しみがある。之を一言すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない事だ、自分達の仲間に限て斯様事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すと云う気位で、唯六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽と云う境遇であったと思われる。喩えばこの薬は何に利くか知らぬけれども、自分達より外にこんな苦い薬を能く呑む者はなかろうと云う見識で、病の在る所も問わずに唯苦ければもっと呑で遣ると云う位の血気であったに違いはない。
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福翁自伝・緒方の塾風・不潔に頓着せず塾員は不規則と云わんか不整頓と云わんか乱暴狼藉、丸で物事に無頓着。その無頓着の極は世間で云うように潔不潔、汚ないと云うことを気に止めない。例えば、塾の事であるから勿論桶だの丼だの皿などの、あろう筈はないけれども、緒方の塾生は学塾の中に居ながら七輪もあれば鍋もあって、物を煮て喰うと云うような事を不断遣て居る、その趣は恰も手鍋世帯の台所見たような事を机の周囲で遣て居た。けれども道具の足ると云うことのあろう筈はない。ソコで洗手盥も金盥も一切食物調理の道具になって、暑中など何処からか素麺を貰うと、その素麺を奥の台所で湯煮て貰うて、その素麺を冷すには、毎朝、顔を洗う洗手盥を持て来て、その中で冷素麺にして、汁を拵えるに調合所の砂糖でも盗み出せば上出来、その外、肴を拵えるにも野菜を洗うにも洗手盥は唯一のお道具で、ソンナ事は少しも汚ないと思わなかった。 夫れ所ではない。虱は塾中永住の動物で、誰れ一人も之を免かれることは出来ない。一寸と裸体になれば五疋も十疋も捕るに造作はない。春先き少し暖気になると羽織の襟に匍出すことがある。或る書生の説に、ドウダ、吾々の虱は大阪の焼芋に似て居る。冬中が真盛りで、春になり夏になると次第に衰えて、暑中二、三箇月蚤と交代して引込み、九月頃新芋が町に出ると吾々の虱も復た出て来るのは可笑しいと云た事がある。私は一案を工風し、抑も虱を殺すに熱湯を用うるは洗濯婆の旧筆法で面白くない、乃公が一発で殺して見せようと云て、厳冬の霜夜に襦袢を物干に洒して虱の親も玉子も一時に枯らしたことがある。この工風は私の新発明ではない、曾て誰れかに聞たことがあるから遣て見たのです。
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福翁自伝・大阪修業・塾長になるその後私の学問も少しは進歩した折柄、先輩の人は国に帰る、塾中無人にて遂に私が塾長になった。扨塾長になったからと云て、元来の塾風で塾長に何も権力のあるではなし、唯塾中一番六かしい原書を会読するときその会頭を勤める位のことで、同窓生の交際に少しも軽重はない。塾長殿も以前の通りに読書勉強して、勉強の間にはあらん限りの活動ではないどうかと云えば先ず乱暴をして面白がって居ることだから、その乱暴生が徳義を以て人を感化するなど云う鹿爪らしい事を考える訳けもない。又塾風を善くすれば先生に対しての御奉公、御恩報じになると、そんな老人めいた心のあろう筈もないが、唯私の本来仮初にも弱い者いじめをせず、仮初にも人の物を貪らず、人の金を借用せず、唯の百文も借りたることはないその上に、品行は清浄潔白にして俯仰天地に愧ずと云う、自から外の者と違う処があるから、一緒になってワイ/\云て居ながら、マア一口に云えば、同窓生一人も残らず自分の通りになれ、又自分の通りにして遣ろうと云うような血気の威張りであったろうと今から思うだけで、決して道徳とか仁義とか又大恩の先生に忠義とか、そんな奥ゆかしい事は更らに覚えはなかったのです。併し何でも爾う威張り廻って暴れたのが、塾の為めに悪い事もあろう、又自から役に立たこともあるだろうと思う。若し役に立て居れば夫れは偶然で、決して私の手柄でも何でもありはしない。
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