福翁自伝 / 緒方の塾風・自身自力の研究(2)
市中に出て大に酒を飲むとか暴れるとか云うのは、大抵会読を仕舞たその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も暇があると云う時に勝手次第に出て行たので、会読の日に近くなると所謂月に六回の試験だから非常に勉強して居ました。書物を能く読むと否とは人々の才不才にも依りますけれども、兎も角も外面を胡魔化して何年居るから登級するの卒業するのと云うことは絶えてなく、正味の実力を養うと云うのが事実に行われて居たから、大概の塾生は能く原書を読むことに達して居ました。
書き下し
市中に出て大に酒を飲むとか暴れるとか云うのは、大抵会読を仕舞たその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も暇があると云う時に勝手次第に出て行たので、会読の日に近くなると所謂月に六回の試験だから非常に勉強して居ました。書物を能く読むと否とは人々の才不才にも依りますけれども、兎も角も外面を胡魔化して何年居るから登級するの卒業するのと云うことは絶えてなく、正味の実力を養うと云うのが事実に行われて居たから、大概の塾生は能く原書を読むことに達して居ました。
現代語訳
市中に出て大いに酒を飲むとか暴れるとかいうのは、大抵会読を終えたその晩か翌日あたりで、次の会読までにはまだ四日も五日も暇があるというときに、勝手次第に出て行ったのです。会読の日が近くなると、いわゆる月に六回の試験ですから、非常に勉強していました。書物をよく読むかどうかは、人々の才不才にもよりますけれども、ともかくも外面を取り繕って、何年いるから登級するとか卒業するとかいうことは絶えてなく、正味の実力を養うということが事実として行われていたので、大概の塾生は、よく原書を読むことに達していました。
解説
遊びと勉強の切り替えが明確だったことを述べる短い一節です。会読の直後に羽を伸ばし、直前には猛勉強するというリズムがあり、月六回の試験が学びの緊張を保っていました。年数や形式で卒業が決まらず、実力だけで登級する仕組みは、近代の学校より厳格です。肩書きや在籍年数でなく、実際にできることで評価するという姿勢は、現代の人事評価や成果主義に通じます。遊びを許す一方で、実力の確認は容赦なく行う、というメリハリが、大阪の書生を鍛えたという見立てです。
この章句が説くこと
実力会読試験メリハリ登級緒方塾
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福翁自伝・緒方の塾風・目的なしの勉強兎に角に当時緒方の書生は十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却て仕合で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先ばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。左ればと云て只迂闊に本ばかり見て居るのは最も宜しくない。宜しくないとは云いながら、又始終今も云う通り自分の身の行末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したらば金が手に這入るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を喰い好い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中は自から静にして居らなければならぬと云う理屈が茲に出て来ようと思う。
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福翁自伝・緒方の塾風・原本写本会読の法それから塾で修行するその時の仕方は如何云う塩梅であったかと申すと、先ず始めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何して教えるかと云うと、その時江戸で飜刻になって居る和蘭の文典が二冊ある。一をガランマチカと云い、一をセインタキスと云う。初学の者には先ずそのガランマチカを教え、素読を授る傍に講釈をもして聞かせる。之を一冊読了るとセインタキスを又その通にして教える。如何やら斯うやら二冊の文典が解せるようになった所で会読をさせる。会読と云うことは生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭が一人あって、その会読するのを聞て居て、出来不出来に依て白玉を附けたり黒玉を付けたりすると云う趣向で、ソコで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると、夫れから以上は専ら自身自力の研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、又質問を試みるような卑劣な者もない。緒方の塾の蔵書と云うものは物理書と医書とこの二種類の外に何もない。ソレモ取集めて僅か十部に足らず、固より和蘭から舶来の原書であるが、一種類唯一部に限ってあるから、文典以上の生徒になれば如何してもその原書を写さなくてはならぬ。銘々に写して、その写本を以て毎月六才位会読をするのであるが、之を写すに十人なら十人一緒に写す訳けに行かないから、誰が先に写すかと云うことは籤で定めるので、扨その写しようは如何すると云うに、その時には勿論洋紙と云うものはない、皆日本紙で、紙を能く磨て真書で写す。それはどうも埓が明かないから、その紙に礬水をして、夫れから筆は鵞筆で以て写すのが先ず一般の風であった。その鵞筆と云うのは如何云うものであるかと云うと、その時大阪の薬種屋か何かに、鶴か雁かは知らぬが、三寸ばかりに切た鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。是れは鰹の釣道具にするものとやら聞て居た。価は至極安い物で、それを買て、磨澄ました小刀で以てその軸をペンのように削って使えば役に立つ。夫れから墨も西洋インキのあられよう訳けはない。日本の墨壺と云うのは、磨た墨汁を綿か毛氈の切布に浸して使うのであるが、私などが原書の写本に用うるのは、只墨を磨たまゝ墨壺の中に入れて今日のインキのようにして貯えて置きます。斯う云う次第で、塾中誰でも是非写さなければならぬから写本は中々上達して上手である。一例を挙ぐれば、一人の人が原書を読むその傍で、その読む声がちゃんと耳に這入て、颯々と写してスペルを誤ることがない。斯う云う塩梅に読むと写すと二人掛りで写したり、又一人で原書を見て写したりして、出来上れば原書を次の人に廻す。その人が写丁ると又その次の人が写すと云うように順番にして、一日の会読分は半紙にして三枚か或は四、五枚より多くはない。
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福翁自伝・緒方の塾風・大阪書生の特色只今申したような次第で、緒方の書生は学問上の事に就ては一寸とも怠ったことはない。その時の有様を申せば、江戸に居た書生が折節大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪から態々江戸に学びに行くと云うものはない。行けば則ち教えると云う方であった。左れば大阪に限て日本国中粒選のエライ書生の居よう訳けはない。又江戸に限て日本国中の鈍い書生ばかり居よう訳けもない。然るに何故ソレが違うかと云うことに就ては考えなくてはならぬ。勿論その時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をして居たけれども、夫れは人物の相違ではない。江戸と大阪と自から事情が違て居る。江戸の方では開国の初とは云いながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷と云う者があって、西洋の新技術を求むることが広く且つ急である。従て聊かでも洋書を解すことの出来る者を雇うとか、或は飜訳をさせればその返礼に金を与えるとか云うような事で、書生輩が自から生計の道に近い。極都合の宜い者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百石の侍になったと云うことも稀にはあった。夫れに引換て大阪は丸で町人の世界で、何も武家と云うものはない。従て砲術を遣ろうと云う者もなければ原書を取調べようと云う者もありはせぬ。夫れゆえ緒方の書生が幾年勉強して何程エライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。即ち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めると云うことにも思い寄らぬので、然らば何の為めに苦学するかと云えば一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生と云えば世間に悪く云われるばかりで、既に已に焼けに成て居る。唯昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がって居るようなもので実に訳けの分らぬ身の有様とは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を叩いて見れば、自から楽しみがある。之を一言すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない事だ、自分達の仲間に限て斯様事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すと云う気位で、唯六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽と云う境遇であったと思われる。喩えばこの薬は何に利くか知らぬけれども、自分達より外にこんな苦い薬を能く呑む者はなかろうと云う見識で、病の在る所も問わずに唯苦ければもっと呑で遣ると云う位の血気であったに違いはない。
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福翁自伝・大阪修業・塾長になるその後私の学問も少しは進歩した折柄、先輩の人は国に帰る、塾中無人にて遂に私が塾長になった。扨塾長になったからと云て、元来の塾風で塾長に何も権力のあるではなし、唯塾中一番六かしい原書を会読するときその会頭を勤める位のことで、同窓生の交際に少しも軽重はない。塾長殿も以前の通りに読書勉強して、勉強の間にはあらん限りの活動ではないどうかと云えば先ず乱暴をして面白がって居ることだから、その乱暴生が徳義を以て人を感化するなど云う鹿爪らしい事を考える訳けもない。又塾風を善くすれば先生に対しての御奉公、御恩報じになると、そんな老人めいた心のあろう筈もないが、唯私の本来仮初にも弱い者いじめをせず、仮初にも人の物を貪らず、人の金を借用せず、唯の百文も借りたることはないその上に、品行は清浄潔白にして俯仰天地に愧ずと云う、自から外の者と違う処があるから、一緒になってワイ/\云て居ながら、マア一口に云えば、同窓生一人も残らず自分の通りになれ、又自分の通りにして遣ろうと云うような血気の威張りであったろうと今から思うだけで、決して道徳とか仁義とか又大恩の先生に忠義とか、そんな奥ゆかしい事は更らに覚えはなかったのです。併し何でも爾う威張り廻って暴れたのが、塾の為めに悪い事もあろう、又自から役に立たこともあるだろうと思う。若し役に立て居れば夫れは偶然で、決して私の手柄でも何でもありはしない。
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