福翁自伝 / 緒方の塾風・無神無仏
又大阪の東北の方に葭屋橋と云う橋があるその橋手前の処を築地と云て、在昔は誠に如何な家ばかり並んで居て、マア待合をする地獄屋とでも云うような内実穢ない町であったが、その築地の入口の角に地蔵様か金比羅様か知らん小さな堂がある。中々繁昌の様子で、其処に色々な額が上げてある。或は男女の拝んでる処が描いてある、何か封書が順に貼付けてある、又は髻が切て結い付けてある。夫れを昼の中に見て置て、夜になるとその封書や髻のあるのを引さらえて塾に持て帰て開封して見ると、種々様々の願が掛けてあるから面白い。「ハヽア是れは博奕を打た奴が止ると云うのか。是れは禁酒だ。是れは難船に助かったお礼。此方のは女狂にこり/\した奴だ。夫れは何歳の娘が妙な事を念じて居るなどゝ、唯それを見るのが面白くて毎度遣た事だが、兎に角に人の一心を籠めた祈願を無茶苦茶にするとは罪の深いことだ。無神無仏の蘭学生に逢ては仕方がない。
書き下し
又大阪の東北の方に葭屋橋と云う橋があるその橋手前の処を築地と云て、在昔は誠に如何な家ばかり並んで居て、マア待合をする地獄屋とでも云うような内実穢ない町であったが、その築地の入口の角に地蔵様か金比羅様か知らん小さな堂がある。中々繁昌の様子で、其処に色々な額が上げてある。或は男女の拝んでる処が描いてある、何か封書が順に貼付けてある、又は髻が切て結い付けてある。夫れを昼の中に見て置て、夜になるとその封書や髻のあるのを引さらえて塾に持て帰て開封して見ると、種々様々の願が掛けてあるから面白い。「ハヽア是れは博奕を打た奴が止ると云うのか。是れは禁酒だ。是れは難船に助かったお礼。此方のは女狂にこり/\した奴だ。夫れは何歳の娘が妙な事を念じて居るなどゝ、唯それを見るのが面白くて毎度遣た事だが、兎に角に人の一心を籠めた祈願を無茶苦茶にするとは罪の深いことだ。無神無仏の蘭学生に逢ては仕方がない。
現代語訳
また大阪の東北の方に葭屋橋という橋があり、その橋の手前を築地と呼んでいました。昔は本当にいかがわしい家ばかりが並び、まあ待合をする地獄屋とでも言うような、内実は汚い町でした。その築地の入口の角に、地蔵様か金毘羅様か知らないが小さな堂があります。なかなか繁盛している様子で、そこにいろいろな額が上げてあります。男女が拝んでいる絵が描いてあったり、何か封書が順に貼り付けてあったり、また髷を切って結び付けてあったりします。それを昼のうちに見ておいて、夜になるとその封書や髷を全部はぎ取って塾に持ち帰り、開封して見ると、種々様々の願が掛けてあるから面白い。「ははあ、これは博打を打った奴がやめると言うのか。これは禁酒だ。これは難船に助かったお礼。こっちは女狂いに懲りた奴だ。それは何歳の娘が妙なことを念じている」などと、ただそれを見るのが面白くて、たびたびやったことです。とにかく人が一心を込めた祈願を無茶苦茶にするとは、罪の深いことです。無神無仏の蘭学生に出会ったのでは仕方がありません。
解説
この章句が説くこと
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