福翁自伝 / 長崎遊学・馬関より乗船
夫れから船場屋寿久右衛門の処から乗た船には、三月の事で皆上方見物、夫れは/\種々様々な奴が乗て居る。間抜けな若旦那も乗て居れば、頭の禿た老爺も乗て居る、上方辺の茶屋女も居れば、下ノ関の安女郎も居る。坊主も、百姓も、有らん限りの動物が揃うて、其奴等が狭い船の中で、酒を飲み、博奕をする。下らぬ事に大きな声をして、聞かれぬ話をして、面白そうにしてる中に、私一人は真実無言、丸で取付端がない。船は安芸の宮島へ着た。私は宮島に用はない。唯来たから唯島を見に上る。外の連中はお互に朋友だから宜いだろう。皆酒を飲む。私も飲みたくて堪らぬけれども、金がないから只宮島を見たばかりで、船に帰て来てむしゃ/\船の飯を喰てるから、船頭もこんな客は忌やだろう、妙な顔をして私を睨んで居たのは今でも覚えて居る。その前に岩国の錦帯橋も余儀なく見物して、夫れから宮島を出て讃岐の金比羅様だ。多度津に船が着て金比羅まで三里と云う。行きたくないことはないが、金がないから行かれない。外の奴は皆船から出て行て、私一人で船の番をして居る。爾うすると一晩泊て、どいつもこいつもグデン/\に酔て陽気になって帰て来る。癪に障るけれども何としても仕様がない。
書き下し
夫れから船場屋寿久右衛門の処から乗た船には、三月の事で皆上方見物、夫れは/\種々様々な奴が乗て居る。間抜けな若旦那も乗て居れば、頭の禿た老爺も乗て居る、上方辺の茶屋女も居れば、下ノ関の安女郎も居る。坊主も、百姓も、有らん限りの動物が揃うて、其奴等が狭い船の中で、酒を飲み、博奕をする。下らぬ事に大きな声をして、聞かれぬ話をして、面白そうにしてる中に、私一人は真実無言、丸で取付端がない。船は安芸の宮島へ着た。私は宮島に用はない。唯来たから唯島を見に上る。外の連中はお互に朋友だから宜いだろう。皆酒を飲む。私も飲みたくて堪らぬけれども、金がないから只宮島を見たばかりで、船に帰て来てむしゃ/\船の飯を喰てるから、船頭もこんな客は忌やだろう、妙な顔をして私を睨んで居たのは今でも覚えて居る。その前に岩国の錦帯橋も余儀なく見物して、夫れから宮島を出て讃岐の金比羅様だ。多度津に船が着て金比羅まで三里と云う。行きたくないことはないが、金がないから行かれない。外の奴は皆船から出て行て、私一人で船の番をして居る。爾うすると一晩泊て、どいつもこいつもグデン/\に酔て陽気になって帰て来る。癪に障るけれども何としても仕様がない。
現代語訳
それから船場屋寿久右衛門のところから乗った船には、三月のことで、みな上方見物の連中で、それはそれはさまざまな奴が乗っています。間抜けな若旦那も乗っていれば、頭の禿げた老人も乗っている、上方あたりの茶屋の女もいれば、下ノ関の安女郎もいる。坊主も百姓も、あらん限りの動物がそろっていて、その連中が狭い船の中で酒を飲み、博奕をする。くだらないことに大きな声を出して、聞くに堪えない話をして、面白そうにしているうちに、私ひとりは本当に無言、まるで取りつく島がありません。船は安芸の宮島に着きました。私は宮島に用はありません。ただ来たからただ島を見に上がる。ほかの連中はお互いに友達だからよいでしょう、みな酒を飲む。私も飲みたくてたまりませんが、金がないので、ただ宮島を見ただけで、船に帰ってきて、むしゃむしゃ船の飯を食べているから、船頭もこんな客は嫌でしょう、妙な顔をして私を睨んでいたのは今でも覚えています。その前に岩国の錦帯橋も余儀なく見物して、それから宮島を出て讃岐の金比羅様です。多度津に船が着いて、金比羅まで三里という。行きたくないことはありませんが、金がないから行かれません。ほかの奴はみな船から出て行って、私ひとりで船の番をしている。そうすると一晩泊まって、どいつもこいつもぐでんぐでんに酔って陽気になって帰ってくる。癪に障るけれども、何としても仕方がありません。
解説
この章句が説くこと
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