童子問 / 卷中
問。先儒論王道。必曰盡天理之極。而無一毫人欲之私。此語甚善。無可以加焉。何故不與王道相稱。曰。聖人之治天下也。以天下大同之道。治天下大同之人。建大中之道。而不爲過高之行。故中庸曰。君子以人治人。改而止。葢盡天理之極。非人人之所能。無一毫人欲之私。亦非具形骸有人情者之所能爲。聖人不以此自治。亦不以此强人。由仁義行。非行仁義也。孟子曰。先王有不忍人之心。斯有不忍人之政。又曰。文王視民如傷。聖賢之論王道如此。未聞以盡天理之極。而無一毫人欲之私爲王道也。蓋無一毫人欲之私。卽所以盡天理之極。而盡天理之極。便所以無一毫人欲之私也。少林曹溪之徒可以當之。而若吾聖人。則不以此爲道。故不可以此論王道也。宋儒之意必謂。達磨慧能所以不免爲異端者。以其棄人倫也。若使彼不棄人倫。則於盡天理之極。而無一毫人欲之私。殆無餘功也。吁使達磨慧能能不棄人倫。亦惟是達磨慧能焉耳。與聖人之心。固天地懸隔。然則。盡天理之極。而無一毫人欲之私之所以不與王道相稱者。可從而知矣。
新字:問。先儒論王道。必曰尽天理之極。而無一毫人欲之私。此語甚善。無可以加焉。何故不与王道相称。曰。聖人之治天下也。以天下大同之道。治天下大同之人。建大中之道。而不為過高之行。故中庸曰。君子以人治人。改而止。葢尽天理之極。非人人之所能。無一毫人欲之私。亦非具形骸有人情者之所能為。聖人不以此自治。亦不以此強人。由仁義行。非行仁義也。孟子曰。先王有不忍人之心。斯有不忍人之政。又曰。文王視民如傷。聖賢之論王道如此。未聞以尽天理之極。而無一毫人欲之私為王道也。蓋無一毫人欲之私。即所以尽天理之極。而尽天理之極。便所以無一毫人欲之私也。少林曹渓之徒可以当之。而若吾聖人。則不以此為道。故不可以此論王道也。宋儒之意必謂。達磨慧能所以不免為異端者。以其棄人倫也。若使彼不棄人倫。則於尽天理之極。而無一毫人欲之私。殆無余功也。吁使達磨慧能能不棄人倫。亦惟是達磨慧能焉耳。与聖人之心。固天地懸隔。然則。尽天理之極。而無一毫人欲之私之所以不与王道相称者。可従而知矣。
書き下し
問ふ。先儒王道を論ずるに、必ず天理の極を尽くして、一毫人欲の私無しと曰ふ。此の語甚だ善し。以て加ふべき無し。何の故に王道と相称はざる。曰く、聖人の天下を治むるや、天下大同の道を以て、天下大同の人を治む。大中の道を建てて、過高の行ひを為さず。故に中庸に曰く、君子は人を以て人を治め、改めて止む、と。蓋し天理の極を尽くすは、人人の能くする所に非ず。一毫人欲の私無きは、亦形骸を具へ人情有る者の能く為す所に非ず。聖人は此を以て自ら治めず、亦此を以て人に強ひず。仁義に由りて行ふ、仁義を行ふに非ざるなり。孟子曰く、先王人に忍びざるの心有りて、斯に人に忍びざるの政有り、と。又曰く、文王は民を視ること傷めるがごとし、と。聖賢の王道を論ずること此くのごとし。未だ天理の極を尽くして、一毫人欲の私無きを以て王道と為すを聞かざるなり。蓋し一毫人欲の私無きは、即ち天理の極を尽くす所以にして、天理の極を尽くすは、便ち一毫人欲の私無き所以なり。少林・曹渓の徒以て之に当つべし。而るに吾が聖人のごときは、則ち此を以て道と為さず。故に此を以て王道を論ずべからざるなり。宋儒の意必ず謂へらく、達磨・慧能の異端たるを免れざる所以の者は、其の人倫を棄つるを以てなり。若し彼をして人倫を棄てざらしめば、則ち天理の極を尽くして、一毫人欲の私無きに於て、殆ど余功無からん、と。吁、達磨・慧能をして能く人倫を棄てざらしむとも、亦惟是れ達磨・慧能なるのみ。聖人の心と、固より天地懸隔す。然らば則ち天理の極を尽くして、一毫人欲の私無きの王道と相称はざる所以の者、従りて知るべし。
現代語訳
問う。先儒は王道を論じると、必ず「天理の極みを尽くして、一毫の人欲の私もない」と言う。この言葉は非常に良く、付け加えるものはない。なぜ王道にふさわしくないと言われるのか。答える。聖人が天下を治めるのは、天下の誰にでも通じる道によって、天下の誰にでも共通する人を治めるのである。偏りのない大いなる中の道を立てて、高すぎる行いはしない。だから中庸に「君子は人の道によって人を治め、改まればそれでやめる」と言う。思うに、天理の極みを尽くすことは誰もができることではなく、一毫の人欲の私もないことも、肉体を備え人情をもつ者のできることではない。聖人はこれによって自分を治めず、これを人に強いもしない。仁義によって自然に行うのであって、仁義を行おうと努めるのではない。孟子は「先王は人の不幸を見過ごせない心があって、そこで人の不幸を見過ごせない政治があった」と言い、また「文王は民を傷ついた者を見るようにいたわった」と言った。聖賢が王道を論じるのはこのようであり、天理の極みを尽くして一毫の人欲の私もないことを王道とした例は聞いたことがない。そもそも一毫の人欲の私もないことは天理の極みを尽くすことであり、天理の極みを尽くすことは一毫の人欲の私もないことである。少林寺の達磨や曹渓の慧能の徒ならばそれに当てはまるであろうが、わが聖人はこれを道とはしない。だからこれで王道を論じてはならないのである。宋儒はきっと「達磨や慧能が異端を免れないのは人倫を棄てたからだ。もし彼らが人倫を棄てなければ、天理の極みを尽くし一毫の人欲の私もないという点では、ほとんど足りないところはない」と考えているのだろう。ああ、たとえ達磨や慧能に人倫を棄てさせなかったとしても、やはり達磨・慧能にすぎない。聖人の心とはもとより天と地ほども隔たっている。そうであれば、「天理の極みを尽くして一毫の人欲の私もない」が王道にふさわしくない理由は、ここからわかるであろう。
解説
この章句が説くこと
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『童子問』卷中問ふ。然らば則ち王道は欲を戒めざるか。曰く、否。書に曰く、礼を以て心を制し、義を以て事を制す、と。孟子曰く、君子は仁を以て心に存し、礼を以て心に存す、と。苟も礼義以て之を裁する有れば、則ち情即ち是れ道、欲即ち是れ義、何の悪むことか之れ有らん。苟も礼義以て之を裁する無くして、特に愛を断ち欲を滅せんと欲すれば、則ち是れ枉を矯めて直に過ぐ。藹然たる至情、一斉に絶滅し、将に形骸を亡ぼし耳目を塞ぎて後に止まんとす。此れ人人の能く為す所に非ずして、天下に通ずるの道に非ず。故に聖人は為さざるなり。大凡天下国家の治に補ひ無く、人倫日用の道に裨け無き者は、皆之を邪説暴行と謂ふ。仏老の学、後世禅儒の高遠隠微の説のごとき、是れなり。
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『童子問』卷中問ふ。孟子は仁義を以て宗旨と為して、又屢王道を談ずるは、何ぞや。曰く、王道は即ち仁義なり。仁義の外に復た王道有るに非ざるなり。孟子曰く、徳を以て仁を行ふ者は王たり、と。又曰く、仁者は敵無し、と。又曰く、先王人に忍びざるの心有りて、斯に人に忍びざるの政有り。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること之を掌上に運らすべし、と。是れなり。王道は固より仁義の両者を出でずと雖も、然れども約して之を論ずれば、則ち一の仁の字之を尽くす。荀子の所謂粋にして王たり、駁にして覇たり、及び諸儒の、天理の極を尽くして、一毫人欲の私無し、有る等の論、皆議論聞くべくして、実に王道を知る者に非ざるなり。善く孟子を読まざるが故なり。
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『童子問』卷中問ふ。聖門の学は、王道を以て本と為すと承く。然れども受用の功夫に於て、頗る切緊ならざるに似たり。如何。曰く、切緊と切緊ならざるとを問ふこと莫れ。惟道に合ふと否とを看よ、如何と。其の功夫の切緊ならざる者は、固より云ふに足らず。然れども凡そ切緊と称する者は、必ず枉を矯めて直に過ぐるに至る。能く此の両者を免るるは、乃ち学問難中の難なり。然れども其の切緊ならざる者は、其の病却つて浅し。枉を矯めて直に過ぐるに至りては、則ち沈病痼疾、薬の医すべき無し。懼れざるべけんや。孟子曰く、心を養ふは、欲を寡くするより善きは莫し、と。此れ中庸の極なり。濂渓曰く、心を養ふは欲を寡くするに止まらず。之を寡くし又寡くして、以て無きに至れば、則ち誠立ち明通ず、と。之を孟子の言に較ぶれば、則ち都て切緊なるに似たり。然れども矯枉過直の病有ることを免れず。蓋し古人は礼義の二者を以て、万事の規矩縄尺と為すこと、家常茶飯のごとく然り。此を以て飲食し、此を以て被服し、出入起居、須臾も離るべからざるなり。書に曰く、礼を以て心を制し、義を以て事を制す、と。孔子曰く、義以て質と為す、と。孟子曰く、礼を以て心に存す、と。是れなり。夫れ苟も礼義を以て之を制すれば、則ち情と曰ひ欲と曰ふも、即ち是れ道為り、本悪むべきの物に非ず。若し礼義を以て之を制せずして、徒に功夫の切緊ならんことを欲すれば、則ち必ず情を滅し欲を無くするに至らずんば、則ち止まず。是れ近世理学諸家の自ら禅荘に流入せざること能はざる所以なり。子王道を以て切緊ならずと為すは、亦俗見なるのみ。
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『童子問』卷中問ふ。王道の学は、固より大なり。而れども今日儒者の先務に非ず。曰く、否。儒者の王道に於けるは、猶ほ孫呉の兵に於ける、盧扁の医に於けるがごとし。蓋し専門の業なり。学問は王道を以て本と為す。故に中庸に曰く、仲尼は堯舜を祖述し、文武を憲章す、と。蓋し孔子の学は、即ち堯舜文武の道なり。孟子の説は、即ち孔子の学なり。皆堯舜文武の天下を治むるの道なり。此を外にして豈に所謂学問なる者有らんや。蓋し王道を以て主と為して之を行ふに非ざれば、修己治人の万般の功夫、皆王道に由りて出づ。故に孔子曰く、君子は己を修めて以て百姓を安んず、と。又曰く、一日己に克ちて礼に復れば、天下仁に帰す、と。凡そ存心養性、忠信篤敬、条目多しと雖も、皆王道を以て本と為さざるは莫くして、乃ち仁を以て要と為す。其の独り其の身を善くするは、豈に聖人の本心ならんや。後世の儒者は王道を説くと雖も、其の実は専ら心法を以て務めと為す。故に異端に流入せざること能はず。子此の意を以て論孟を観よ。頭頭相合し、句句闘湊して、聖人の微意の在る所、註脚の悉くすること能はざる所、了了として分明にして、自ら遺漏無からん。
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『童子問』卷上問ふ、禅荘・宋儒の道を談ずる、遠き者・大なる者を以て極と為す。今、道は近きに在りて遠きに在らずと説く。願はくは其の是非の然る所以を明らかにせよ。曰く、人に語りて知り難き者は、善き教へに非ず。人を導きて従ひ難き者は、善き道に非ず。聖人の道は、君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友の間に在りて、徳は仁義忠信の外に出でず。古今に通じて変ずる所無く、四海に準じて違ふ所無し。人心に根ざし、風俗に徹す。天子も廃すること能はず、聖人も改むること能はず。夫婦の愚不肖も、皆能く知るべく、皆能く行ふべし。故に之を天下の達道徳と謂ふ。禅荘の理、宋儒理性の学の若きは、其の理隠微にして知り難く、其の道高妙にして行ひ難し。人事に遠く、風俗に戻る。之を人倫日用に推すに、皆用ふる所無し。豈に之を天下の達道徳と謂ふことを得んや。大抵高遠に鶩せて、人倫に益無く、日用に資する無く、天下国家の治に補ひ無き者は、便ち孟子の所謂邪説暴行、是れのみ。其の是非は従りて知るべし。
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『童子問』卷中問ふ。聖門の学は、王道を以て本と為す。其の意如何。曰く、子能く聖人の学と仏老の学との由りて分かるる所如何を識らば、則ち自ら之を知らん。聖人は天下の上より道を見る。仏老は一身の上に就きて道を求む。一身の上に就きて道を求む、故に天下の従否を顧みず、専ら清浄無欲を要として、以て一己の安を成就す。卒に人倫を棄て礼楽を廃するに至る。此れ異端たる所以なり。聖人は天下の上より道を見る。故に天下の同じく然りとする所に就きて道を見る。天下を離れて、独り其の身を善くするを欲せず。故に其の学は経世たり、其の道は達道たり、其の教は仁義忠信たり。其の言に曰く、吾斯の人の徒と与にするに非ずして、誰と与にせん。天下道有らば、丘与に易へず、と。其の己を修め徳を立つるは、将に以て天下の人を安んぜんとす。故に天下の能くせざる所を以て人に強ひず、亦天下の従はざる所を以て教と為さず。王道たる所以なり。故に聖人の書を読むには、必ず字眼有り。天下の二字は、是れ聖人の書中の字眼なり。凡そ孔孟の書を読みて、天下の二字有る処に遇はば、必須く眼を著けて看るべし。草草にすること勿れ。
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