大学或問 / 『大学或問』一代限りの禄と言路を開く
(問)祿を世々にすと聞しに一代切とは何ぞや、 (答)自分の領地家中ありては、其仕置に精力もれて公用に害あり、殊に匹夫より擧られて俄に士民多くては、それのみ心を用ひざれば治らず、此故に宰相の祿拾萬石なれば、米麥金銀にて賜はるなり、人馬は其身の生を養ひ、身を助くるばかり也。公用には公儀の人ありて家來のごとく使はるゝなり、拾萬石の祿一萬石ばかりにて自家の用達す、九萬石は餘計となりて親類知音近付の貧乏のものすくはれ、子孫永く富有なり、其身若し病氣となり、又は老衰するときは職を辭して故鄕に歸り、故鄕なき者は在所を賜りて休す、執政の人に領地を給りて子孫に傳ふる時は、十人かはれば百萬石の領地出るなり、公儀の地も左樣はつゝかざれば後にはひろく撰び遂ぐることあたはずして、大身の中より撰ばる、大身は數少なければ本才の人有がたし、其上才德其位に叶はずして、代々大祿を受る事は天の廢する所なり、故に子孫によき人生れがたし、されば古は賢をあぐる事野に於てすといへり、此故に言路を開て天下の善言を來し、誹謗の言までを取、明智を先ぜずして問ことを好む、是人君の民に父母たる第一なり、
新字:(問)禄を世々にすと聞しに一代切とは何ぞや、 (答)自分の領地家中ありては、其仕置に精力もれて公用に害あり、殊に匹夫より挙られて俄に士民多くては、それのみ心を用ひざれば治らず、此故に宰相の禄拾万石なれば、米麦金銀にて賜はるなり、人馬は其身の生を養ひ、身を助くるばかり也。公用には公儀の人ありて家来のごとく使はるゝなり、拾万石の禄一万石ばかりにて自家の用達す、九万石は余計となりて親類知音近付の貧乏のものすくはれ、子孫永く富有なり、其身若し病気となり、又は老衰するときは職を辞して故郷に帰り、故郷なき者は在所を賜りて休す、執政の人に領地を給りて子孫に伝ふる時は、十人かはれば百万石の領地出るなり、公儀の地も左様はつゝかざれば後にはひろく撰び遂ぐることあたはずして、大身の中より撰ばる、大身は数少なければ本才の人有がたし、其上才徳其位に叶はずして、代々大禄を受る事は天の廃する所なり、故に子孫によき人生れがたし、されば古は賢をあぐる事野に於てすといへり、此故に言路を開て天下の善言を来し、誹謗の言までを取、明智を先ぜずして問ことを好む、是人君の民に父母たる第一なり、
書き下し
(問)祿を世々にすと聞しに一代切とは何ぞや、 (答)自分の領地家中ありては、其仕置に精力もれて公用に害あり、殊に匹夫より擧られて俄に士民多くては、それのみ心を用ひざれば治らず、此故に宰相の祿拾萬石なれば、米麥金銀にて賜はるなり、人馬は其身の生を養ひ、身を助くるばかり也。公用には公儀の人ありて家來のごとく使はるゝなり、拾萬石の祿一萬石ばかりにて自家の用達す、九萬石は餘計となりて親類知音近付の貧乏のものすくはれ、子孫永く富有なり、其身若し病氣となり、又は老衰するときは職を辭して故鄕に歸り、故鄕なき者は在所を賜りて休す、執政の人に領地を給りて子孫に傳ふる時は、十人かはれば百萬石の領地出るなり、公儀の地も左樣はつゝかざれば後にはひろく撰び遂ぐることあたはずして、大身の中より撰ばる、大身は數少なければ本才の人有がたし、其上才德其位に叶はずして、代々大祿を受る事は天の廢する所なり、故に子孫によき人生れがたし、されば古は賢をあぐる事野に於てすといへり、此故に言路を開て天下の善言を來し、誹謗の言までを取、明智を先ぜずして問ことを好む、是人君の民に父母たる第一なり、
現代語訳
問う。禄を代々にしないと聞いていたが、一代かぎりとはどういうことか。 答える。自分の領地と家中を持てば、その管理に精力を取られて公の務めに差し支える。とくに一介の男から引き上げられて、急に多くの武士や民を抱えることになれば、それだけに心を用いなければ治まらない。だから宰相の禄が十万石であれば、米・麦・金銀で与える。人馬は、その身の暮らしを養い、身を助けるだけのものとする。公の用には公儀の人がいて家来のように使われる。十万石の禄でも一万石ほどで自家の用は足り、残る九万石は余りとなって、親類や知り合いの貧しい者が救われ、子孫も長く豊かである。その身がもし病気になり、あるいは老い衰えたときは職を辞して故郷に帰り、故郷のない者は在所を与えられて休む。執政の人に領地を与えて子孫に伝えさせれば、十人代わると百万石の領地が出ていく。公儀の土地もそのようにしなければ、後には広く人を選び抜くことができなくなり、大身の中から選ぶことになる。大身は数が少ないので、本才の人は得がたい。そのうえ、才も徳もその位にかなわないのに代々大禄を受けることは、天が見捨てるところである。だから子孫によい人が生まれにくい。そこで、古くは賢者を挙げるのは野においてする、と言われた。このために言路を開いて天下の善言を集め、誹謗の言葉までも取り上げ、自分の明智を先立てずに問うことを好む。これが人君が民の父母である第一のあり方である。
解説

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