智囊 / 武案・任瑰・唐太宗
〔述評〕按,任瑰之策,即李密說楊玄感、魏思溫說徐敬業者,特太宗用之而勝,二逆不用而敗耳。楊玄感之謀逆也,李密進三策曰:「天子遠在遼海,公若長驅入薊,直扼其喉,前有高麗,退無歸路,不戰而擒,此上計也;關中四塞,吾鼓行而西,經城勿攻,直取長安,收其豪傑,撫其士民,據險而守之,天子雖還,失其根本,可徐圖也!若隨近先向東都,以號令四方,但恐彼知固守,若攻之百日不克,援兵四至,非吾所知矣。」玄感曰:「不然,今百官家口,俱在東都,若先取之,足以動其心,且經城不拔,何以示威,公之下計,乃為上策。」密知計不行,退謂人曰:「楚公好反而不求勝,吾屬為虜矣!」未幾,玄感敗。
新字:〔述評〕按,任瑰之策,即李密説楊玄感、魏思温説徐敬業者,特太宗用之而勝,二逆不用而敗耳。楊玄感之謀逆也,李密進三策曰:「天子遠在遼海,公若長駆入薊,直扼其喉,前有高麗,退無帰路,不戦而擒,此上計也;関中四塞,吾鼓行而西,経城勿攻,直取長安,収其豪傑,撫其士民,拠険而守之,天子雖還,失其根本,可徐図也!若随近先向東都,以号令四方,但恐彼知固守,若攻之百日不克,援兵四至,非吾所知矣。」玄感曰:「不然,今百官家口,倶在東都,若先取之,足以動其心,且経城不抜,何以示威,公之下計,乃為上策。」密知計不行,退謂人曰:「楚公好反而不求勝,吾属為虜矣!」未幾,玄感敗。
書き下し
〔述評〕按ずるに、任瑰の策は、即ち李密の楊玄感に説き、魏思温の徐敬業に説きし者にして、特だ太宗之を用いて勝ち、二逆は用いずして敗れしのみ。楊玄感の謀逆するや、李密三策を進めて曰く、「天子は遠く遼海に在り、公若し長駆して薊に入り、直ちに其の喉を扼さば、前に高麗有り、退くに帰路無く、戦わずして擒にす。此れ上計なり。関中は四塞、吾れ鼓行して西し、城を経るも攻めず、直ちに長安を取り、其の豪傑を収め、其の士民を撫し、険に拠りて之を守らば、天子還ると雖も、其の根本を失い、徐ろに図るべきなり。若し近きに隨いて先に東都に向かい、以て四方に号令せんとせば、但だ恐る彼固く守るを知り、若し之を攻めて百日克たず、援兵四もに至らば、吾が知る所に非ず」と。玄感曰く、「然らず。今百官の家口は俱に東都に在り、若し先ず之を取らば、以て其の心を動かすに足る。且つ城を経て抜かずんば、何を以て威を示さん。公の下計は乃ち上策なり」と。密計の行われざるを知り、退きて人に謂いて曰く、「楚公は反を好みて勝を求めず、吾が属は虜と為らん」と。未だ幾ばくならずして、玄感敗る。
現代語訳
〔述評〕考えてみると、任瑰の策は、李密が楊玄感に説き、魏思温が徐敬業に説いたものと同じである。ただ太宗はこれを用いて勝ち、二人の反逆者は用いずに敗れただけである。楊玄感が謀反を起こしたとき、李密は三つの策を示して言った。「天子は遠く遼海におられます。公がもし長駆して薊に入り、喉元を押さえれば、前には高麗があり退く道もなく、戦わずに捕らえられます。これが上策です。関中は四方が険しい要害です。我々が太鼓を鳴らして西へ進み、通る城は攻めず、まっすぐ長安を取り、豪傑を集めて民を慰撫し、険に拠って守れば、天子が戻っても根拠を失っており、ゆっくり図れます。もし近い東都に先に向かって四方に号令しようとすれば、敵が固く守るのを知るでしょう。攻めて百日で落とせず、援軍が四方から来れば、私の知るところではありません」。玄感は言った。「そうではない。今、百官の家族はみな東都にいる。先にそれを取れば、彼らの心を動かせる。それに、城を通りながら落とさなければ、どうして威勢を示せよう。あなたの下策こそ上策だ」。李密は計が用いられないと知り、退いて人に言った。「楚公は謀反を好むが勝つことを求めない。我々は捕虜になるだろう」。まもなく玄感は敗れた。
解説
この章句が説くこと
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言志四録・言志耋録 第二百六十二条 非常の士は攬りて用ふ此に非常の士有らば、宜しく能く攬りて之を用ふべし。我之を攬れば、則ち彼吾が用と為る。大いに用ふる能はずと雖も、而も亦世の観望と為る。若し渠をして親昵するを得ざらしめば、則ち必ず他人の有と為る。翅に吾が用と為らざるのみならず、却って害有り。
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史記 呉王濞列伝司馬と為るを得、独り周丘のみ用ひらるるを得ず。周丘は、下邳の人なり。呉に亡命し、酒を酤りて行ひ無し。呉王濞之を薄んじ、任ぜず。周丘上謁し、王に説きて曰く、「臣無能を以て、罪を行間に待つを得ず。臣敢へて将ゐる所有るを求むるに非ず。願はくは王の一漢節を得ば、必ず以て王に報ゆる有らん」と。王乃ち之に予ふ。周丘節を得て、夜馳せて下邳に入る。下邳時に呉の反するを聞き、皆城守す。伝舎に至り、令を召す。令戸に入るや、従者をして罪を以て令を斬らしむ。遂に昆弟の善くする所の豪吏を召して告げて曰く、「呉の反兵且に至らんとす。至らば、下邳を屠ること食頃に過ぎざらん。今先に下らば、家室必ず完からん。能ある者は侯に封ぜられん」と。出でて乃ち相告げ、下邳皆下る。周丘一夜にして三万人を得、人をして呉王に報ぜしめ、遂に其の兵を将ゐて北のかた城邑を略す。城陽に至る比、兵十余万、城陽の中尉の軍を破る。呉王の敗走するを聞き、自ら度るに与に功を成す無しと、即ち兵を引きて下邳に帰る。未だ至らずして、疽背に発して死す。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。是に於て天子将軍に制詔して曰く、「蓋し聞く、善を為す者は天之に報ゆるに福を以てし、非を為す者は天之に報ゆるに殃を以てすと。高皇帝親ら功徳を表し、諸侯を建立す。幽王・悼恵王は絶えて後無し。孝文皇帝哀憐して恵を加へ、幽王の子遂・悼恵王の子卬等を王とし、其の先王の宗廟を奉ぜしめ、漢の藩国と為す。徳は天地に配し、明は日月に并ぶ。呉王濞は徳に倍き義に反し、天下の亡命の罪人を誘ひ受け、天下の幣を乱し、病と称して朝せざること二十余年。有司数々濞の罪を請ふも、孝文皇帝之を寛し、其の行ひを改めて善を為さんことを欲す。
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『長短経』知人〔桓範曰く「夫れ帝王の君、歴代相踵ぎ、覇王の賢に任ずるを慕い、亡国の士を失うを悪まざるは莫し。然り而して猶お凶愚に任を授け、破亡相属くは、其の故は何ぞや。人を取るに道に合うを求めずして、己に合うを求むるに由るなり」と。
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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