智囊 / 武案・羊侃・楊智積
侯景之圍台城也,初為尖頂木驢來攻,矢石不能制。侃作雉尾炬,施鐵鏃,灌以油,擲驢上,焚之立盡。俄又東西兩面起土山臨城,城中震駭,侃命為地道,潛引其土,山不能立。賊又作登城樓車,高十餘丈,欲臨射城內,侃曰:「車高塹虛,彼來必倒,可臥而觀之,無勞設備矣。」車動果倒。賊既頻攻不克,乃築長圍,朱異等議出擊之,侃曰:「不可,賊久攻不克,其立長圍,欲引城中降人耳。今擊之,兵少,不足破賊;若多,萬一失利,門隘橋小,自相蹂踐,必大挫衄,此自弱也,」異不從,一戰敗退,爭橋赴水死者大半。後大雨,城內土崩,賊乘之,垂入。侃令多擲火把,為穴城以斷其路,而徐於內築城,賊卒不能進。未幾,侃遘疾卒,城遂陷。楊智積,隋文帝姪也。楊玄感反,攻城,燒城門,智積於內益薪以助火勢,賊不能入。
新字:侯景之囲台城也,初為尖頂木驢来攻,矢石不能制。侃作雉尾炬,施鉄鏃,灌以油,擲驢上,焚之立尽。俄又東西両面起土山臨城,城中震駭,侃命為地道,潜引其土,山不能立。賊又作登城楼車,高十余丈,欲臨射城内,侃曰:「車高塹虚,彼来必倒,可臥而観之,無労設備矣。」車動果倒。賊既頻攻不克,乃築長囲,朱異等議出撃之,侃曰:「不可,賊久攻不克,其立長囲,欲引城中降人耳。今撃之,兵少,不足破賊;若多,万一失利,門隘橋小,自相蹂践,必大挫衄,此自弱也,」異不従,一戦敗退,争橋赴水死者大半。後大雨,城内土崩,賊乗之,垂入。侃令多擲火把,為穴城以断其路,而徐於内築城,賊卒不能進。未幾,侃遘疾卒,城遂陥。楊智積,隋文帝姪也。楊玄感反,攻城,焼城門,智積於内益薪以助火勢,賊不能入。
書き下し
侯景の台城を囲むや、初め尖頂の木驢を為りて来攻し、矢石も制する能わず。侃、雉尾炬を作り、鉄鏃を施し、油を灌ぎ、驢上に擲ちて之を焚き、立ちどころに尽く。俄にして又た東西の両面に土山を起こして城に臨み、城中震駭す。侃、地道を為り、潜かに其の土を引かしむれば、山立つ能わず。賊又た登城楼車を作り、高さ十余丈、臨みて城内を射んと欲す。侃曰く、「車は高く塹は虚し、彼来らば必ず倒れん。臥して之を観るべし、備えを設くるを労する無し」と。車動いて果たして倒る。賊既に頻りに攻めて克たず、乃ち長囲を築く。朱異ら出でて之を撃たんことを議す。侃曰く、「不可なり。賊は久しく攻めて克たず、其の長囲を立つるは、城中の降人を引かんと欲するのみ。今之を撃たんに、兵少なければ以て賊を破るに足らず。若し多ければ、万一利を失い、門隘く橋小さく、自ら相い蹂践して、必ず大いに挫衄せん。此れ自ら弱むるなり」と。異従わず、一戦して敗退し、橋を争いて水に赴き死する者大半なり。後に大雨あり、城内の土崩れ、賊之に乗じ、入らんとす。侃、多く火把を擲たしめ、穴城して以て其の路を断ち、而して徐に内に城を築く。賊卒に進む能わず。未だ幾ばくならずして、侃、疾に遘いて卒し、城遂に陥つ。楊智積は、隋の文帝の姪なり。楊玄感反し、城を攻め、城門を燒く。智積、内に薪を益して以て火勢を助く。賊入る能わず。
現代語訳
侯景が台城を囲んだとき、はじめ先の尖った木驢(木の防護車)を造って攻めてきたが、矢も石も防げなかった。羊侃は雉尾炬(雉の尾の形の松明)を作り、鉄の鏃をつけ、油を注いで、木驢の上に投げて焼くと、たちまち燃え尽きた。まもなく東西の二面に土山を築いて城に迫り、城中は震え上がった。侃は地下道を掘らせ、土を密かに引き出させたので、土山は成り立たなかった。賊はまた城に登る楼車を作り、高さ十余丈、城内を見下ろして射ようとした。侃は言った。「車は高く、堀は空だ。敵が来れば必ず倒れる。寝て見ていればよい、備える必要はない」。車が動くと、果たして倒れた。賊は頻繁に攻めても勝てず、そこで長い包囲網を築いた。朱異らは打って出て撃つことを議した。侃は言った。「いけない。賊は長く攻めても勝てず、長い包囲を作ったのは、城中の降伏者を誘い出したいだけだ。今打って出ても、兵が少なければ賊を破るには足りない。多ければ、万一不利になったとき、門は狭く橋は小さく、互いに踏み合って、必ず大敗する。これは自ら弱くなることだ」。朱異は従わず、一戦して敗れ、橋を争って水に飛び込み死んだ者が大半だった。後に大雨が降り、城内の土が崩れ、賊がそれに乗じて入ろうとした。侃は多くの松明を投げさせ、城壁を穴だらけにして敵の道を断ち、その間にゆっくり内側に新しい城壁を築いた。賊はついに進めなかった。まもなく侃は病で亡くなり、城はついに陥落した。楊智積は隋の文帝の甥である。楊玄感が反乱を起こして城を攻め、城門を焼いた。智積は内側から薪を足して火勢を助け、賊は入れなかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孫子・地形篇卒を視ること嬰児の如し、故に之と深谿に赴くべし。卒を視ること愛子の如し、故に之と俱に死すべし。厚くして使う能わず、愛して令する能わず、乱れて治むる能わざれば、譬えば驕子の若く、用うべからざるなり。
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李衛公問対・卷下太宗曰く、「太公云ふ、『歩兵を以て車騎と戦ふ者は、必ず丘墓・険阻に依る』と。又『孫子』に云ふ、『天隙の地、丘墓・故城は、兵処るべからず』と。如何。」靖曰く、
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