智囊 / 敏悟・拆字
賤室憂懷娠過月,所以問耳?」石曰:「是必十三個月也。以『也』字中有『十』字,並兩旁二豎下畫為十三也。」石熟視朝士曰:「有一事似涉奇怪,固欲不言,則吾官所問,正決此事。可盡言否?」朝士因請其說。石曰:「『也』字著『蟲』為『蟲也』字,今尊閣所娠,殆蛇妖也。然不見蟲,則不能為害。謝石亦有薄術,可為吾官以藥下驗之,無苦也。」朝士大異其說,固請至家,以藥投之,果下數百小蛇,都人益共神之,而不知其竟挾何術。〔述評〕後石拆「春」字,謂「秦」頭太重,壓「日」無光,忤相檜,死於戍。
新字:賤室憂懐娠過月,所以問耳?」石曰:「是必十三個月也。以『也』字中有『十』字,並両旁二豎下画為十三也。」石熟視朝士曰:「有一事似渉奇怪,固欲不言,則吾官所問,正決此事。可尽言否?」朝士因請其説。石曰:「『也』字著『虫』為『虫也』字,今尊閣所娠,殆蛇妖也。然不見虫,則不能為害。謝石亦有薄術,可為吾官以薬下験之,無苦也。」朝士大異其説,固請至家,以薬投之,果下数百小蛇,都人益共神之,而不知其竟挟何術。〔述評〕後石拆「春」字,謂「秦」頭太重,圧「日」無光,忤相檜,死於戍。
書き下し
賤室、懐娠して月を過ぐるを憂うる、所以に問うのみ」と。石曰く、「是れ必ず十三個月なり。「也」の字の中に「十」の字有り、並びに両旁の二竪、下画して十三と為るを以てなり」と。石、熟く朝士を視て曰く、「一事、奇怪に渉るに似たる有り。固より言わざらんと欲すれども、則ち吾が官の問う所、正に此の事を決せんとす。尽く言うべきか」と。朝士、因って其の説を請う。石曰く、「「也」の字に「虫」を著くれば「蟲也」の字と為る。今、尊閣の娠む所、殆ど蛇妖ならん。然れども虫を見ざれば則ち害を為す能わず。謝石も亦た薄術有り、吾が官の為に薬を以て之を下し験すべし。苦しむこと無きなり」と。朝士、大いに其の説を異とし、固く請うて家に至り、薬を以て之に投ず。果たして数百の小蛇を下す。都人、益々共に之を神とし、而して其の竟に何の術を挟むかを知らず。〔述評〕後に石、「春」の字を拆き、「秦」の頭太だ重く、「日」を圧して光無しと謂い、相の檜に忤い、戍に死す。
現代語訳
「わが家内が身ごもって月を過ぎても生まれないのを心配して、お尋ねしたのです」。謝石は言った。「これは必ず十三か月です。『也』の字の中に『十』の字があり、両脇の二本の縦線が下へ伸びて三となるからです」。謝石は役人をつくづく見て言った。「一つ、怪しいことに関わりそうな事があります。言わずにおこうとも思いましたが、あなたの尋ねたのはまさにこの件を決めるためでしょう。全部申し上げてよろしいか」。役人がその説明を求めると、謝石は言った。「『也』に『虫』を付けると『蟲也』の字になります。いま奥方の宿しているものは、おそらく蛇の妖でしょう。ただ虫が目に見えなければ害を為すことはできません。私にも小さな術があります。薬でそれを下して確かめてみましょう。苦しむことはありません」。役人は大いに不思議がり、ぜひにと頼んで家に連れていき、薬を飲ませた。果たして数百匹の小蛇が下りた。都の人々はますますこの人を神のように崇め、結局どんな術を使ったのかは誰も知らなかった。〔述評〕のちに謝石は「春」の字を分けて、「秦」の頭が重すぎて「日」を押さえつけ光が無いと言い、宰相の秦檜に逆らって、流刑の地で死んだ。
解説
この章句が説くこと
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『智囊』敏悟・拆字朝士有り、其の室、懐娠して月を過ぐ。手ずから一つの「也」の字を書し、其の夫をして持ち問わしむ。是の日、坐客甚だ衆し。石、詳らかに視て、朝士に謂いて曰く、「此れ閣中の書する所なるか」と。曰く、「何を以て之を言う」と。石曰く、「語助と謂うは、焉・哉・乎・也なり。固より是れ公の内助の書する所なるを知る」と。問う、「盛年は三十一なるか」と。曰く、「是なり」と。「「也」の字の上は「三十」と為り、下は「一」の字と為るを以てなり」と。「然らば吾が官、此に寄す。当に力めて遷動を謀るべし。還た得べきか」と。曰く、「正に此を以て撓ると為すのみ。蓋し「也」の字、「水」を著くれば則ち「池」と為り、「馬」有れば則ち「馳」と為る。今、池は運んで則ち水無く、陸に馳せて則ち馬無し。是れ安んぞ動かすべけんや。又、尊閣の父母兄弟、近身の親人、皆当に一も存する者無かるべし。「也」の字に「人」を著くれば則ち是れ「他」の字なるに、今、独り「也」の字を見て「人」を見ざるが故なり。又、尊閣の其の家の物産も亦た当に蕩尽すべきか。「也」の字に「土」を著くれば則ち「地」の字と為るに、今、「土」を見ず只だ「也」を見るのみ。倶に是なるか」と。曰く、「誠に言う所の如し。然れども此れ皆問う所の者に非ず。
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『智囊』敏悟・拆字謝石、字は潤夫、成都の人なり。宣和の間、京師に至り、字を拆いて人の禍福を言う。相を求むる者、但だ意に随って一字を書けば、即ち其の字に就いて離析して言い、奇しく中たらざる無し。名は九重に聞こゆ。上皇、因って一つの「朝」の字を書し、中貴人をして持ち往きて之を試みしむ。石、字を見て、即ち端しく中貴人を視て曰く、「此れ観察の書する所に非ざるなり」と。中貴人、愕然として曰く、「但だ字に拠りて之を言え」と。石、手を以て額に加えて曰く、「「朝」の字は、離せば「十月十日」の字と為る。此の月此の日に生まれし所の天人に非ずんば、当に誰か書かん」と。一座、尽く驚く。中貴、馳せて奏す。翌日、召されて後苑に至り、左右及び宮嬪をして字を書して之に示さしむ。論説、倶に精理有り。錫賚甚だ厚く、承信郎に補せらる。此に縁って四方に相を求むる者、其の門、市の如し。
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『智囊』敏悟・拆字建炎の間、術者の周生、善く字を相す。車駕、杭に至る。時に虜騎驚擾の余、人心危疑す。執政、周生を呼び、偶々「杭」の字を書して之に示す。周曰く、「警報有るを懼る」と。乃ち其の字を拆き、右辺の一点を以て「木」の上に配すれば、即ち「兀術」と為る。旬日ならずして、果たして兀術の南侵を伝う。趙・秦の廟謨協わざるに当たり、各々退かんと欲し、二公、各々「退」の字を書して之に示す。周曰く、「趙は必ず去り、秦は必ず留まる。日は君の象なり。趙の書する「退」の字は、「人」去ること「日」より遠し。秦の書する「人」の字は、密かに「日」の下に附く。字は左の筆下連なり、而して「人」の字の左筆、斜めに之を貫く。蹤跡固し。退かんと欲して得んや」と。既にして皆験あり。往年、試事を叩く者有り、「串」の字を書す。術者曰く、「特だ郷闈に雋を得るのみならず、南宮も亦た応に高く捷つべし。蓋し「串」は二つの「中」の字を寓するを以てなり」と。一生、傍らに在り、乃ち亦た「串」の字を書して観せしむ。術者曰く、「君は独り賓興に与らざるのみならず、更に当に疾むべし」と。其の所以を詢うに、曰く、「彼は無心を以て書す、故に如字なり。君は有心を以て書す、「串」の下に「心」を加えれば、乃ち「患」の字なるのみ」と。已にして果たして然り。相伝う、文皇、燕邸に在りし時、嘗て微行し、一人の相字者に詣り、「帛」の字を写して看しむ。其の人、即ち跪拝して「死罪」と称す。王、驚いて故を問う。対えて曰く、「「皇」の頭、「帝」の脚、必ず非常の人なり」と。後に人有り、亦た「帛」の字を書す。其の人曰く、「是れ「白巾」と為る。君、必ず喪に遭わん」と。
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『智囊』雄略・謝小娥謝小娥は、豫章の估客の女なり。生まれて八歳にして母を喪い、歴陽の段氏に嫁ぐ。故に二姓は常に舟を同じくし、江湖の間に貿易す。小娥年十四、始めて笄を及ぶに、父と夫と皆劫盗の殺す所と為り、二姓の党は殲されぬ。小娥も亦脳を傷つけ足を折り、水中に漂流して、他船の獲る所と為り、夕を経て活く。因りて流転して乞食し、上元県に至り、妙果寺の尼淨悟に依る。初め、小娥の父の死せし時、夢に父謂いて曰く、「我を殺す者は、『車中の猿、門東の草』なり」と。又数日の後、夢に其の夫謂いて曰く、「我を殺す者は、『禾中を走る、一日の夫』なり」と。小娥解く能わず、常に此の語を書し、広く智者を求めて之を辨ぜしむるも、年を歴て得ず。元和八年に至り、李公佐は江西の従事を罷め、舟を建業に泊し、瓦官寺の閣に登る。僧齊物、李の為に之を述ぶ。李は欄に凴りて空に書し、疑い思い嘿して慮り、忽然として了悟し、寺童をして疾く小娥を召さしめ、之に謂いて曰く、「汝の父を殺す者は申蘭、汝の夫を殺す者は申春なり。其の『車中の猿』と曰うは、車の字の中は『申』の字なり、申は猴に属するに非ずや。草の下に門有り、門の中に東有るは、『蘭』の字なり。又『禾中を走る』とは、是れ田を穿ちて過ぐるなり、亦是れ『申』の字なり。『一日の夫』とは、夫の上に更に一画あり、下に一日あるは、是れ『春』の字なり。其の申蘭、申春たること明らかなるべし」と。小娥慟哭して再拝し、密かに四字を衣に書し、二賊を訪ねて以て其の冤に復せんことを誓う。
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『智囊』遠猶・趙鳳楊・王司帑初め、晋陽の相者周玄豹、嘗て唐主の貴きこと言うべからずと言う。是に至りて唐主、召して闕に詣らしめんと欲す。趙鳳曰く、「玄豹の言は已に験あり。若し之を京師に置かば、則ち軽躁狂険の人必ず其の門に輻湊せん。古より術士の妄言、人の族滅を致す者多し」と。乃ち就きて光禄卿を除し致仕せしむ。楊王沂中、閒居して郊行し、一人の押字を相る者に遇う。楊、執る所の杖を以て地上に一画を作す。相者再拝して曰く、「閣下何為れぞ微行して此に至る。宜しく自ら愛重すべし」と。王諤然として其の故を詰る。相者曰く、「土の上の一画は、乃ち王の字なり」と。王笑い、緡銭五百万を批し、仍お常の押字を用い、相者に命じて翌日司帑に詣らしむ。司帑、券を持ちて熟視して曰く、「汝は何人ぞ、乃ち敢えて我が王の偽押を作して物を賺す。吾当に汝を執えて有司に詣り罪を問うべし」と。相者具さに本末を言い、声屈するに至り、王の聴を動かさんことを冀う。王の司謁と司帑、五千緡を打合して之に与う。相者大いに慟し、痛く司帑を罵りて去る。異日、間に乗じて楊に白す。楊怪しみ其の故を問う。対えて曰く、「他は今日是れ王者と説くも、来日又た胡説して増添せば、則ち王の謗り厚からん。且つ恩王は已に王社を開く、何ぞ復た相を用うる所あらん」と。王起ちて其の背を撫でて曰く、「爾の説くこと是なり」と。即ち幾百万を以て相者に予えて之を旌す。
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『智囊』敏悟・曹翰・鄭欽說欽説、天性敏慧にして、暦術に精しく、開元の後、累官して右補闕内供奉たり。初め、梁の大同四年、太常任昉、鍾山の壙中に銘を得たり。曰く、「亀は土を言い、蓍は水を言う。甸服黄鍾、霊址を起こす。瘞むるは三上庚に在り、墮つるは七中己に遇う。六千三百浹辰交わり、二九重三四百圮る」と。昉、遍くこれを窮むれども、弁ずる能わず。因りて子孫に遺戒して曰く、「世世、銘を以て通人に訪え。その解を得る者有らば、吾死すとも恨み無し」と。昉の五世孫升之、商洛に隠居し、写してこれを欽説に授く。欽説、時に使いに出で、これを長楽駅に得、敷水に至ること三十里にして輒ち悟りて曰く、「これ宅を卜する者、葬の歳月を捜し、而して先に墓の圮るる日辰を識るなり。『甸服』は五百なり、『黄鍾』は十二なり。大同四年より却って漢の建武四年を求むれば、凡そ五百十二年なり。葬は三月十日庚寅を以てす。『三上庚』なり。圮るるは七月十二日己巳を以てす。『七中己』なり。『浹辰』は十二なり。建武四年三月より大同四年七月に至るまで、六千三百十二月、月ごとに一たび交わる、故に『千三百浹辰交』と曰う。『二九』は十八なり、『重三』は六なり。建武四年三月十日より、大同四年七月十二日を距つること、十八万六千四百日、故に『九重三四百圮』と曰う」と。升之大いに驚き、その超悟に服す。
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