智囊 / 知微・馬援
建武中,諸王皆在京師,競修名譽,招游士。馬援謂呂種曰:「國家諸子並壯,而舊防未立,若多通賓客,則大獄起矣。卿曹戒慎之。」後果有告諸王賓客生亂,帝詔捕賓客,更相牽引,死者以數千。種亦與禍,歎曰:「馬將軍神人也。」援又嘗謂梁鬆、竇固曰:「凡人為貴,當可使賤,如卿等當不可復賤。居高堅自持,勉思鄙言。」鬆後果以貴滿致災,固亦幾不免。
新字:建武中,諸王皆在京師,競修名誉,招游士。馬援謂呂種曰:「国家諸子並壮,而旧防未立,若多通賓客,則大獄起矣。卿曹戒慎之。」後果有告諸王賓客生乱,帝詔捕賓客,更相牽引,死者以数千。種亦与禍,嘆曰:「馬将軍神人也。」援又嘗謂梁鬆、竇固曰:「凡人為貴,当可使賤,如卿等当不可復賤。居高堅自持,勉思鄙言。」鬆後果以貴満致災,固亦幾不免。
書き下し
建武中、諸王皆な京師に在り、競いて名誉を修め、游士を招く。馬援、呂種に謂いて曰く、「国家の諸子並びに壮にして、旧防未だ立たず。若し多く賓客に通ぜば、則ち大獄起こらん。卿が曹之を戒慎せよ。」後に果たして諸王の賓客乱を生ずと告ぐる者有り。帝、詔して賓客を捕えしめ、更ごも相い牽引し、死する者数千を以て数う。種も亦た禍に与り、歎じて曰く、「馬将軍は神人なり。」援又た嘗て梁鬆・竇固に謂いて曰く、「凡そ人の貴きと為るは、当に賤しからしむべし。卿等の如きは当に復た賤しかるべからず。高きに居りて堅く自ら持し、勉めて鄙言を思え。」鬆は後に果たして貴満を以て災いを致し、固も亦た幾ど免れず。
現代語訳
建武年間、皇子たちはみな都にいて、競って名声を高め、遊説の士を招いていた。馬援は呂種に言った。「国家の皇子たちは皆壮年に達しているのに、従来の防備の決まりがまだ立っていない。もし多くの賓客と交わるなら、大きな獄が起こるだろう。あなたたちは戒め慎みなさい。」のちに果たして、皇子たちの賓客が乱を起こそうとしていると告げる者がいた。帝は詔して賓客を捕らえさせ、互いに連座して引き込まれ、死者は数千にのぼった。呂種もその災いに巻き込まれ、嘆いて言った。「馬将軍は神のような人だ。」馬援はまたかつて梁鬆と竇固に言った。「およそ人が貴くなったら、賤しい身分に落とされても耐えられるようにしておくべきだ。あなたたちのような身分の者は、もはや賤しい地位に落ちてはならない。高い地位にいて堅く自分を守り、どうか私の拙い言葉を思い出してほしい。」梁鬆はのちに果たして、栄華に満ちすぎたことで災いを招き、竇固もほとんど免れなかった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『智囊』知微・任文公・東院主者王莽、居攝す。巴郡の任文公は占に善く、大乱の将に作らんとするを知り、乃ち家人に課して物百斤を負わしめ、舎を環りて疾走すること、日に数十回せしむ。人其の故を知る莫し。後に四方に兵起こり、逃亡して脱るる者鮮し。唯だ文公の大小のみ糧を負いて捷く歩み、悉く免るるを得たり。〔馮述評〕張觷、蔡家の児に走ることを教うるは、此に本づく。唐末、岐・梁、長を争う。東院の主者、其の将に乱れんとするを知り、日に菽粟を以て粉と作し、土墼と為し、附して之を墁り、其の屋木を増す。一院笑いて以て狂と為す。乱既に作り、食尽き樵絶ゆ。民の窖蔵する所は李氏の奪う所と為り、皆な餓死す。主は粟に沃ぎて糜と為し、木を毀ちて薪と為し、以て免る。隴右の富人、預め夾壁を為り、食の蔵すべき者を視て、之を乾かし、壁間に貯え、亦た免る。
-
『智囊』遠猶・郭子儀郭令公は客を見る毎に、姫侍前に満つ。乃ち盧杞の至るを聞くや、悉く屏け去らしむ。諸子解せず。公曰く、「杞は貌陋し、婦女之を見て、未だ必ずしも笑わざらず。他日杞が志を得れば、我が属は噍類無からん」と。〔馮述評〕斉頃は婦人の客を笑うを以て、幾ど亡国に至る。令公の微を防ぐ慮りは遠し。王勉夫云う、〈寧成伝〉の末に載す、周陽由は郡守為り、汲黯、司馬安は俱に二千石の列に在り、同車するに未だ嘗て敢えて茵を均しくして伏せず。司馬安は言うに足らざるなり、汲長孺は大将軍と抗礼し、丞相に長揖し、九卿を面折し、矯矯たる風力あり、人の下と為るを肯んぜざるに、周陽由に抑えらるるに至るは何ぞや。周は蓋し無頼の小人にして、其の二千石の列に居りて、肆に驕暴を為し、同事を凌轢し、人無きが若し。汲は蓋し之を遠ざけしなり、之を畏れしに非ざるなり。異時、河東太守の勝屠公は其の侵権に堪えず、遂に之と角し、卒に並びに戮に就く。玉石俱に砕く、勝げて歎恨すべけんや。士大夫は不幸にして此の輩と同官せば、遜りて之を避くるも、厚きを失わず、何ぞ苦しみて之と較べて自ら辱めを取るや。
-
『智囊』知微・第五倫・魏相諸馬既に罪を得て、竇氏益ます貴盛にして、皇后の兄憲・弟篤は賓客と交通することを喜ぶ。第五倫、上疏して曰く、「憲は椒房の親にして、禁兵を典司し、省闥に出入す。驕佚の自りて生ずる所なり。議者は貴戚を以て廃錮せられたれば、当に復た貴戚を以て浣濯すべしと。猶お酲を解くに当に酒を以てすべきがごときなり。願わくは陛下、其の未だ萌さざるを防ぎ、憲をして永く福禄を保たしめよ。」憲は果たして驕縦を以て敗る。〔馮述評〕永元の初め、何敞、封事を上り、亦た此に言い及ぶ。但だ沁水公主の田園を奪い及び都郷侯暢を殺すの後に在りて、跋扈已に著れ、倫の疏の先見に若かず。魏相、平恩侯許伯の奏封事に因りて言う、「『春秋』は世卿を譏り、宋の三世大夫と為り、及び魯の季孫の権を専らにするを悪む。皆な国家を危乱す。後世より以来、禄は王室を去り、政は塚宰に由る。今、霍光死して、子復た大将軍と為り、兄の子は枢機を秉り、昆弟・諸婿は権勢に拠り兵官に任ず。光の夫人顕及び諸女は皆な籍を長信宮に通じ、或いは夜、門を詔して出入す。驕奢放縦、寝に制せざるを恐る。宜しく以て其の権を損奪し、陰謀を破散し、万世の基を固め、功臣の世を全うする有るべし。」又た故事、諸もろの上書する者は皆な二封を為り、其の一に署して『副封』と曰う。尚書を領する者は先ず副封を発き、言う所不善なれば、屏去して奏せず。魏相、復た許伯に因りて副封を去ることを白し、以て壅蔽を防ぐ。宣帝之を善しとし、相に詔して給事中とし、皆な其の議に従う。霍氏が許后を殺すの謀、始めて上聞するを得たり。乃ち其の三侯を罷め、第に就かしめ、親属は皆な出でて吏に補せらる。
-
『智囊』知微・辛有・何曾平王の東遷に、辛有は伊川に適き、髪を披いて野に祭る者を見て、曰く、「百年に及ばずして、これは戎となるであろう。その礼が先に亡びたのだ」と。魯の僖公二十二年に及んで、秦・晋は陸渾の戎を伊川に遷した。〔馮述評〕なお周礼を秉るのに、仲孫は東魯の興る基を卜し、其の礼が先に亡びて、辛有は伊川の戎禍を料った。何曾は、字を穎考、常に武帝の宴に侍し、退いて諸子に語って曰く、「主上は創業して統を垂れるのに、吾は宴ごとに、経国の遠図を聞かず、ただ平生の常事を説くばかり。後嗣はそれ殆いか。身に及ぶのみ、これ子孫の憂いである。汝らはなお没するを獲よう」と。諸孫を指して、「この輩は必ず乱に及ぶ」と。綏が東海王越に誅されるに及び、嵩は哭して曰く、「吾が祖は其れ大聖か」と。嵩・綏は皆邵の子であり、曽の孫である。
-
『智囊』知微・高歡斉の神武、洛陽より還り、産を傾けて客を結ぶ。親友怪しみて之を問う。答えて曰く、「吾、洛陽に至り、宿衛の羽林、相い率いて領軍張彝の宅を焚くを見る。朝廷は乱を懼れて問わず。政を為すこと此の若くんば、事知るべきなり。財物豈に常に守るべけんや。」是れ自り天下を澄清するの志有り。〔馮述評〕莽は子を殺し後家を滅ぼして三綱絶え、魏は宿衛羽林の乱を治めずして五刑隳る。退けば則ち梅福の冠を掛け海に浮かぶが為にし、進めば則ち神武の財を散じ客を結ぶが為にす。
-
史記 司馬相如列伝蓋し明者は未萌に遠見し、智者は無形に危を避く、禍は固より多く隱微に蔵れて人の忽せにする所に発する者なり。故に鄙諺に曰く、「家に千金を累ぬれば、堂に垂りて坐せず」と。此の言小なりと雖も、以て大を喩す可し。臣願はくは陛下之に留意して幸に察せよ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る