文武訓 / 文訓下
一日本の人、むかし今、佛をたふとびて佛を念じ、佛經を讀みて成佛せんことを、實心に好む人多し。世間に、聖人の書をよみて、聖人のたふとぶべきことを知れる人、また古今に多し。しかれども、聖人の道を實心にこのみて、わが身のひがごとをあらため、聖人にならんとおもへる人一人もなし。成佛をねがふ人に及ばず。是、いかにしてか斯くの如くなるや。學者みづから恥づべし。
新字:一日本の人、むかし今、仏をたふとびて仏を念じ、仏経を読みて成仏せんことを、実心に好む人多し。世間に、聖人の書をよみて、聖人のたふとぶべきことを知れる人、また古今に多し。しかれども、聖人の道を実心にこのみて、わが身のひがごとをあらため、聖人にならんとおもへる人一人もなし。成仏をねがふ人に及ばず。是、いかにしてか斯くの如くなるや。学者みづから恥づべし。
書き下し
一日本の人、むかし今、仏をたふとびて仏を念じ、仏経を読みて成仏せんことを、実心に好む人多し。世間に、聖人の書をよみて、聖人のたふとぶべきことを知れる人、また古今に多し。しかれども、聖人の道を実心にこのみて、わが身のひがごとをあらため、聖人にならんとおもへる人一人もなし。成仏をねがふ人に及ばず。是、いかにしてか斯くの如くなるや。学者みづから恥づべし。
現代語訳
日本の人は、昔も今も、仏を尊んで仏を念じ、仏経を読んで成仏しようとすることを、心から好む人が多いのです。世間には、聖人の書を読んで、聖人の尊ぶべきことを知っている人も、また古今に多いのです。けれども、聖人の道を心から好んで、わが身の誤りを改め、聖人になろうと思う人は一人もいません。成仏を願う人に及びません。これはどうしてこうなのでしょうか。学者は自ら恥じるべきです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『大和俗訓』巻之二・為学下一いまだ書を読まざる人の為にいはば、此道を行はんと志を立つる事は、まことに第一なるべし。されど経書をはじめとして、ひろく古の書を読まざれば、聖人の教を知らで道にくらく、言ふ事行ふ事、ひが事のみぞあるべき。又古来歴代の事を知らでは、今日の鑑とすべきやうなし。ここを以て、つとめて朝夕書を読み、古をかんがふべし。いかに生れつきたる才ありとも、稽古なくては、おのれと道を知り、古今天下の変を知るべからず。もし又すでに書を読める人の為にいはば、学問は、ただわが身のあやまりを改め、善にうつりて身ををさむる工夫を専一にすべし。書をひろく読み、古今天下の事に通ずとも、もし我が身のあやまちを改めず、善を行はずばいたづら事なり。しかれば学問は、まづ志を立て、身に行ふを第一とすべし。書を読むは、これ第二義なり。
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『大和俗訓』巻之二・為学下一聖人は人倫の至なり。吾がともがらの口にかけまくは、いともかしこし。されど弓いる者は初より的に志し、道行く者は初より家に志すがごとし。聖人をめあてとして、其志を立つる事は高くすべし。然るに、千里の道も出でたつ足もとの一歩よりはじむる理なれば、道を行ふ事は、まづ日用の近くひきき所より行ひて、やうやく経登りて高きにいたるべし。初より品を越えて高くいたらんとするは、翼なくして天に上らんとするに同じ。必此理なき事を知るべし。たとへば高山にのほるにも、先ふもとの一足より始むるが如し。一とびに山上には上りがたし。万事は次第にしたがはざれば成就しがたし。近道なる事は、口にいふ所は快しといへども、道理のなき事は成らざるものなれば、虚妄の説、無用の弁は、いたづらごとなり。
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『後世への最大遺物』第二回・来年また会うときまでにまことに私の言葉が錯雑しておって、かつ時間も少くございますから、私の考えをことごとく述べることはできない。しかしながら私は今日これで御免をこうむって山を降ろうと思います。それで来年またふたたびどこかでお目にかかるときまでには、少くとも幾何の遺物を貯えておきたい。この一年の後にわれわれがふたたび会しますときには、われわれが何か遺しておって、今年は後世のためにこれだけの金を溜めたというのも結構、今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、しかし、それよりもいっそう良いのは、後世のために私は弱いものを助けてやった、後世のために私はこれだけの艱難に打ち勝ってみた、後世のために私はこれだけの品性を修練してみた、後世のために私はこれだけの義侠心を実行してみた、後世のために私はこれだけの情実に勝ってみた、という話を持ってふたたびここに集まりたいと考えます。
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老子・第20章学を絶てば憂い無し。唯と阿と、相去ること幾何ぞ。善と悪と、相去ること若何。人の畏るる所は、畏れざるべからず。荒としてそれ未だ央きざるかな。衆人は熙熙として、太牢を享くるが如く、春に台に登るが如し。我れ独り泊としてそれ未だ兆さず、嬰児の未だ孩わざるが如し。儽儽として帰する所無きが若し。衆人は皆な余り有るに、我れ独り遺れたるが若し。我れは愚人の心なるかな、沌沌たり。俗人は昭昭たるに、我れ独り昏昏たり。俗人は察察たるに、我れ独り悶悶たり。澹としてそれ海の若く、飂として止まる所無きが若し。衆人は皆な以うる有るに、我れ独り頑にして鄙に似たり。我れ独り人に異なりて、母に食わるるを貴ぶ。
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