武事提要 / 練武之大意・縁故に偏らず埋もれた善者を見出す
小身と云ども一組に二人三人の外は無之ものなり、此上善人多きは其主の手柄と稱すべし、是善を勸るの首尾にして、月頃年を經るときは善の善なる人も出來するものなり、故に古より人君の要は賢を上善を撰を平生の事業とす、至極の善者は天下にも一人二人ならでは無之ものなり、右の通にいたし行ときはをのづから賢人聖人も出來するの基にして明君賢相とも可稱之なり、爰に又心得有之、世につれ人にしたがつて右の趣いつとなく薄くなり、家老或は奉行頭人の一族類葉、又は其家へ親出入の人のみ、奉行頭人の意に叶を以て役人ともなり、立身に成行、たとへ善者と云とも、傳手緣引無之人は物影に住居いたし立身大願にも不到、身終ものも有之、又は其內に不慮なること出來して善者の名は不出、却て難に逢、害を受て身終こと多し、縱ば深山の奧の木陰にありとも善者を上、歷々又は類門たりといふとも、不善不肖の者有之、相應に退くる了簡はあるべきこと也、譬へば秘藏寵愛せる庭內には不宜草木も有之、深谷大山の人不知人不見所には、ねならぬ草木の詠多も有之、是皆天然の信なりなんど、言捨もあるべけんと、それは當然の誠を不辨也、草木にかぎらず、人の上に如此とありなんは、上の賢中の善にはあるべき事にあらず、其節あるべきこと也、
新字:小身と云ども一組に二人三人の外は無之ものなり、此上善人多きは其主の手柄と称すべし、是善を勧るの首尾にして、月頃年を経るときは善の善なる人も出来するものなり、故に古より人君の要は賢を上善を撰を平生の事業とす、至極の善者は天下にも一人二人ならでは無之ものなり、右の通にいたし行ときはをのづから賢人聖人も出来するの基にして明君賢相とも可称之なり、爰に又心得有之、世につれ人にしたがつて右の趣いつとなく薄くなり、家老或は奉行頭人の一族類葉、又は其家へ親出入の人のみ、奉行頭人の意に叶を以て役人ともなり、立身に成行、たとへ善者と云とも、伝手縁引無之人は物影に住居いたし立身大願にも不到、身終ものも有之、又は其内に不慮なること出来して善者の名は不出、却て難に逢、害を受て身終こと多し、縦ば深山の奥の木陰にありとも善者を上、歴々又は類門たりといふとも、不善不肖の者有之、相応に退くる了簡はあるべきこと也、譬へば秘蔵寵愛せる庭内には不宜草木も有之、深谷大山の人不知人不見所には、ねならぬ草木の詠多も有之、是皆天然の信なりなんど、言捨もあるべけんと、それは当然の誠を不弁也、草木にかぎらず、人の上に如此とありなんは、上の賢中の善にはあるべき事にあらず、其節あるべきこと也、
書き下し
小身と云ども一組に二人三人の外は無之ものなり、此上善人多きは其主の手柄と稱すべし、是善を勸るの首尾にして、月頃年を經るときは善の善なる人も出來するものなり、故に古より人君の要は賢を上善を撰を平生の事業とす、至極の善者は天下にも一人二人ならでは無之ものなり、右の通にいたし行ときはをのづから賢人聖人も出來するの基にして明君賢相とも可稱之なり、爰に又心得有之、世につれ人にしたがつて右の趣いつとなく薄くなり、家老或は奉行頭人の一族類葉、又は其家へ親出入の人のみ、奉行頭人の意に叶を以て役人ともなり、立身に成行、たとへ善者と云とも、傳手緣引無之人は物影に住居いたし立身大願にも不到、身終ものも有之、又は其內に不慮なること出來して善者の名は不出、却て難に逢、害を受て身終こと多し、縱ば深山の奧の木陰にありとも善者を上、歷々又は類門たりといふとも、不善不肖の者有之、相應に退くる了簡はあるべきこと也、譬へば秘藏寵愛せる庭內には不宜草木も有之、深谷大山の人不知人不見所には、ねならぬ草木の詠多も有之、是皆天然の信なりなんど、言捨もあるべけんと、それは當然の誠を不辨也、草木にかぎらず、人の上に如此とありなんは、上の賢中の善にはあるべき事にあらず、其節あるべきこと也、
現代語訳
小身といっても、一組に二、三人のほかはいないものです。これ以上に善人が多いのは、その主の手柄と称すべきです。これが善を勧めることの首尾で、月日・年を経れば、善の善なる人も出てくるものです。だから昔から、人君の要は、賢を上げ善を選ぶことを平生の事業とすることです。至極の善者は、天下にも一人二人しかいないものです。右のようにして行けば、おのずから賢人・聖人も出てくる基となり、明君・賢相とも称すべきです。ここにまた心得があります。世につれ人に従って、右の趣旨はいつのまにか薄くなり、家老あるいは奉行・頭人の一族・類葉、またはその家に親しく出入りする人だけが、奉行・頭人の意にかなうことで役人ともなり、立身していき、たとえ善者といっても、伝手や縁引きのない人は物陰に住んで立身の大願にも至らず、身を終える者もいます。またその間に不慮のことが起きて善者の名が出ず、かえって難に遭い、害を受けて身を終えることが多いのです。たとえば深山の奥の木陰にあっても善者を上げ、歴々あるいは類門であっても不善・不肖の者がいれば、相応に退ける了簡があるべきです。たとえば、秘蔵し寵愛した庭の内にもよくない草木があり、深谷・大山の人の知らず見ない所には、ねならぬ草木の眺めも多くあり、これらはみな天然の信である、などと言い捨てることもあるでしょうが、それは当然の誠を弁えないことです。草木に限らず、人の上にもこのようであるのは、上の賢、中の善にはあるべきことではありません。その折に応じた対処があるべきです。
解説

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説苑・說叢賢を進むれば上賞を受け、賢を蔽えば顯戮を蒙る、古の通義なり。人を朝に爵し、人を市に淪す、古の通法なり。
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史記 范雎蔡沢列伝穣侯・華陽君は、昭王の母宣太后の弟なり。而して涇陽君・高陵君は皆昭王の同母弟なり。穣侯相たり、三人の者更々将たり、封邑有り、太后の故を以て、私家の富は王室より重し。穣侯の秦の将と為るに及び、且に韓・魏を越えて斉の綱寿を伐ち、以てその陶の封を広めんと欲す。范睢乃ち上書して曰く、臣聞く、明主の政を立つるや、功有る者は賞せざるを得ず、能有る者は官せざるを得ず、労大なる者はその禄厚く、功多き者はその爵尊く、能く衆を治むる者はその官大なり。故に無能の者は敢へて職に当たらず、能有る者もまた蔽隠するを得ず。臣の言を以て可と為さば、願はくは行ひて益々その道を利せよ。臣の言を以て不可と為さば、久しく臣を留むるは為す無きなり。語に曰く「庸主は愛する所を賞して悪む所を罰す。明主は則ち然らず、賞は必ず功有るに加へ、刑は必ず罪有るに断ず」と。今、臣の胸は以て椹質に当たるに足らず、要は以て斧鉞を待つに足らず、豈に敢へて疑事を以て王に嘗試せんや。臣を以て賤人と為して軽辱すと雖も、独り臣を任ずる者の王に反覆無きを重んぜざるか。且つ臣聞く、周に砥砨有り、宋に結緑有り、梁に県藜有り、楚に和樸有り。此の四宝は、土の生ずる所、良工の失ふ所なり、而して天下の名器と為る。然らば則ち聖王の棄つる所の者は、独り以て国家を厚くするに足らざらんや。臣聞く、善く家を厚くする者はこれを国に取り、善く国を厚くする者はこれを諸侯に取る。天下に明主有らば則ち諸侯擅に厚くするを得ざるは、何ぞや。その栄を割くが為なり。良医は病人の死生を知り、而して聖主は成敗の事に明らかなり。利あらば則ちこれを行ひ、害あらば則ちこれを捨て、疑はしければ則ち少しくこれを嘗む。舜・禹また生まるると雖も、改むる能はざるのみ。語の至れる者は、臣敢へてこれを書に載せず、その浅き者はまた聴くに足らざるなり。
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『春秋左氏伝』襄公二十六年 楚材晋用對へて曰く、「晉の卿は楚に如かず。其の大夫は則ち賢なり。皆卿の材なり。杞梓・皮革の、楚より往くが如し。楚に材有りと雖も、晉實に之を用ゐる」と。子木曰く、「夫れ獨り族姻無からんや」と。對へて曰く、「有りと雖も、楚の材を用ゐること實に多し。歸生之を聞く、善く國を為むる者は、賞僭はずして刑濫れず。賞僭へば則ち淫人に及ばんことを懼れ、刑濫るれば則ち善人に及ばんことを懼る。若し不幸にして過たば、寧ろ僭ふとも濫るること無かれ。其の善を失はんよりは、寧ろ其れ淫を利せよ。善人無ければ、則ち國之に從ふ。詩に曰く、『人の云に亡ぶる、邦國殄瘁す』と。善人無きの謂ひなり。故に夏書に曰く、『其の不辜を殺さんよりは、寧ろ不經を失せよ』と。善を失はんことを懼るるなり。商頌に之有りて曰く、『僭はず濫れず、敢へて怠皇せず。下國に命じて、厥の福を封建す』と。此れ湯の天福を獲たる所以なり。古の民を治むる者は、賞を勸めて刑を畏れ、民を恤へて倦まず。賞するに春夏を以てし、刑するに秋冬を以てす。是を以て將に賞せんとすれば之が為に膳を加ふ。膳を加ふれば則ち飫賜す。此を以て其の賞を勸むるを知るなり。
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『春秋左氏伝』哀公十七年 何の賤しきことか之れ有らん夏六月、趙鞅、衛を圍む。齊の國觀・陳瓘、衛を救ふ。晉人の師を致す者を得たり。子玉、服せしめて之を見て曰く、「國子、實に齊の柄を執りて、瓘に命じて曰く、『晉師を辟くること無かれ』と。豈に敢へて命を廢せんや。子又何ぞ辱くせん」と。簡子曰く、「我、衛を伐つことを卜せしも、未だ齊と戰ふことを卜せず」と。乃ち還る。楚の白公の亂に、陳人、其の聚を恃みて楚を侵す。楚既に寧し。將に陳の麥を取らんとす。楚子、帥を大師子穀と葉公諸梁とに問ふ。子穀曰く、「右領差車と左史老とは、皆令尹・司馬を相けて以て陳を伐てり。其れ使ふ可きなり」と。子高曰く、「率賤しければ、民之を慢る。命を用ゐざらんことを懼る」と。子穀曰く、「觀丁父は鄀の俘なり。武王以て軍率と為す。是を以て州・蓼に克ち、隨・唐を服し、大いに群蠻を啟く。彭仲爽は申の俘なり。文王以て令尹と為す。實に申・息を縣とし、陳・蔡を朝せしめ、畛を汝に封ず。唯だ其れ任ずるのみ。何の賤しきことか之れ有らん」と。子高曰く、「天命は諂はず。令尹、陳に憾み有り。天若し之を亡ぼさば、其れ必ず令尹の子に是れ與へん。君盍ぞ焉を舍かざる。臣懼る、右領と左史とは、二俘の賤しき有りて、其の令德無きことを」と。王、之を卜す。武城尹吉なり。師を帥ゐて陳の麥を取らしむ。陳人之を御ぎて敗れ、遂に陳を圍む。
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『長短経』大体故に曰く、人を知る者は王道なり、事を知る者は臣道なり。形無き者は物の君なり、端無き者は事の本なり。鼓は五音に予らずして五音の主と為り、有道者は五官の事を為さずして事を理むるの主と為る。君は其の道を守り、官は其の事を知る、自ら来る有り。先王は其の此くの如きを知るなり。故に其の有に非ざるを用うること己が有の如くす。君道に通ずる者なり。〔議に曰く、淮南子に云う「巧匠の宮室を為るや、円を為すには必ず規を以てし、方を為すには必ず矩を以てし、平直を為すには必ず準縄を以てす。功已に就れば、而も規矩準縄を知らずして巧匠を賞す。宮室已に成れば、巧匠を知らずして皆某君某王の宮室なりと曰う」と。孫卿曰く「夫れ人主、善く射て微に中つるを得んと欲せば、則ち羿を使うに若くは莫し。善く御して遠きを致すを得んと欲せば、則ち王良を使うに若くは莫し。天下を調一するを得んと欲せば、則ち聡明の君子に若くは莫し。其の智を用うること甚だ簡にして、其の事を為すこと労せずして、功名甚だ大なり」と。此れ能く其の有に非ざるを用うること、己が有の如くする者なり。〕
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『春秋左氏伝』昭公二十八年 唯だ善の在る所之に縣を與ふと雖も、亦た可ならずや。昔武王商に克ち、光(おほ)いに天下を有つ。其の兄弟の國なる者十有五人、姬姓の國なる者四十人、皆親を舉ぐるなり。夫れ舉ぐるに他無し、唯だ善の在る所なり、親疏一なり。詩に曰く、『唯れ此の文王、帝其の心を度(はか)り、其の德音を莫(さだ)む。其の德克く明らかに、克く明らかに克く類し、克く長じ克く君たり。此の大國に王として、克く順ひ克く比す。文王に比(およ)びて、其の德悔い靡し。既に帝の祉を受け、孫子に施す』と。心能く義を制するを度と曰ひ、德正しくして應和するを莫と曰ひ、四方に照臨するを明と曰ひ、勤施して私無きを類と曰ひ、教誨して倦まざるを長と曰ひ、賞慶刑威あるを君と曰ひ、慈和にして遍く服するを順と曰ひ、善を擇びて之に從ふを比と曰ひ、天地を經緯するを文と曰ふ。九德愆(あやま)たず、事を作して悔い無し。故に天祿を襲(う)け、子孫之に賴る。主の舉ぐるや、文德に近し。及ぶ所其れ遠からんかな」と。賈辛將に其の縣に適かんとし、魏子に見ゆ。魏子曰く、「辛來たれ。昔叔向鄭に適く。