武事提要 / 爲將之本意・将の本意は心を明らかにすること
將之本意は國の大事たるを知を以て本とし、衆人の的當たらしめて一身の明正を立るを意とし、仁を始中終守て義を以て戒とすると也、國の大事と云は天下國家共に必士あり、其士の司は將なり、其士を能用ゆれば輔佐となり、惡用ゆれば害をなすなり、能用ゆると云は、第一其道を考て可行道を行、可置所を謀りて其地に置、士卒共に將の意を付て害を去難を除、常變共に安坐いたさしむるを以て、君命に不從と云ものなきに至也、次に衆人の的當たらしめ、一身の明正を立ると云は、主將の身は萬人の的當として一言一行皆是を學び手本とすること也、明は心を明かにすることにして、我知をきわめて能物に通ずる也、賢君を明君と稱して愚主を暗君と云も心の明暗を云こと也、心を明にするに有道、人の心必知識あり是を思慮と名付、俗に思案分別と云も是也、されば小事たりとも思慮なく事を致べからず、先我心に是を思慮して如此して是か非かと考る、是心の明なるべき基なり、知此思慮すといへども、思慮のまゝに致を心を師すと號して往古聖神甚戒之、さるによりて思慮の趣を其道に才德あらん輩を召して其可否を前方に正し、或は後に評議せしめて其可ならん方を執行し、後の戒となし玉ふを學問とす、たとへ聖賢の書を學びて是はまさしく古來よりの格言善行ときこへしことをも、先づ心に思慮あつて人によく正し玉はざれば明になりがたし、
新字:将之本意は国の大事たるを知を以て本とし、衆人の的当たらしめて一身の明正を立るを意とし、仁を始中終守て義を以て戒とすると也、国の大事と云は天下国家共に必士あり、其士の司は将なり、其士を能用ゆれば輔佐となり、悪用ゆれば害をなすなり、能用ゆると云は、第一其道を考て可行道を行、可置所を謀りて其地に置、士卒共に将の意を付て害を去難を除、常変共に安坐いたさしむるを以て、君命に不従と云ものなきに至也、次に衆人の的当たらしめ、一身の明正を立ると云は、主将の身は万人の的当として一言一行皆是を学び手本とすること也、明は心を明かにすることにして、我知をきわめて能物に通ずる也、賢君を明君と称して愚主を暗君と云も心の明暗を云こと也、心を明にするに有道、人の心必知識あり是を思慮と名付、俗に思案分別と云も是也、されば小事たりとも思慮なく事を致べからず、先我心に是を思慮して如此して是か非かと考る、是心の明なるべき基なり、知此思慮すといへども、思慮のまゝに致を心を師すと号して往古聖神甚戒之、さるによりて思慮の趣を其道に才徳あらん輩を召して其可否を前方に正し、或は後に評議せしめて其可ならん方を執行し、後の戒となし玉ふを学問とす、たとへ聖賢の書を学びて是はまさしく古来よりの格言善行ときこへしことをも、先づ心に思慮あつて人によく正し玉はざれば明になりがたし、
書き下し
將之本意は國の大事たるを知を以て本とし、衆人の的當たらしめて一身の明正を立るを意とし、仁を始中終守て義を以て戒とすると也、國の大事と云は天下國家共に必士あり、其士の司は將なり、其士を能用ゆれば輔佐となり、惡用ゆれば害をなすなり、能用ゆると云は、第一其道を考て可行道を行、可置所を謀りて其地に置、士卒共に將の意を付て害を去難を除、常變共に安坐いたさしむるを以て、君命に不從と云ものなきに至也、次に衆人の的當たらしめ、一身の明正を立ると云は、主將の身は萬人の的當として一言一行皆是を學び手本とすること也、明は心を明かにすることにして、我知をきわめて能物に通ずる也、賢君を明君と稱して愚主を暗君と云も心の明暗を云こと也、心を明にするに有道、人の心必知識あり是を思慮と名付、俗に思案分別と云も是也、されば小事たりとも思慮なく事を致べからず、先我心に是を思慮して如此して是か非かと考る、是心の明なるべき基なり、知此思慮すといへども、思慮のまゝに致を心を師すと號して往古聖神甚戒之、さるによりて思慮の趣を其道に才德あらん輩を召して其可否を前方に正し、或は後に評議せしめて其可ならん方を執行し、後の戒となし玉ふを學問とす、たとへ聖賢の書を學びて是はまさしく古來よりの格言善行ときこへしことをも、先づ心に思慮あつて人によく正し玉はざれば明になりがたし、
現代語訳
将の本意は、国の大事であることを知るのを本とし、多くの人の的(手本)となって一身の明正を立てることを心がけ、仁を始めから終わりまで守り、義を戒めとすることです。国の大事というのは、天下も国家もともに必ず士がいて、その士を司るのが将だということです。その士をよく用いれば輔佐となり、悪く用いれば害をなします。よく用いるというのは、第一にその道を考えて行うべき道を行い、置くべき所を謀ってその地に置き、士卒がみな将の意に心を留めて害を去り難を除き、平常の時も変事の時も安座していられるようにして、君命に従わない者がいないまでにすることです。次に、多くの人の的となり、一身の明正を立てるというのは、主将の身は万人の的として、一言一行をみながこれを学び手本とすることです。明とは心を明らかにすることで、自分の知を究めてよく物事に通じることです。賢い君を明君と称し、愚かな主を暗君と言うのも、心の明暗を言うのです。心を明らかにするには道があります。人の心には必ず知識があり、これを思慮と名づけ、俗に思案分別と言うのもこれです。ですから小事であっても思慮なく事を行ってはなりません。まず自分の心で、このようにして是か非かと考える、これが心が明らかになる基です。ただし、このように思慮しても、思慮のままに行うことを「心を師とする」と呼んで、昔の聖神はこれを大いに戒めました。そのため、思慮した内容を、その道に才徳のある者たちを召して事前にその可否を正し、あるいは後で評議させて、よい方を執り行い、後の戒めとなさることを学問とします。たとえ聖賢の書を学んで、これは確かに古来の格言・善行と聞いたことであっても、まず心に思慮があって人によく正していただかなければ、明らかにはなりがたいのです。
解説

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