武事提要 / 流儀之傳來・山鹿高祐の学びと著作・生涯
十歲而詩文共に勝人、並歌道神道悉得其傳、十七歲時講讀四書六經、專師羅山林道春、而述四書諺解五十餘冊、十八歲而志兵學、隨尾畑景憲、兵之道講習傳受、事終而受免狀印可、此間北條氏長亦附從受其傳、事不殘受免狀、其上にて二十一歲之年、述兵法神武雄備集五十一冊、皆兩師(尾畑氏北條氏)傳來之趣盡流儀之奧儀述作之、流儀傳來憂絶滅如此也、武の上述作の書籍兵法或問武敎要錄手鏡要錄三等錄武敎小學幷全書武敎本論武事記古今戰略七書諺解武敎餘談文の上述作の書籍治敎要錄修敎要錄山鹿語類聖敎要錄四書句讀大全百結字類中朝事實謫居童問右の通にして、文事武備共に心を盡し、人のためならんことを朝思暮練して、一生身終るまで心を盡し、天下國家の志有之人の疑惑を明正ならしめんとの大願不過之也、高祐一生浪人にて事終也、其間六七年の內淺野家に浪人分にて小祿を得といへども、辭退して益ゝ浪々の身にして、學問兵學に心を入、聖敎要錄を述作して諸人學問の上疑惑を辨說あらしめんと書成といへども、上より御咎ありて、先年淺野長直へ御預となり、至十年得御高免、前の通、江戸住居兵學の師として大小の諸士へ出會、或は來習、或は行敎して、其以後六十四歲にして病死す、家傳は高祐兩子、山鹿將監高恒、同藤介高基、相續之、
新字:十歳而詩文共に勝人、並歌道神道悉得其伝、十七歳時講読四書六経、専師羅山林道春、而述四書諺解五十余冊、十八歳而志兵学、随尾畑景憲、兵之道講習伝受、事終而受免状印可、此間北条氏長亦附従受其伝、事不残受免状、其上にて二十一歳之年、述兵法神武雄備集五十一冊、皆両師(尾畑氏北条氏)伝来之趣尽流儀之奥儀述作之、流儀伝来憂絶滅如此也、武の上述作の書籍兵法或問武教要録手鏡要録三等録武教小学幷全書武教本論武事記古今戦略七書諺解武教余談文の上述作の書籍治教要録修教要録山鹿語類聖教要録四書句読大全百結字類中朝事実謫居童問右の通にして、文事武備共に心を尽し、人のためならんことを朝思暮練して、一生身終るまで心を尽し、天下国家の志有之人の疑惑を明正ならしめんとの大願不過之也、高祐一生浪人にて事終也、其間六七年の内浅野家に浪人分にて小禄を得といへども、辞退して益ゝ浪々の身にして、学問兵学に心を入、聖教要録を述作して諸人学問の上疑惑を弁説あらしめんと書成といへども、上より御咎ありて、先年浅野長直へ御預となり、至十年得御高免、前の通、江戸住居兵学の師として大小の諸士へ出会、或は来習、或は行教して、其以後六十四歳にして病死す、家伝は高祐両子、山鹿将監高恒、同藤介高基、相続之、
書き下し
十歲而詩文共に勝人、並歌道神道悉得其傳、十七歲時講讀四書六經、專師羅山林道春、而述四書諺解五十餘冊、十八歲而志兵學、隨尾畑景憲、兵之道講習傳受、事終而受免狀印可、此間北條氏長亦附從受其傳、事不殘受免狀、其上にて二十一歲之年、述兵法神武雄備集五十一冊、皆兩師(尾畑氏北條氏)傳來之趣盡流儀之奧儀述作之、流儀傳來憂絶滅如此也、武の上述作の書籍兵法或問武敎要錄手鏡要錄三等錄武敎小學幷全書武敎本論武事記古今戰略七書諺解武敎餘談文の上述作の書籍治敎要錄修敎要錄山鹿語類聖敎要錄四書句讀大全百結字類中朝事實謫居童問右の通にして、文事武備共に心を盡し、人のためならんことを朝思暮練して、一生身終るまで心を盡し、天下國家の志有之人の疑惑を明正ならしめんとの大願不過之也、高祐一生浪人にて事終也、其間六七年の內淺野家に浪人分にて小祿を得といへども、辭退して益ゝ浪々の身にして、學問兵學に心を入、聖敎要錄を述作して諸人學問の上疑惑を辨說あらしめんと書成といへども、上より御咎ありて、先年淺野長直へ御預となり、至十年得御高免、前の通、江戸住居兵學の師として大小の諸士へ出會、或は來習、或は行敎して、其以後六十四歲にして病死す、家傳は高祐兩子、山鹿將監高恒、同藤介高基、相續之、
現代語訳
十歳で詩文ともに人に勝り、あわせて歌道・神道もことごとくその伝を得ました。十七歳のとき四書六経を講読し、もっぱら羅山林道春を師とし、四書諺解五十余冊を述べました。十八歳で兵学に志し、尾畑景憲に随って兵の道の講習・伝受を行い、事が終わって免状・印可を受けました。この間、北条氏長もまた付き従ってその伝を受け、事を残らず終えて免状を受けました。そのうえで二十一歳の年に、兵法神武雄備集五十一冊を述べました。みな両師(尾畑氏・北条氏)の伝来の趣を尽くし、流儀の奥義を述作したもので、流儀の伝来が絶滅することを憂えたのはこのとおりです。武のうえで述作した書籍は、兵法或問、武教要録、手鏡要録、三等録、武教小学ならびに全書、武教本論、武事記、古今戦略、七書諺解、武教余談です。文のうえで述作した書籍は、治教要録、修教要録、山鹿語類、聖教要録、四書句読大全、百結字類、中朝事実、謫居童問です。右のとおりで、文事・武備ともに心を尽くし、人のためになることを朝に思い暮れに練り、一生身の終わるまで心を尽くし、天下国家に志のある人の疑惑を明正にしようとする大願にほかなりませんでした。高祐は一生浪人で事を終えました。その間、六、七年のうちに浅野家に浪人分として小禄を得ましたが、辞退してますます浪々の身となり、学問・兵学に心を入れ、聖教要録を述作して、諸人の学問のうえの疑惑を弁説しようと書き上げましたところ、上より御咎めがあり、先年浅野長直へお預けとなり、十年に至って御高免を得て、前のとおり江戸に居住し、兵学の師として大小の諸士に出会い、あるいは来て習い、あるいは出向いて教え、その後、六十四歳で病死しました。家伝は高祐の両子、山鹿将監高恒、同藤介高基が相続しました。
解説

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