武道初心集 / 言辭二
偏に時の運のよき也と申して。誰も左のみ譽不申候。もしも致し損じたる時は。右御請の砌から。何とやらん覺束なく思はれしが。果して仕損ひたりと申して。諸人謗るものにて候。爰を以て何分にも御請をば。潔よくとは申にて候。總じて武士をたしなむ者は。假初にも。仕形の負を取らぬ樣にとの心懸第一に候。譬ば人に無心合力などを云懸られ候ても。是は成る事成らぬ事をば。幾重にも分別致し。成まじきと思ふ事ならば。それは格別。既に得心致す程ならば。如何にも潔よく請合候てこそ。先の者も別て過分共可存候を。請口鈍く。不宵々々の樣子に見ゆる時は。向の者の心に成ては。過分氣も薄く。何とぞ可成ならば。此仁へばかりは無心を云ぬ樣に致し度事かなと。無念にも。口惜くも。不存しては不叶候。如此なるを。意地のきたなき共申し。切離れのなき共申し。損の上の損共申候。初心の武士心得のため仍如件。
新字:偏に時の運のよき也と申して。誰も左のみ誉不申候。もしも致し損じたる時は。右御請の砌から。何とやらん覚束なく思はれしが。果して仕損ひたりと申して。諸人謗るものにて候。爰を以て何分にも御請をば。潔よくとは申にて候。総じて武士をたしなむ者は。仮初にも。仕形の負を取らぬ様にとの心懸第一に候。譬ば人に無心合力などを云懸られ候ても。是は成る事成らぬ事をば。幾重にも分別致し。成まじきと思ふ事ならば。それは格別。既に得心致す程ならば。如何にも潔よく請合候てこそ。先の者も別て過分共可存候を。請口鈍く。不宵々々の様子に見ゆる時は。向の者の心に成ては。過分気も薄く。何とぞ可成ならば。此仁へばかりは無心を云ぬ様に致し度事かなと。無念にも。口惜くも。不存しては不叶候。如此なるを。意地のきたなき共申し。切離れのなき共申し。損の上の損共申候。初心の武士心得のため仍如件。
書き下し
偏に時の運のよき也と申して。誰も左のみ譽不申候。もしも致し損じたる時は。右御請の砌から。何とやらん覺束なく思はれしが。果して仕損ひたりと申して。諸人謗るものにて候。爰を以て何分にも御請をば。潔よくとは申にて候。總じて武士をたしなむ者は。假初にも。仕形の負を取らぬ樣にとの心懸第一に候。譬ば人に無心合力などを云懸られ候ても。是は成る事成らぬ事をば。幾重にも分別致し。成まじきと思ふ事ならば。それは格別。既に得心致す程ならば。如何にも潔よく請合候てこそ。先の者も別て過分共可存候を。請口鈍く。不宵々々の樣子に見ゆる時は。向の者の心に成ては。過分氣も薄く。何とぞ可成ならば。此仁へばかりは無心を云ぬ樣に致し度事かなと。無念にも。口惜くも。不存しては不叶候。如此なるを。意地のきたなき共申し。切離れのなき共申し。損の上の損共申候。初心の武士心得のため仍如件。
現代語訳
ひとえに時の運が良かったからだと言って、誰もそれほど誉めません。もしやり損じたときは、御請けのときから、どことなく心もとなく思われたが、やはり仕損じたと言って、人々は悪く言うものです。こういうわけで、何ごとも御請けは潔くせよと申すのです。総じて武士をたしなむ者は、かりそめにも、振る舞いで負けを取らないようにとの心がけが第一です。たとえば人から無心や合力などを言いかけられたときも、できることかできないことかを、幾重にも分別して、できないと思うことなら、それは別のことです。すでに承知するほどのことなら、いかにも潔く請け合ってこそ、相手もことのほか有り難いと思うでしょう。それを請け口が鈍く、不承不承の様子に見えるときは、相手の心としては有り難みも薄く、できることならこの人にだけは無心を言わずにすませたかったと、無念にも、悔しくも思わずにはいられません。このようなのを、意地汚い、切り離れが悪い、損の上の損と言います。初心の武士の心得のために、以上のとおりである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『武道初心集』言辭(一)奉公仕る武士。主君より大切の仕もの。放討など仰付らるゝ時は。御家中人多き中に。今度の御用を私へ仰付らるゝ段。武士の冥理に相叶ひ。忝次第に存ずる旨。成程潔よく御請を申上る心得尤に候。然るを生溫き御請に及ぶは。以ての外宜しからず候。子細を申すに。內心には勇氣を勵し。天晴仕すまして御目に懸べきと存じ詰候ても。勝負は時の運によれば討損じ。剩へ返り討に逢事も有之候。何れも後日に至り。諸傍輩の中において善惡の批判有べき事に候。其首尾好ければ。いかさま御請の砌より。仕り乘まじき氣色に見えたるが。能は仕濟したりと申して。もし又仕損じて返り討に逢候時は。右の御請の次第を申出て。中々仕り損ずる樣なる者にては無かりしが。如何致して討損じけるぞと申して。各悔みて惜み申候。扨又少しにても鈍き御請を仕り候時は。たとひ好首尾に致し濟し候ても。
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『武道初心集』交誼(一)武士たらむものゝ。頼母しき。意地有之と申すは。武道の正義に候。然りといへ共。譯もなく頼母しだてを致し。懸も搆はぬ所へもさし出、我が苦勞に成まじき事をも。荷なひ取持候をばさし出者共申し。又は物に懸りなどゝも沙汰仕り。大きに宜しからず候。是は少し搆ひてもと存ずる事なりとも。人が頼まぬ事ならば。かまわぬ程好事は無之候。子細を申すに。小事はいふに及ばず。たとひいか樣のむつかしき事たり共。武士の上に於て。既に頼むぞ頼まるゝぞと申すに至り候ては。我が身に引懸。苦勞に不仕しては不叶候。事の首尾によりては。主君親兄弟の爲にさへ。無差と捨ぬ一命をも。是非なく相果す儀も有まじきに非ず。爰を以て譯もなき頼母しだてを。無用とは申にて候。古き武士は。人に物を頼まれ候へば。成る筋。成らぬ筋を勘辨仕りて。成まじきと存ずる事をば。最初より請負不申。可成筋の義と存ずる義も。篤と思案致して後。其義を受負申に付。既に受負候ほどの義は相調ひ。首尾不合の義とては無之物にて候。去るに依て。人も埒明哉と申して。譽事にも仕るにて候。然るに其考なしに。人が物をさへ頼めば。心易く受負。首尾不合なれども。それを何共不存候時は。不埒者といふ名取を仕り候。扨又人に我が思ひ寄を申し。
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『武道初心集』儉畜(一)奉公仕る武士は。大身小身に限らず。常に儉約を用ゐて。隨分勝手をすり切不申分別尤に候。但し知行高を取武士の義は。たとひ一度勝手をすり切候ても。早く思案を致しかへて。爰をつめ彼所をちゞめ。諸事に氣を付て簡畧をさへ致候へば。程なく勝手を取直し申義も罷成候は。身上に餘計あるを以ての義に候。小身にて大身の眞似を致し。無用の義に物を入れ。勝手を仕損じ候ては。身上の餘計無之に付。萬事跡ひけになり。何程簡略致し候ても補ひ兼。後々は跡へも先へも行兼る。大すり切と罷成るは必定に候。人々勝手に成るぞ成らぬぞとは申すは內證の義にて。奉公を致す身には。傍輩一列の格合有之。止事を得ざる物入もなくては叶はず。左樣の刻み爲方なければ。種々の才覺手段に及び。云まじき事をもいひ。仕間敷事をも仕りて。生れも付ざる不律義もの。大はつ者の名取を仕るも。畢竟不勝手より起る過失に候。爰を以て前かたより其覺悟を定め。
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『武道初心集』奉公(二)來る幾日には必ず出馬と申合せ定り候ては。もはや延も縮もならざるに付。不足たらだらながらも出勢なくては不叶候。靜謐の時代には。我も人も能見物と心得市屋町屋を借りふさげ。野にも山にも立わだり。貴賤目晒しの武者押は。形のごとくの晴事なるに。家中の人馬出立共に。諸手に劣りて見苦しき樣子ならば。主君大將の御身に取て。御一生の御恥辱是に過ず。此一大事を以て考へ候時は。家中大小の諸士。新參古參に限らず拜領し罷在知行切符の內。分に相應に差上ずしては叶はず候。然れば物成減少の年限の內は。隨分簡略仕り。人馬をも減し。冬は紙子木綿の衣類。夏は布かたびらを着し。朝夕は黑米飯。糠味噌汁と分別を極め。自身は水を汲薪をさき。妻子に飯饗せ力に稱ふ程は難義苦勞を致し。何卒主君の御用途を整へさせまゐらせ度と一筋に存じ入候は。奉公の本意たるべく候。且又右の通り艱難を仕り罷在年限の內たり共。何ぞ臨時の御用を承り。非常の物入ある事も有べく候。左樣の砌りは。自身の指替。女房の手箱を質物に入ても。其償ひを致し。金銀拜借などを此方よりは願ふべからず候。子細を申すに。たとひ主君の御耳にこそ入らず共。家老年寄中の下墨にも。物成減少にあひたるを下心に含み。武士に似合ざるねだり言を申と思はれては。重ねて口もきかれずとのたしなみに候。初心の武士心得のため仍如件。
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『武道初心集』交誼(二)或は異見を加へ候も。勘辨あるべき事にて候。子細を申すに。人の親師匠。兄伯父などの身にて。子や弟子や。甥弟へ對しては。たとひいか樣の思ひ寄を申過し候ても。苦しかるまじく候へ共。それさへ武士の口より物を申出すは。遠慮勘辨なくては不叶候。況や友傍輩へ對し候ては。猶更遠慮尤に候。扨又人より打わりて。相談を致し懸る義有之節。我等も了簡に及ばずと云て。一向相談を斷り候は格別の義に候。既に其相談相手と罷成より初めては。たとひ其人の心に叶はず。氣に入らぬ事なりとも。少しも遠慮なく道理をせめて。我が存寄の一とほりを殘らず申述るは。一段頼母しき意地に候。然るを心弱くて。个樣に申したらんには。若も心に障るべきか。氣に當るべきかなど。下手遠慮を致して。事の道理に背き。筋目にあらざる義を。尤左樣にも可然など。間に合なる相談に及び。其人に云まじき事をいはせ。或は仕形の負を取らせなど致して。後日人々の誹嘲りに逢せ候は。相談相手に頼まれたる甲斐もなき仕合に候。或は我を人がましく思ひて。相談を致すに付て。理の當る所を以て。相談に及ぶ義を不用して。己が心任せに致し。事を仕損ずる樣なる無分別ものならば。向後入魂仕間敷事に候。初心の武士心得のため仍如件。
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『武道初心集』臣職(三)或は其塲を一足も引退かずして。晴なる討死をも遂なん。此義に於ては摩利支尊天も照覽あれ。人にさせては見まじき物をと、口廣くこそいはね。我が心一つに覺悟を極め罷在を。武士の奉公の奧意とは申候。扱右の如く奧意を極むるうへは。我が身も命も我が物に非ずいつ何時主君の御用有べきも難計からは。彌身命を大切にかけ。大食大酒淫欲等の不養生を愼しみ。疊の上の病死をさへも本意と思はず。ましてや喧嘩口論など仕出して友傍輩を打果し。我が身命を失ふ類ひの不忠不義は。深く愼しむべき事に候。其愼の致方は。むざと口をきかぬがよく候。口をきくから起りて口論あり。口論がつのりては必ず雜言あり。武士と武士との出會にて。互ひの雜言に及びて後。無事なる事は。千萬に一つも無之候。去るに依て。最初口論に及ぶ時。其心得を致し。兼て主君へ捧げ置たる身命といふ義を存じ出し。抑へ控へを仕るを忠義の武士共申し。又は分別者共申にて候。初心の武士心得のため仍如件。
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