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武道便蒙録 / 卷之三・人選の信と慎みと芸の癖と二相大悟

○昔時ある大名、側につかふべき士をゑらびしに、諸士の頭役をつとめし者、わが組の中にて、ある者を書出せり、主人つかひけるが、其心にかなはで、もとの組にかへして、又人をゑらばせしに、かの頭、同人を書出せり、家老中より、此者はさきのたび、御心にかなはで歸し玉へるを、又書出されしは、いかがと問ければ、頭の曰く、某に御預けありし人の中に、これほどの人はあらず、いくたび御尋ありとも、能き人を、さし置て、別人を書出し候はんやと答へしかば、主人其趣をきゝて、其儀ならば、いま一度つかひ見るべしとて、よび出せしに、甚だ意にかなひ、後には家老にまでなされけりと、或人の物語なり、○世上に人をはかりて、一旦は富を得たるものあれども、身を全くすることあたはず、己れひとり智ありと、おもへども、人もまた智あり。たとへば、かりそめに漆たる器の、程なくはぐるが如く、後にはいつはり、あらはるゝなり、たゞ拙きを養ひ愼て、信を守るべし、たとへば初より木地の器は、見たる處よろしからねども、漆たる器のはげたよりまされり、○慶賀あるとき、憂患ある時に、言葉をつゝしむべし、覺へず、言を過すなり、よろこびもうれへも、程すぎぬれば、其時のごとくにはあらず、こゝにおいて、約にそむき、言葉をたがへて、後悔するなり、古き歌に、うれしきも、かなしきとも、過ぬれば、其時ほどは、おもはざりけり、○藝あるものは、多くは癖あり、其癖をすてゝ、藝を取べし、長きところを用ずして、短きところをそしるは、藝を好まざればなり、たま〱藝ありて。癖なく人品よきと云はるゝものを見るに、過半は其藝下手也、人と藝と乘備へたるは希なり、○予が學びし、神軍傳法に、のする處の二相大悟といふことあり、二相は將の智不智なり、勝負虛實きはまる所、各〻大將の心より出づ、大將の智不智を以て、推はかりさとすを、大悟となづけたり、軍書に、水銀躰と云こと秘事也、面授にあらざれば曉しがたし、

新字:○昔時ある大名、側につかふべき士をゑらびしに、諸士の頭役をつとめし者、わが組の中にて、ある者を書出せり、主人つかひけるが、其心にかなはで、もとの組にかへして、又人をゑらばせしに、かの頭、同人を書出せり、家老中より、此者はさきのたび、御心にかなはで帰し玉へるを、又書出されしは、いかがと問ければ、頭の曰く、某に御預けありし人の中に、これほどの人はあらず、いくたび御尋ありとも、能き人を、さし置て、別人を書出し候はんやと答へしかば、主人其趣をきゝて、其儀ならば、いま一度つかひ見るべしとて、よび出せしに、甚だ意にかなひ、後には家老にまでなされけりと、或人の物語なり、○世上に人をはかりて、一旦は富を得たるものあれども、身を全くすることあたはず、己れひとり智ありと、おもへども、人もまた智あり。たとへば、かりそめに漆たる器の、程なくはぐるが如く、後にはいつはり、あらはるゝなり、たゞ拙きを養ひ慎て、信を守るべし、たとへば初より木地の器は、見たる処よろしからねども、漆たる器のはげたよりまされり、○慶賀あるとき、憂患ある時に、言葉をつゝしむべし、覚へず、言を過すなり、よろこびもうれへも、程すぎぬれば、其時のごとくにはあらず、こゝにおいて、約にそむき、言葉をたがへて、後悔するなり、古き歌に、うれしきも、かなしきとも、過ぬれば、其時ほどは、おもはざりけり、○芸あるものは、多くは癖あり、其癖をすてゝ、芸を取べし、長きところを用ずして、短きところをそしるは、芸を好まざればなり、たま〱芸ありて。癖なく人品よきと云はるゝものを見るに、過半は其芸下手也、人と芸と乗備へたるは希なり、○予が学びし、神軍伝法に、のする処の二相大悟といふことあり、二相は将の智不智なり、勝負虚実きはまる所、各〻大将の心より出づ、大将の智不智を以て、推はかりさとすを、大悟となづけたり、軍書に、水銀体と云こと秘事也、面授にあらざれば暁しがたし、

書き下し

○昔時ある大名、側につかふべき士をゑらびしに、諸士の頭役をつとめし者、わが組の中にて、ある者を書出せり、主人つかひけるが、其心にかなはで、もとの組にかへして、又人をゑらばせしに、かの頭、同人を書出せり、家老中より、此者はさきのたび、御心にかなはで歸し玉へるを、又書出されしは、いかがと問ければ、頭の曰く、某に御預けありし人の中に、これほどの人はあらず、いくたび御尋ありとも、能き人を、さし置て、別人を書出し候はんやと答へしかば、主人其趣をきゝて、其儀ならば、いま一度つかひ見るべしとて、よび出せしに、甚だ意にかなひ、後には家老にまでなされけりと、或人の物語なり、○世上に人をはかりて、一旦は富を得たるものあれども、身を全くすることあたはず、己れひとり智ありと、おもへども、人もまた智あり。たとへば、かりそめに漆たる器の、程なくはぐるが如く、後にはいつはり、あらはるゝなり、たゞ拙きを養ひ愼て、信を守るべし、たとへば初より木地の器は、見たる處よろしからねども、漆たる器のはげたよりまされり、○慶賀あるとき、憂患ある時に、言葉をつゝしむべし、覺へず、言を過すなり、よろこびもうれへも、程すぎぬれば、其時のごとくにはあらず、こゝにおいて、約にそむき、言葉をたがへて、後悔するなり、古き歌に、うれしきも、かなしきとも、過ぬれば、其時ほどは、おもはざりけり、○藝あるものは、多くは癖あり、其癖をすてゝ、藝を取べし、長きところを用ずして、短きところをそしるは、藝を好まざればなり、たま〱藝ありて。癖なく人品よきと云はるゝものを見るに、過半は其藝下手也、人と藝と乘備へたるは希なり、○予が學びし、神軍傳法に、のする處の二相大悟といふことあり、二相は將の智不智なり、勝負虛實きはまる所、各〻大將の心より出づ、大將の智不智を以て、推はかりさとすを、大悟となづけたり、軍書に、水銀躰と云こと秘事也、面授にあらざれば曉しがたし、

現代語訳

昔、ある大名が、側に仕える士を選ばせたところ、諸士の頭役を務める者が、自分の組の中からある者を書き出しました。主人は使ってみましたが、心にかなわなかったので、もとの組に帰して、また人を選ばせました。すると、かの頭はまた同じ人を書き出しました。家老たちが、この者は先に御心にかなわず帰されたのに、また書き出されたのはどういうことかと問うと、頭は「私にお預けくださった人の中に、これほどの人はおりません。何度お尋ねになっても、よい人を差し置いて別の人を書き出すことがありましょうか」と答えました。主人はその趣旨を聞いて、そういうことならもう一度使ってみようと呼び出したところ、たいへん意にかない、後には家老にまでなさったと、ある人の物語です。○世間には人をはかって、一旦は富を得た者もいますが、身を全うすることはできません。自分ひとりが智があると思っていても、人もまた智があります。たとえば、かりそめに漆を塗った器がほどなくはげるように、後には偽りが現れるのです。ただ拙さを養い慎んで、信を守るべきです。たとえば初めから木地の器は、見た目はよくなくても、漆を塗ってはげた器よりまさっています。○慶賀のあるとき、憂患のあるときに、言葉を慎むべきです。覚えず言を過ごします。喜びも憂いも、程が過ぎればそのときのようではなくなります。そこで約束に背き、言葉をたがえて後悔するのです。古い歌に「うれしきも、かなしきとも、過ぎぬれば、その時ほどは、おもはざりけり」とあります。○芸のある者は、多くは癖があります。その癖を捨てて、芸を取るべきです。長所を用いずに短所をそしるのは、芸を好まないからです。たまたま芸があって癖がなく人品がよいと言われる者を見ると、過半はその芸が下手です。人と芸が揃っているのは稀です。○私が学んだ神軍伝法に載せてある二相大悟ということがあります。二相は将の智と不智です。勝負と虚実の窮まる所は、それぞれ大将の心から出ます。大将の智不智によって推し量り悟ることを、大悟と名づけました。軍書に、水銀体ということは秘事で、面授でなければ悟りがたいとあります。

解説

主君の気に入らなかった者を、頭が信念をもって再び推薦して家老にまで至った逸話に始まり、偽りの塗りは剥げる、喜びや憂いの最中に言葉を慎む、芸ある者の癖は長所のために許す、と実務に通じる教えが続きます。管理職への示唆は三つです。一度の評価で人を決めつけず、見立てに責任を持って推すこと。うまく取り繕うより誠実に積み上げること。人の短所だけを見ず、長所を活かす配置をすることです。
『人生の方程式』の表紙

人生を、一行の式にしてみた。

志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。

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この章句が説くこと

『武道便蒙録』須賀井正秀人選信慎言芸と癖

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