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弁名 / 王覇

王覇之辨。古所無也。觀於孔子稱管仲如其仁。書載秦誓。則孔子未嘗以覇爲非焉。王與覇。其所以異者。時與位耳。當春秋時。豈有所謂覇道哉。使孔子見用於時。亦必爲管仲也。管晏書今在焉。其間不無後人附託者。其文辭較然自殊。故擇其眞者讀之。則儒者何別也。是其時莫有所謂覇者之道者審矣。

新字:王覇之弁。古所無也。観於孔子称管仲如其仁。書載秦誓。則孔子未嘗以覇為非焉。王与覇。其所以異者。時与位耳。当春秋時。豈有所謂覇道哉。使孔子見用於時。亦必為管仲也。管晏書今在焉。其間不無後人附託者。其文辞較然自殊。故択其真者読之。則儒者何別也。是其時莫有所謂覇者之道者審矣。

書き下し

王覇の辨は古に無き所なり。孔子の管仲を「其の仁に如かんや」と称し、書に秦誓を載するを観れば、則ち孔子未だ嘗て覇を以て非と為さず。王と覇と、其の異なる所以の者は、時と位とのみ。春秋の時に当りて、豈に所謂覇道なる者有らんや。孔子をして時に用ひられしめば、亦た必ず管仲と為らん。管・晏の書は今在り。其の間に後人の附託する者無きにあらざるも、其の文辞較然として自ら殊なり。故に其の真なる者を択びて之を読めば、則ち儒者と何ぞ別たん。是れ其の時に所謂覇者の道なる者有ること莫きこと審かなり。

現代語訳

王道と覇道を区別する議論は、古にはなかった。孔子が管仲を「誰がその仁に及ぼうか」とたたえ、『書経』に秦誓(覇者である秦の穆公の誓い)を収めたのを見れば、孔子は覇者を非としたことはない。王と覇の違うところは、時と位だけである。春秋時代に、いわゆる「覇道」などというものがあったろうか。もし孔子が当時用いられていたら、やはり管仲のようになっただろう。管仲・晏嬰の書は今も残っている。その中には後人が付け加えたものもあるが、その文章ははっきりと違う。だから本物を選んで読めば、儒者と何の違いがあろう。当時いわゆる覇者の道などというものがなかったことは明らかである。

解説

王覇の辨は儒学の大前提とされてきたが、徂徠はそれを古にはなかった議論だと覆す。孔子は管仲の仁を称え、『書経』には覇者秦穆公の誓いを収めた。王と覇の違いは時代と地位の違いにすぎず、孔子も用いられていれば管仲のように働いただろうという。徂徠の実際的な政治観がよく表れている。理想を掲げる王道と実利の覇道を対立させる発想は、理念経営と成果重視の対立に似るが、どちらも時と立場に応じて民を安んずる働きとして捉え直せる。

この章句が説くこと

王覇管仲孔子時位政治

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