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弁名 / 經權

學記曰。一年視離經。說者謂離析章句。非矣。方其始受業時。章句既析。豈竢一年之久。俾其自析哉。離麗同。如麗於刑之麗。法律家以罪名與律相比附。學者亦然。義各隨其所取。與經相比附。是謂之離經。視其善用古法言也。觀於此文。則似亦自古有之耳。至於傳。乃弟子記其師所傳。故謂之傳。如春秋有左氏。有公羊。有穀梁。詩有齊。有魯。有韓。有毛。皆所傳殊故也。後世胡安國作春秋傳。程子作易傳。朱子作詩傳。蔡沈作書傳。皆取諸其臆。果何所傳。可謂妄已。

新字:学記曰。一年視離経。説者謂離析章句。非矣。方其始受業時。章句既析。豈竢一年之久。俾其自析哉。離麗同。如麗於刑之麗。法律家以罪名与律相比附。学者亦然。義各随其所取。与経相比附。是謂之離経。視其善用古法言也。観於此文。則似亦自古有之耳。至於伝。乃弟子記其師所伝。故謂之伝。如春秋有左氏。有公羊。有穀梁。詩有斉。有魯。有韓。有毛。皆所伝殊故也。後世胡安国作春秋伝。程子作易伝。朱子作詩伝。蔡沈作書伝。皆取諸其臆。果何所伝。可謂妄已。

書き下し

学記に曰く、「一年にして離経を視る」と。説く者は章句を離析するを謂ふとす、非なり。其の始めて業を受くる時に方りて、章句既に析つ、豈に一年の久しきを竢ちて、其れをして自ら析たしめんや。離は麗と同じ、刑に麗くの麗の如し。法律家は罪名を以て律と相比附す。学者も亦た然り。義各〻其の取る所に随ひて、経と相比附す、是れ之を離経と謂ふ。其の善く古の法言を用ふるを視るなり。此の文を観れば、則ち亦た古より之有るに似たるのみ。伝に至りては、乃ち弟子其の師の伝ふる所を記す、故に之を伝と謂ふ。春秋に左氏有り、公羊有り、穀梁有り、詩に斉有り、魯有り、韓有り、毛有るが如き、皆伝ふる所殊なるが故なり。後世胡安国春秋伝を作り、程子易伝を作り、朱子詩伝を作り、蔡沈書伝を作る。皆諸を其の臆に取る。果して何の伝ふる所ぞ。妄と謂ふべきのみ。

現代語訳

『礼記』学記に「一年目には離経を見る」とある。注釈者は「章句を区切り分けること」だとするが、誤りである。初めて教えを受ける時に、章句はすでに区切られている。どうして一年も待って、自分で区切らせることがあろうか。「離」は「麗(つく)」と同じで、「刑に麗く(刑罰に当てはまる)」の麗のようなものである。法律家が罪名を律の条文に当てはめるように、学ぶ者も、それぞれ取り上げた事柄の意味を経に当てはめる。これを離経という。古の模範となる言葉をうまく使えるかを見るのである。この文を見ると、(経という言い方は)古くからあったようでもある。伝については、弟子が師から伝えられたことを記録したものだから伝という。『春秋』に左氏・公羊・穀梁があり、『詩経』に斉・魯・韓・毛があるのは、どれも伝えたものが違うからである。後世、胡安国が『春秋伝』を作り、程子(程頤)が『易伝』を作り、朱子が『詩伝』を作り、蔡沈が『書伝』を作った。どれも自分の推測から取ったものである。いったい何を伝えたというのか。でたらめというべきである。

解説

学記の「離経」を、徂徠は「章句を切り分ける」ではなく、法律家が罪を条文に当てはめるように、物事を経の言葉に当てはめて語る力と読む。古の法言を使いこなせるかを一年目に見るのである。さらに伝とは師から受け継いだ説を弟子が記したもので、伝承の系統が違うから伝が複数ある。宋儒が自分の考えで書いた注釈を「伝」と呼ぶのは、伝えるものがないのだから名に反するという。学んだ原則を目の前の案件に当てはめて語れるか、という問いは今の人材評価にも使える。

この章句が説くこと

経伝学記古言宋儒教育

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