弁名 / 理氣人欲
是論先王制禮樂以治民之意。乃論說之言也。所謂人欲者。卽性之欲也。卽好惡之心也。味其文意。唯言禮樂以節耳目口腹之欲而平其好惡而已。初非求人欲淨盡也。所謂天理者。指人之所以殊於禽獸者而言。卽所謂天之性也。亦非若宋儒所言者矣。人生而靜者。謂其嬰孩之初。好惡未若是其甚之時也。是非貴嬰孩之時矣。其所謂靜者。亦非若宋儒所謂寂然不動矣。亦指其好惡未甚之狀。以形夫後來好惡之躁動也。唯樂道性情。故以好惡動靜言之。如下文所謂樂由中出。故靜。禮自外作。故文。可以見巳。是皆論說先王制作禮樂之意也。豈以天理人欲爲工夫之條目哉。
新字:是論先王制礼楽以治民之意。乃論説之言也。所謂人欲者。即性之欲也。即好悪之心也。味其文意。唯言礼楽以節耳目口腹之欲而平其好悪而已。初非求人欲浄尽也。所謂天理者。指人之所以殊於禽獣者而言。即所謂天之性也。亦非若宋儒所言者矣。人生而静者。謂其嬰孩之初。好悪未若是其甚之時也。是非貴嬰孩之時矣。其所謂静者。亦非若宋儒所謂寂然不動矣。亦指其好悪未甚之状。以形夫後来好悪之躁動也。唯楽道性情。故以好悪動静言之。如下文所謂楽由中出。故静。礼自外作。故文。可以見巳。是皆論説先王制作礼楽之意也。豈以天理人欲為工夫之条目哉。
書き下し
是れ先王礼楽を制して以て民を治むるの意を論ず、乃ち論説の言なり。所謂人欲は、即ち性の欲なり。即ち好悪の心なり。其の文意を味はふに、唯だ礼楽以て耳目口腹の欲を節して其の好悪を平らかにすることを言ふのみ。初めより人欲の浄尽を求むるに非ざるなり。所謂天理は、人の禽獣に殊なる所以の者を指して言ふ。即ち所謂天の性なり。亦た宋儒の言ふ所の若き者に非ず。人生まれて静かなるは、其の嬰孩の初め、好悪未だ是くの若く其れ甚だしからざるの時を謂ふなり。是れ嬰孩の時を貴ぶに非ず。其の所謂静も、亦た宋儒の所謂寂然不動の若きに非ず。亦た其の好悪未だ甚だしからざるの状を指して、以て夫の後来好悪の躁動を形すなり。唯だ楽は性情を道ふ、故に好悪動静を以て之を言ふ。下文の所謂「楽は中由り出づ、故に静なり。礼は外自り作る、故に文なり」の如き、以て見るべきのみ。是れ皆先王の礼楽を制作するの意を論説するなり。豈に天理人欲を以て工夫の条目と為さんや。
現代語訳
これは先王が礼楽を定めて民を治めた意図を論じたもので、論説の言葉である。いわゆる人欲とは性の欲であり、好き嫌いの心である。その文意を味わえば、ただ礼楽によって耳・目・口・腹の欲に節度を持たせ、好き嫌いを平らかにすることを言っているだけである。もともと人欲をすっかりなくすことを求めたのではない。いわゆる天理とは、人が鳥獣と異なるところを指して言ったもので、いわゆる天の性である。これも宋儒が言うようなものではない。「人が生まれて静か」とは、赤子の初め、好き嫌いがまだそれほど激しくない時を言う。赤子の時を尊んだのではない。その「静」も、宋儒のいう「寂然不動(ひっそりとして動かない)」のようなものではなく、好き嫌いがまだ激しくない様子を指して、後の好き嫌いの騒がしい動きと対比したのである。楽は性情を語るものなので、好き嫌いや動静で言ったのである。下の文の「楽は内から出るので静であり、礼は外から作られるので文(かたち)がある」を見ればわかる。これらはみな先王が礼楽を作った意図を論じたものである。どうして天理・人欲を修養の項目としたことがあろうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『弁名』理氣人欲天理人欲は、楽記に出づ。其の言に曰く、「是の故に先王の礼楽を制するや、以て口腹耳目の欲を極むるに非ざるなり。将に以て民に好悪を平らかにすることを教へて、人道の正に反らしめんとするなり。人生まれて静かなるは、天の性なり。物に感じて動くは、性の欲なり。物至りて知知り、然る後に好悪形はる。好悪内に節無く、知外に誘はれ、躬に反る能はざれば、天理滅ぶ。夫れ物の人を感ぜしむること窮まり無くして、人の好悪節無ければ、則ち是れ物至りて人物に化するなり。人物に化すとは、天理を滅ぼして人欲を窮むる者なり。是に於いてか悖逆詐偽の心有り、淫泆作乱の事有り。是の故に強き者は弱きを脅かし、衆き者は寡きを暴し、知る者は愚かなるを詐り、勇なる者は怯なるを苦しめ、疾病養はれず、老幼孤独其の所を得ず。此れ大乱の道なり」と。
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礼記・楽記人生まれて静かなるは、天の性なり。物に感じて動くは、性の欲なり。物至りて知(ち)知り、然る後に好悪形(あらわ)る。好悪内に節無く、知外に誘わるれば、躬(み)に反ること能わずして、天理滅ぶ。夫れ物の人を感ぜしむること窮まり無くして、人の好悪節無ければ、則ち是れ物至りて人物に化するなり。人物に化するなる者は、天理を滅ぼして人欲を窮むる者なり。是に於いて悖逆詐偽の心有り、淫泆(いんいつ)作乱の事有り。是の故に強き者は弱きを脅かし、衆(おお)き者は寡なきを暴し、知ある者は愚かなるを詐(いつわ)り、勇ある者は怯(つたな)きを苦しめ、疾病ある者は養われず、老幼孤独は其の所を得ず。此れ大乱の道なり。
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『弁名』性情才楽記に曰く、「人生まれて静かなるは、天の性なり」と。宋儒の本然復性の説、諸に本づく。石梁王氏、及び仁斎先生、皆以て老氏の意にして、孔門の言に非ずと為す。蓋し楽は性情を理むるの道なり。先王の教、能く人の性を養ひて以て其の徳を成す者、焉より尚きは莫し。且つ其の教為る、義理の言ふべき無く、思慮の用ふべき無く、識らず知らず、帝の則に順ふ。故に性情の説、古は唯だ詩と楽とのみ之れ有り。喜怒哀楽も、亦た人の必ず有する所の者なり。然れども其の動の偏勝して節に中らざれば、則ち必ず中和の気を傷ふに至り、以て其の恒性を失ふ。徳の成り難き所以なり。
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『弁名』理氣人欲天理人欲を以て工夫の条目と為す者は、程子より始まる。按ずるに程子は邵子と善く、而して其の聡敏に服す。蓋し邵子の数の加一倍法を見て、陰かに其の術を師とし、以て聖人の道を御するのみ。邵子の学は数なり。易に本づく。易は以て疑ひを稽へ幾を決す。故に万物目に触るれば析きて両片と為す。固より其の所なり。程子の学は、知を貴び、之を見るを主とす。而して夫の聖人の道の渾渾爾たるに苦しむ。故に邵子の加一倍法を借りて、析きて以て之を二つにし、諸を楽記の文に取りて、以て其の言を飾る。是れより後、遂に後世儒者の常言と為る。然れども其の指して以て天理人欲と為す所の者、既に楽記の意に非ず。而して其の以て工夫の条目と為す者も、亦た大いに先王孔子の教に戻る。蓋し先王孔子の教は、養ひて以て其の徳を成せば、則ち悪は皆化して善と為る。豈に二者の目有らんや。宋儒の学は、知を貴び、之を見るを主とし、専ら是非の心を以て之を見る。故に必ず析きて両片と為さんと欲する者も、亦た勢の必ず至る所なり。故に仏氏を闢かんと欲して、反りて彼の真如無明菩提煩悩の説に陥る。豈に哀しからずや。
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『弁名』禮漢儒の仁義礼智を以て性と為すが如きは、乃ち孟子の「仁義礼智は心に根ざす」に本づく。然れども孟子豈に此を以て性と為さんや。仁・智は徳なり。礼・義は道なり。先王人性に率ひて以て道徳を立つ。故に孟子は性に根ざすと謂ふのみ。祇だ其の弁を好み、外人と争ひ、口に言を択ばず、諸を臆に取りて以て之を言ひ、其の旨をして遂に晦からしむるを致すなり。程子の礼楽を解するに至りては、専ら序・和を以て言と為す。是れ其の意、礼楽を以て粗迹と為し、其の理を以て精微と為す。故に序・和を以て之を言ふ。豈に老荘の遺に非ずや。仮使其の言是ならんか、先王の序・和を以て教と為さずして、故らに礼楽を作るは、是れ其の智程子に及ばざるなり。爾らずんば、亦た故らに人を難ずるを喜ぶなり。且つ序豈に以て礼を尽くし、和以て楽を尽くすに足らんや。鹵莽と謂ふべきのみ。朱子礼を釈して曰く、「天理の節文、人事の儀則」と。是れ其の意も亦た礼の先王の礼為るを識らざるに非ず。然れども既に以て性と為せば、則ち其の言に難し。故に天理を以て之を弥縫し、礼は彼に在りと雖も、其の理は我に具はれば、則ち礼は以て性と為すに庶からんと謂ふのみ。亦た仏氏の事理無礙の説のみ。
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『弁名』性情才故に楽を立てて以て之を教ふ。性は人の天に受くる所、所謂中是れなり。故に其の嬰孩の初め、喜怒哀楽未だ事を用ひざるの時を以て之を言ふ。所謂人生まれて静かなる者是れなり。是れ必ず嬰孩の初めに復らんことを求むと謂ふに非ず。又た静虚を以て至りと為すと謂ふに非ず。楽を為りて能く其の躁動を制し、其の過甚を防ぐ。故に其の未だ甚だしからざるの時を以て之を言ふのみ。中庸の未発の中の如きも、亦た未発の時を以て大本と為し、功を施すの地と為すに非ず。但だ人の性、天地の中を稟く、故に先王の道、人の性に率ひて以て之を立つと謂ふのみ。後儒、古言を知らず、古文辞を知らず、又た先王の教の術を知らず、妄りに以て本然の徳と為し、務めて義理を以て之を説き、遂に宋儒の陋を成す。王氏・伊藤氏又た宋儒の解に拠りて古文辞を読み、其の孔門の言に非ずと議する者は何ぞや。大氐性と習とは得て別つべからざる者なり。故に古者性を語るに、多く嬰孩の初めを以て之を言ふのみ。豈に嬰孩を以て貴しと為さんや。又た孟子の「大人は其の赤子の心を失はざる者なり」と曰ふが如きも、亦た宋儒復初の説の本づく所なり。殊に知らず、大人は乃ち大舜の誤りなるのみ。
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