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弁名 / 天命帝鬼神

是或見孔子獵較之類妄作是言耳。夫雖聖王。其卽位之初或然。及其化之成也。如陶鑄以出之。果其言之是乎。則聖王之於民。亦不能若之何已。聖人之道。豈若是孱哉。且三代之道。所以謂之有弊者。乃謂其所損益已。夫聖王之尊鬼神。三代皆然。若謂之有弊。則其所因者爲有弊也。果使所因者有弊。則安在其爲聖人哉。觀於王安石三不畏。則其所謂明其道曉其義者。豈無弊哉。且其所謂孔子以敎法爲主者。以口諄諄言之爲敎已陋哉。是講師之事也。豈孔子而若是哉。

新字:是或見孔子猟較之類妄作是言耳。夫雖聖王。其即位之初或然。及其化之成也。如陶鋳以出之。果其言之是乎。則聖王之於民。亦不能若之何已。聖人之道。豈若是孱哉。且三代之道。所以謂之有弊者。乃謂其所損益已。夫聖王之尊鬼神。三代皆然。若謂之有弊。則其所因者為有弊也。果使所因者有弊。則安在其為聖人哉。観於王安石三不畏。則其所謂明其道暁其義者。豈無弊哉。且其所謂孔子以教法為主者。以口諄諄言之為教已陋哉。是講師之事也。豈孔子而若是哉。

書き下し

是れ或いは孔子の猟較の類を見て、妄りに是の言を作すのみ。夫れ聖王と雖も、其の即位の初めは或いは然らん。其の化の成るに及びては、陶鋳して以て之を出だすが如し。果して其の言の是ならんか、則ち聖王の民に於ける、亦た之を若何ともする能はざるのみ。聖人の道、豈に是の若く孱ならんや。且つ三代の道、之を弊有りと謂ふ所以の者は、乃ち其の損益する所を謂ふのみ。夫れ聖王の鬼神を尊ぶは、三代皆然り。若し之を弊有りと謂はば、則ち其の因る所の者弊有りと為す。果して因る所の者をして弊有らしめば、則ち安くに其の聖人為るに在らんや。王安石の三不畏を観れば、則ち其の所謂其の道を明らかにし其の義を暁らかにする者、豈に弊無からんや。且つ其の所謂孔子は教法を以て主と為す者は、口を以て諄諄として之を言ふを教と為すのみ。陋なるかな。是れ講師の事なり。豈に孔子にして是の若くならんや。

現代語訳

これはおそらく、孔子が(魯の風俗に従って)猟較(狩りの獲物比べ)に加わったような例を見て、勝手にこう言ったのであろう。聖王であっても、即位した初めはそうであったかもしれない。しかし教化が成就すれば、鋳型に入れて作り出すように民を作り変える。もし仁斎の言う通りなら、聖王も民をどうすることもできないことになる。聖人の道がそんなに弱々しいものであろうか。それに三代の道に弊害があるというのは、それぞれの代が損益(加減)したところを言うのである。聖王が鬼神を尊ぶのは三代ともそうであった。もしそれを弊害というなら、三代が受け継いだものに弊害があることになる。受け継いだものに弊害があるなら、どこに聖人たるゆえんがあろうか。王安石の「三つの畏れざるもの(天変・祖宗・人言)」を見れば、道理を明らかにし義を分からせるという方法に、弊害がないと言えようか。また孔子が教えを主としたと言うのは、口で懇々と説くことを教えとしているにすぎない。浅はかである。それは講釈師の仕事である。孔子がどうしてそのようであろうか。

解説

徂徠の反論が続く。聖王も初めは民の習俗に従ったかもしれないが、教化が成れば民を鋳型にはめるように作り変える。民に合わせるしかない道などありえない。三代を通じて受け継がれた鬼神の尊崇を弊害と呼ぶなら、三代の聖王が皆誤っていたことになる。そして天変も祖法も人の言葉も畏れないと言った王安石を引き、理屈で教えることにこそ弊害があると示す。孔子の教えを口で説くことと見るのは講釈師の発想だという批判は鋭い。人を育てるのは言葉の説明より、礼や仕組みによる感化だというのが徂徠の一貫した立場である。

この章句が説くこと

教化先王王安石講師伊藤仁斎教え

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