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弁名 / 公正直

後世理學興焉。舍先王之禮而以理言之。以理言之者。取其臆已。取其臆爲正。是人自爲正。可謂妄矣。易有中正。其義不與它書同。宋儒蓋混之。是其所以失也。又如大學正心。亦謂心一於禮爲正。其書本說養老禮之義。方其行禮時。先有忿懥恐懼好樂憂患之事。則心不得一於禮。故曰心不得其正。養老飮食之禮。故曰食而不知其味。宋儒不知以禮解之。誤矣。仲虺之誥曰。以禮制心。古之道爲爾。仁齋先生遂以大學正心爲佛老之歸。皆不知古言故也。

新字:後世理学興焉。舎先王之礼而以理言之。以理言之者。取其臆已。取其臆為正。是人自為正。可謂妄矣。易有中正。其義不与它書同。宋儒蓋混之。是其所以失也。又如大学正心。亦謂心一於礼為正。其書本説養老礼之義。方其行礼時。先有忿懥恐懼好楽憂患之事。則心不得一於礼。故曰心不得其正。養老飲食之礼。故曰食而不知其味。宋儒不知以礼解之。誤矣。仲虺之誥曰。以礼制心。古之道為爾。仁斎先生遂以大学正心為仏老之帰。皆不知古言故也。

書き下し

後世理学興りて、先王の礼を舎てて理を以て之を言ふ。理を以て之を言ふ者は、其の臆を取るのみ。其の臆を取りて正と為す、是れ人自ら正と為す。妄なりと謂ふべし。易に中正有り、其の義は它書と同じからず。宋儒蓋し之を混ず。是れ其の失ふ所以なり。又た大学の「正心」の如きも、亦た心の礼に一なるを正と為すを謂ふ。其の書は本養老の礼の義を説く。其の礼を行ふ時に方りて、先づ忿懥・恐懼・好楽・憂患の事有れば、則ち心礼に一なることを得ず。故に「心其の正を得ず」と曰ふ。養老は飲食の礼なり。故に「食らへども其の味を知らず」と曰ふ。宋儒は礼を以て之を解するを知らず、誤れり。仲虺の誥に曰く「礼を以て心を制す」と。古の道は爾りと為す。仁斎先生遂に大学の正心を以て仏老の帰と為すは、皆古言を知らざる故なり。

現代語訳

後世に理学(朱子学)が興ると、先王の礼を捨てて理で正を語るようになった。理で語るというのは、自分の憶測を取るということにすぎない。自分の憶測を取って正とするのは、人が自分で正しさを決めることであり、でたらめというべきである。易には「中正」という語があるが、その意味は他の書と同じではない。宋儒はこれを混同したのだろう。これが誤りのもとである。また大学の「正心(心を正す)」も、心が礼に一つになることを正としている。大学はもともと養老の礼(老人をもてなす儀礼)の意味を説いた書である。その礼を行うときに、先に怒り・恐れ・好み楽しみ・憂いといったことがあれば、心は礼に一つにならない。だから「心がその正しさを得ない」と言う。養老は飲食の礼である。だから「食べてもその味がわからない」と言う。宋儒はこれを礼で解すべきことを知らず、誤った。書経の仲虺之誥に「礼によって心を制する」とある。古の道はこうであった。仁斎先生がついに大学の正心を仏教・老荘に行き着くものとしたのは、どれも古い言葉を知らないからである。

解説

理学は先王の礼を捨てて理で正しさを語ったが、理とは結局各人の憶測であり、人が自分で正しさを決めることになる、と徂徠は痛烈に批判する。大学の「正心」も、もとは養老の礼を行うときに怒りや心配事があると心が礼に集中できず、食べても味がわからない、という具体的な場面の話だったという。心を正すとは、内省で心を磨くことではなく、礼という型に心を一つにすることだ。会議や顧客対応の場でも、私情を持ち込まず場の手順に心を集中させることが「正心」なのである。

この章句が説くこと

正正心理学礼大学弁名

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