導師導古典を学びたいすべての人に

弁名 / 誠

宋儒昧乎古言。加以好尙之偏。故其解二書。皆失文義。或以誠爲實理爲實心爲眞實無妄。種種之解。益精益鑿。皆不得於辭之失也。如仁齋先生以誠意與誠身爭其優劣。殊不知身者我也。凡身心相對。出于佛書。如吾聖人之敎。凡言身者。皆對道藝言之。道藝雖在外。習之熟。則成德於我。是謂誠身。德成則知自至。知至則其好仁。如好好色。如惡惡臭。其用功全在習道藝而熟之。大學中庸。豈有異義哉。

新字:宋儒昧乎古言。加以好尚之偏。故其解二書。皆失文義。或以誠為実理為実心為真実無妄。種種之解。益精益鑿。皆不得於辞之失也。如仁斎先生以誠意与誠身争其優劣。殊不知身者我也。凡身心相対。出于仏書。如吾聖人之教。凡言身者。皆対道芸言之。道芸雖在外。習之熟。則成徳於我。是謂誠身。徳成則知自至。知至則其好仁。如好好色。如悪悪臭。其用功全在習道芸而熟之。大学中庸。豈有異義哉。

書き下し

宋儒は古言に昧く、加ふるに好尚の偏りを以てす。故に其の二書を解する、皆文義を失ふ。或いは誠を以て実理と為し、実心と為し、真実無妄と為す。種々の解、益々精しく益々鑿つ。皆辞を得ざるの失なり。仁斎先生の誠意と誠身とを以て其の優劣を争ふが如きは、殊に身は我なるを知らず。凡そ身心相対するは、仏書に出づ。吾が聖人の教への如きは、凡そ身を言ふ者は、皆道芸に対して之を言ふ。道芸は外に在りと雖も、之を習ひて熟すれば、則ち徳を我に成す。是れを身を誠にすと謂ふ。徳成れば則ち知自ら至る。知至れば則ち其の仁を好むこと、好色を好むが如く、悪臭を悪むが如し。其の功を用ふるは全く道芸を習ひて之に熟するに在り。大学・中庸、豈に異義有らんや。

現代語訳

宋儒は古い言葉に暗く、そのうえ好みが偏っていた。だから大学・中庸の二書の解釈は、みな文の意味を外している。誠を「実理」とし、「実心」とし、「真実無妄」とする。さまざまな解釈がますます精密に、ますますこじつけになっていくのは、みな言葉をつかみ損ねた誤りである。仁斎先生が「意を誠にする」と「身を誠にする」の優劣を争ったのも、「身」とは「自分」のことだと知らないからである。そもそも身と心を対立させるのは仏教の書から出たものである。わが聖人の教えでは、身と言うときはみな道芸(道と技芸)に対して言う。道芸は外にあるが、習って熟達すれば自分の内に徳が成る。これを「身を誠にする」という。徳が成れば知は自然に至る。知が至れば仁を好むことは、美しい色を好み、悪臭を嫌うのと同じになる。努力はすべて道芸を習って熟達することにある。大学と中庸に違った意味などあろうか。

解説

宋儒は誠を「実理」「真実無妄」などと精密に定義し、仁斎は大学の誠意と中庸の誠身の優劣を論じた。徂徠はどちらも古い言葉の使い方を知らない誤りだと断じる。古典の「身」は心と対になる体ではなく「自分」のことで、外にある道芸に習熟して自分の徳とすることが誠身であり、大学も中庸も同じことを言っているという。概念を精密に分けるほど、もとの言葉から離れていくことがある。研修や理論でも、細かな区別にこだわるより、実際に技を身につけるという一点に立ち返ることが大切である。

この章句が説くこと

誠宋儒仁斎道芸古言大学

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る