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弁道 / 第六則

後儒多强學者。以高妙精微凡人所不能爲者。而曰聖人以是立極也。妄矣哉。先王立極。謂禮也。漢儒訓極爲中。禮者所以敎中也。又解中庸書而謂子思說禮意矣。其說雖未當。要之去古未遠。師弟所傳授。古義猶存者爾。蓋先王制禮。賢者俯而就之。不肖者企而及之。是所謂極也。是凡人所能爲者也。不爾。務以凡人所不能爲者强之。是使天下之人絕望於善也。豈先王安天下之道哉。故所謂事理當然之極。及變化氣質。學爲聖人類。皆非先王孔子之敎之舊矣。近世伊氏能知其非是。而廼以孝弟仁義謂爲規矩準繩。果若是乎。則人人自以其意爲孝弟仁義也。亦何所準哉。可謂無寸之尺。無星之稱已。

新字:後儒多強学者。以高妙精微凡人所不能為者。而曰聖人以是立極也。妄矣哉。先王立極。謂礼也。漢儒訓極為中。礼者所以教中也。又解中庸書而謂子思説礼意矣。其説雖未当。要之去古未遠。師弟所伝授。古義猶存者爾。蓋先王制礼。賢者俯而就之。不肖者企而及之。是所謂極也。是凡人所能為者也。不爾。務以凡人所不能為者強之。是使天下之人絶望於善也。豈先王安天下之道哉。故所謂事理当然之極。及変化気質。学為聖人類。皆非先王孔子之教之旧矣。近世伊氏能知其非是。而廼以孝弟仁義謂為規矩準縄。果若是乎。則人人自以其意為孝弟仁義也。亦何所準哉。可謂無寸之尺。無星之称已。

書き下し

後儒多く学者に強ふるに、高妙精微、凡人の為す能はざる所の者を以てし、而して聖人是を以て極を立つと曰ふ。妄なるかな。先王の極を立つとは、礼を謂ふなり。漢儒極を訓じて中と為す。礼は中を教ふる所以なり。又た中庸の書を解して、子思礼の意を説くと謂ふ。其の説未だ当たらずと雖も、之を要するに古を去ること未だ遠からず、師弟の伝授する所、古義猶ほ存する者のみ。蓋し先王の礼を制するや、賢者は俯して之に就き、不肖者は企てて之に及ぶ。是れ所謂極なり。是れ凡人の能く為す所の者なり。爾らずして、務めて凡人の為す能はざる所の者を以て之を強ふるは、是れ天下の人をして善に絶望せしむるなり。豈に先王の天下を安んずるの道ならんや。故に所謂事理当然の極、及び気質を変化し、学びて聖人と為るの類は、皆先王孔子の教への旧に非ず。近世伊氏能く其の是に非ざるを知る。而るに廼ち孝弟仁義を以て規矩準縄と謂為す。果たして是くの若きか、則ち人人自ら其の意を以て孝弟仁義と為すなり。亦た何の準とする所あらんや。寸無きの尺、星無きの称と謂ふべきのみ。

現代語訳

後世の儒者の多くは、高尚で精妙な、凡人にはできないことを学ぶ者に強い、聖人はこれによって「極」(基準)を立てたのだと言う。でたらめである。先王が極を立てたというのは礼のことである。漢の儒者は極を「中」と解した。礼は中を教えるためのものである。また『中庸』を解して、子思が礼の意味を説いたものだとした。その説は当たってはいないが、要するに古代から遠くなく、師から弟子へ伝えられたものに古い意味がまだ残っていたのである。思うに先王が礼を定めるとき、賢い者は身をかがめてそれに合わせ、愚かな者は背伸びしてそれに届く。これがいわゆる極である。これは凡人にもできることである。そうでなく、つとめて凡人にできないことを強いるのは、天下の人を善に絶望させることである。それがどうして先王の天下を安んずる道であろうか。だから「事理当然の極」とか、「気質を変化させる」「学んで聖人になる」といった類は、どれも先王・孔子の教えの本来の姿ではない。近ごろの伊藤氏(仁斎)はそれが誤りだと気づいた。ところが孝悌仁義をコンパスや定規、水準器や墨縄のような基準だと言った。もしそうなら、人々はめいめい自分の考えで孝悌仁義を決めることになる。何を基準にするのか。目盛りのない物差し、星(目盛り)のない秤と言うべきである。

解説

第六則は、基準とは何かを論じる。朱子学は凡人に及ばない高妙な理を「極」として掲げたが、先王の立てた極とは礼であり、賢者はかがんで就き、不肖の者は背伸びして届く、凡人にもできる中ほどの基準だと徂徠は言う。できないことを強いれば人々を善に絶望させるだけだという指摘は鋭い。仁斎が孝悌仁義を規矩とした点にも、各自の解釈に任せれば目盛りのない物差しになると反論する。行動基準は誰もが届く具体的な形で示してこそ機能するという教えは、組織の規程づくりに直結する。

この章句が説くこと

礼基準中先王仁斎規範

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