晏子春秋 / 雑下・景公以晏子衣食弊薄使田無宇致封邑晏子辭
晏子相齊,衣十升之布,食脫粟之食,五卵、苔菜而已,左右以告公,公為之封邑,使田無宇致台與無鹽。晏子對曰:「昔吾先君太公受之營丘,為地五百里,為世國長。自太公至於公之身,有數十公矣,苟能說其君以取邑,不至公之身,趣齊搏以求升土,不得容足而寓焉。嬰聞之,臣有德益祿,無德退祿,惡有不肖父為不肖子,為封邑以敗其君之政者乎!」遂不受。
新字:晏子相斉,衣十升之布,食脱粟之食,五卵、苔菜而已,左右以告公,公為之封邑,使田無宇致台与無塩。晏子対曰:「昔吾先君太公受之営丘,為地五百里,為世国長。自太公至於公之身,有数十公矣,苟能説其君以取邑,不至公之身,趣斉搏以求升土,不得容足而寓焉。嬰聞之,臣有徳益禄,無徳退禄,悪有不肖父為不肖子,為封邑以敗其君之政者乎!」遂不受。
書き下し
晏子斉に相たり、十升の布を衣、脱粟の食を食らい、五卵、苔菜のみ。左右以て公に告ぐ。公之が為に邑を封じ、田無宇をして台と無塩とを致さしむ。晏子対えて曰く、「昔吾が先君太公、之を営丘に受け、地を為すこと五百里、世国の長たり。太公より公の身に至るまで、数十公有り。苟くも能く其の君を説ばしめて以て邑を取らば、公の身に至らず、斉を趣り搏ちて升土を求め、足を容れて寓するを得ざらん。嬰聞く、臣に徳有らば禄を益し、徳無くんば禄を退くと。悪くんぞ不肖の父の不肖の子の為に、封邑を為して以て其の君の政を敗る者有らんや」と。遂に受けず。
現代語訳
晏子は斉の宰相として、十升の粗い布を着て、玄米のご飯を食べ、卵五個と苔菜だけの食事をしていました。側近がそれを公に告げました。公は晏子のために封邑を設け、田無宇に台と無塩の地を届けさせました。晏子は答えました。「昔、わが先君の太公は営丘を受け、五百里の地を得て、代々の国の長となりました。太公から公の御代まで、数十代の君がいます。もし君を喜ばせて邑を取ることが許されるなら、公の御代に至るまでもなく、斉の地は奪い合われて、わずかな土地を求めても、足を置いて身を寄せる場所さえ得られなかったでしょう。私はこう聞いています。臣に徳があれば禄を増やし、徳がなければ禄を退けると。どうして、不肖の父が不肖の子のために封邑を設け、その君の政治を損なうようなことがありましょうか。」こうして受けませんでした。
解説
この章句が説くこと
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