正法眼蔵随聞記 / 巻六
示して云く、帝道の故實の諺に云く、虚襟に非ざれば忠言をいれずと、云心は、己見を存ぜずして、忠臣の言ばに隨て、道理にまかせて帝道を行はるゝなり、衲子の學道は用心故實も亦かくのごとくなるべし、わづかも己見を存せば、師の言ば耳に入ざるなり、師の言ば耳に入ざれば、師の法を得ざるなり、只法門の異見を忘るゝのみにあらず、世事及び飢寒等を忘れて、一向に身心を清めて聞く時、親く聞得るなり、かくのごとく聞く時は、道理も不審も明らめらるゝなり、眞實の得道と云ふは、從來の身心を放下して、只直下に他に隨ひゆけば、卽ちまことの道人となるなり、是れ第一の故實なり
新字:示して云く、帝道の故実の諺に云く、虚襟に非ざれば忠言をいれずと、云心は、己見を存ぜずして、忠臣の言ばに随て、道理にまかせて帝道を行はるゝなり、衲子の学道は用心故実も亦かくのごとくなるべし、わづかも己見を存せば、師の言ば耳に入ざるなり、師の言ば耳に入ざれば、師の法を得ざるなり、只法門の異見を忘るゝのみにあらず、世事及び飢寒等を忘れて、一向に身心を清めて聞く時、親く聞得るなり、かくのごとく聞く時は、道理も不審も明らめらるゝなり、真実の得道と云ふは、従来の身心を放下して、只直下に他に随ひゆけば、即ちまことの道人となるなり、是れ第一の故実なり
書き下し
示して云く、帝道の故実の諺に云く、虚襟に非ざれば忠言をいれずと、云心は、己見を存ぜずして、忠臣の言ばに随て、道理にまかせて帝道を行はるゝなり、衲子の学道は用心故実も亦かくのごとくなるべし、わづかも己見を存せば、師の言ば耳に入ざるなり、師の言ば耳に入ざれば、師の法を得ざるなり、只法門の異見を忘るゝのみにあらず、世事及び飢寒等を忘れて、一向に身心を清めて聞く時、親く聞得るなり、かくのごとく聞く時は、道理も不審も明らめらるゝなり、真実の得道と云ふは、従来の身心を放下して、只直下に他に随ひゆけば、即ちまことの道人となるなり、是れ第一の故実なり
現代語訳
示して言われた。帝道の心得の諺に言う、襟を虚しくしなければ忠言は入らない、と。その心は、自分の見解を抱かずに、忠臣の言葉に従い、道理に任せて帝の道を行われるということである。雲水の学道も、心得や故実がまたこのようであるべきである。わずかでも自分の見解を抱けば、師の言葉が耳に入らない。師の言葉が耳に入らなければ、師の法を得られない。ただ法門についての異なる見解を忘れるだけでなく、世事や飢え寒さなども忘れて、ひたすら身心を清めて聞く時、親しく聞き取れるのである。このように聞く時は、道理も不審も明らかになるのである。真実の得道というのは、従来の身心を放り捨てて、ただ直ちにその場で他に随ってゆけば、そのまま真実の道の人となるのである。これが第一の故実である。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、当世学道する人、多分法を聞く時、先づ能く領解する由を知られんと思ひ、答の言ばのよからん様を思ふほどに、聞くことばが耳を過すなり、総じて詮する処道心なく吾我を存するゆゑなり、只須く先づ吾我を忘れて、人の云はんことを能く聞得て、後に静に案じて、難もあり不審もあらば、追ても難じ、心得たらば重て師に呈すべし、当座に領する由を呈せんとするは、法を能くも聞得ざるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五一日示して云く、世間の人多く云ふ、某し師の言ばを聞けども我が心に叶はずと、此の言は非なり、知らず其のこゝろいかん、若しは聖教等の道理の、我が心に違背して非なりと思ふか、これは一向の凡愚なり、亦は師の云へる言が我が心に契はざるか、若し然あらばなんぞはじめより師に問ふや、亦日来の情見を以て云か、もししかあらば是れは無始よりこのかたの妄念なり、学道の用心と云ふは、我が心にたがへども、師の言は聖教の言理ならば、全く其に随て本の我見をすてゝあらためゆくべし、此の心が学道第一の故実なり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五世間の人も他にまじはらず、己れが家ばかりにて生長したる人は、心のまゝにふるまひ、己が心を先として、人目をしらす、人の心を兼ざる人は、必ずしもあしきなり、学道の用心も亦かくのことし、衆にまじはり師に順して、我見を立せす、心をあらためゆけば、たやすく道者となるなり、学道は先づすべからく貧を学すべし、名をすて利をすて、一切諂らふことなく、万事なげすつれば必ずよき道人となるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻六初心学道の人は、只衆に随ふて行道すべきなり、はやく用心故実等を学し知らんと思ふことなかれ、用心故実等のことも、只独り山にも入り、市にもかくれて、行ぜん時あやまりなく、能く知りたるは好きことなり、衆に随ふて行せば道を得べきなり、たとへば船にのりて行くには、我は漕ゆくやうをも知らざれども、よき船師に任せてゆけば、知りたるも知ざるも彼の岸に至るが如し、善知識に随て、衆と共に行じて、私しなければ自然に道人となるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、学道の人参師聞法の時に、能々極めて聞き、重て聞て決定すべし、問ふべきを問はず、云ふべきを云ずして過しなば、必ず我れが損なるべし、師は必ず弟子の問を待て言を発するなり、心得たることをも、いくたびも問て決定すべきなり、師も弟子に好く心得たるかと問て、云ひきかすべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻四亦示して云く、学人の第一の用心は、先つ我見を離るべし、我見を離るゝと云ふは、此の身を執すべからず、設ひ古人の語話を究め、常坐鉄石の如くなりとも、此の身に著して離れずんば、万劫千生にも仏祖の道を得べからす、いかに況や権実の教法、顕密の正教を悟り得たりと云とも、身を執する心を離れずんば、徒らに他の宝を数て自ら半銭の分なし、