正法眼蔵随聞記 / 巻六
示して云く、學道の人參師聞法の時に、能々極めて聞き、重て聞て決定すべし、問ふべきを問はず、云ふべきを云ずして過しなば、必ず我れが損なるべし、師は必ず弟子の問を待て言を發するなり、心得たることをも、いくたびも問て決定すべきなり、師も弟子に好く心得たるかと問て、云ひきかすべきなり、
新字:示して云く、学道の人参師聞法の時に、能々極めて聞き、重て聞て決定すべし、問ふべきを問はず、云ふべきを云ずして過しなば、必ず我れが損なるべし、師は必ず弟子の問を待て言を発するなり、心得たることをも、いくたびも問て決定すべきなり、師も弟子に好く心得たるかと問て、云ひきかすべきなり、
書き下し
示して云く、学道の人参師聞法の時に、能々極めて聞き、重て聞て決定すべし、問ふべきを問はず、云ふべきを云ずして過しなば、必ず我れが損なるべし、師は必ず弟子の問を待て言を発するなり、心得たることをも、いくたびも問て決定すべきなり、師も弟子に好く心得たるかと問て、云ひきかすべきなり、
現代語訳
示して言われた。学道の人は、師に参じて法を聞く時に、よくよく極めて聞き、重ねて聞いて決定すべきである。問うべきを問わず、言うべきを言わずに過ごしてしまえば、必ず自分の損になるであろう。師は必ず弟子の問いを待って言葉を発するのである。心得たことについても、幾度も問うて決定すべきである。師のほうも弟子に、よく心得たかと問うて、言い聞かせるべきである。
解説
遠慮して問わずにおくことを、謙虚さではなく損として片づける。師は問われなければ言わないのだから、口を開かないかぎり何も出てこないという構造が示される。最後に師の側の務めも添えられ、確かめ合う往復として学びが描かれている。
この章句が説くこと
問聞法決定遠慮師弟損
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