正法眼蔵随聞記 / 巻五
一日示して云く、世間の人多く云ふ、某し師の言ばを聞けども我が心に叶はずと、此の言は非なり、知らず其のこゝろいかん、若しは聖教等の道理の、我が心に違背して非なりと思ふか、これは一向の凡愚なり、亦は師の云へる言が我が心に契はざるか、若し然あらばなんぞはじめより師に問ふや、亦日來の情見を以て云か、もししかあらば是れは無始よりこのかたの妄念なり、學道の用心と云ふは、我が心にたがへども、師の言は聖教の言理ならば、全く其に隨て本の我見をすてゝあらためゆくべし、此の心が學道第一の故實なり、
新字:一日示して云く、世間の人多く云ふ、某し師の言ばを聞けども我が心に叶はずと、此の言は非なり、知らず其のこゝろいかん、若しは聖教等の道理の、我が心に違背して非なりと思ふか、これは一向の凡愚なり、亦は師の云へる言が我が心に契はざるか、若し然あらばなんぞはじめより師に問ふや、亦日来の情見を以て云か、もししかあらば是れは無始よりこのかたの妄念なり、学道の用心と云ふは、我が心にたがへども、師の言は聖教の言理ならば、全く其に随て本の我見をすてゝあらためゆくべし、此の心が学道第一の故実なり、
書き下し
一日示して云く、世間の人多く云ふ、某し師の言ばを聞けども我が心に叶はずと、此の言は非なり、知らず其のこゝろいかん、若しは聖教等の道理の、我が心に違背して非なりと思ふか、これは一向の凡愚なり、亦は師の云へる言が我が心に契はざるか、若し然あらばなんぞはじめより師に問ふや、亦日来の情見を以て云か、もししかあらば是れは無始よりこのかたの妄念なり、学道の用心と云ふは、我が心にたがへども、師の言は聖教の言理ならば、全く其に随て本の我見をすてゝあらためゆくべし、此の心が学道第一の故実なり、
現代語訳
ある日示して言われた。世間の人は多く言う、わたくしは師の言葉を聞くけれども、自分の心にかなわない、と。この言葉は非である。分からない、その心はどうなのか。もしくは聖教などの道理が、自分の心に違背していて非であると思うのか。これは一向の凡愚である。あるいは師の言われた言葉が自分の心に契わないのか。もしそうならば、なぜ初めから師に問うのか。あるいは日ごろの思い込みをもって言うのか。もしそうならば、これははるかな昔からの妄念である。学道の心得というのは、自分の心に違っても、師の言葉が聖教の言葉と理であるならば、まったくそれに随って、もとの我見を捨てて改めていくべきである。この心が学道第一の心得である。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、当世学道する人、多分法を聞く時、先づ能く領解する由を知られんと思ひ、答の言ばのよからん様を思ふほどに、聞くことばが耳を過すなり、総じて詮する処道心なく吾我を存するゆゑなり、只須く先づ吾我を忘れて、人の云はんことを能く聞得て、後に静に案じて、難もあり不審もあらば、追ても難じ、心得たらば重て師に呈すべし、当座に領する由を呈せんとするは、法を能くも聞得ざるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五世間の人も他にまじはらず、己れが家ばかりにて生長したる人は、心のまゝにふるまひ、己が心を先として、人目をしらす、人の心を兼ざる人は、必ずしもあしきなり、学道の用心も亦かくのことし、衆にまじはり師に順して、我見を立せす、心をあらためゆけば、たやすく道者となるなり、学道は先づすべからく貧を学すべし、名をすて利をすて、一切諂らふことなく、万事なげすつれば必ずよき道人となるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五われ昔日我が朋輩の中に我見を執して、知識をとふらひける者ありき、我が心に違するをば心得ずと云て、我見にあひかなふをば執して、一生空くすぎて、仏法を会せざりけり、我れそれを見て智発してしりぬ、学道は然あるべからずと、かく思ひて師の言ばに随て、全く道理を得て、其後看経の次でに、或る経に云く、仏法を学せんと思はゞ、三世の心を相続することなかれと、誠に知ぬさきの諸念旧見を記持せすして、次第にあらためゆくべきなりと云ことを、書に云く、忠言逆耳、いふこゝろは、我為に忠有べきことばは必す耳に違するなり、違するとも强ひて随ひ行せは、畢竟して益有べきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、帝道の故実の諺に云く、虚襟に非ざれば忠言をいれずと、云心は、己見を存ぜずして、忠臣の言ばに随て、道理にまかせて帝道を行はるゝなり、衲子の学道は用心故実も亦かくのごとくなるべし、わづかも己見を存せば、師の言ば耳に入ざるなり、師の言ば耳に入ざれば、師の法を得ざるなり、只法門の異見を忘るゝのみにあらず、世事及び飢寒等を忘れて、一向に身心を清めて聞く時、親く聞得るなり、かくのごとく聞く時は、道理も不審も明らめらるゝなり、真実の得道と云ふは、従来の身心を放下して、只直下に他に随ひゆけば、即ちまことの道人となるなり、是れ第一の故実なり
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『正法眼蔵随聞記』巻六示して云く、学道の人参師聞法の時に、能々極めて聞き、重て聞て決定すべし、問ふべきを問はず、云ふべきを云ずして過しなば、必ず我れが損なるべし、師は必ず弟子の問を待て言を発するなり、心得たることをも、いくたびも問て決定すべきなり、師も弟子に好く心得たるかと問て、云ひきかすべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻四亦示して云く、学人の第一の用心は、先つ我見を離るべし、我見を離るゝと云ふは、此の身を執すべからず、設ひ古人の語話を究め、常坐鉄石の如くなりとも、此の身に著して離れずんば、万劫千生にも仏祖の道を得べからす、いかに況や権実の教法、顕密の正教を悟り得たりと云とも、身を執する心を離れずんば、徒らに他の宝を数て自ら半銭の分なし、