正法眼蔵随聞記 / 巻六
初心學道の人は、只衆に隨ふて行道すべきなり、はやく用心故實等を學し知らんと思ふことなかれ、用心故實等のことも、只獨り山にも入り、市にもかくれて、行ぜん時あやまりなく、能く知りたるは好きことなり、衆に隨ふて行せば道を得べきなり、たとへば船にのりて行くには、我は漕ゆくやうをも知らざれども、よき船師に任せてゆけば、知りたるも知ざるも彼の岸に至るが如し、善知識に隨て、衆と共に行じて、私しなければ自然に道人となるなり、
新字:初心学道の人は、只衆に随ふて行道すべきなり、はやく用心故実等を学し知らんと思ふことなかれ、用心故実等のことも、只独り山にも入り、市にもかくれて、行ぜん時あやまりなく、能く知りたるは好きことなり、衆に随ふて行せば道を得べきなり、たとへば船にのりて行くには、我は漕ゆくやうをも知らざれども、よき船師に任せてゆけば、知りたるも知ざるも彼の岸に至るが如し、善知識に随て、衆と共に行じて、私しなければ自然に道人となるなり、
書き下し
初心学道の人は、只衆に随ふて行道すべきなり、はやく用心故実等を学し知らんと思ふことなかれ、用心故実等のことも、只独り山にも入り、市にもかくれて、行ぜん時あやまりなく、能く知りたるは好きことなり、衆に随ふて行せば道を得べきなり、たとへば船にのりて行くには、我は漕ゆくやうをも知らざれども、よき船師に任せてゆけば、知りたるも知ざるも彼の岸に至るが如し、善知識に随て、衆と共に行じて、私しなければ自然に道人となるなり、
現代語訳
初心の学道の人は、ただ衆に従って行道すべきである。早く心得や故実などを学び知ろうと思ってはならない。心得や故実などのことも、ただ独りで山に入り、市に隠れて行う時に誤りがないよう、よく知っているのは好ましいことである。衆に従って行えば道を得られるのである。たとえば船に乗って行く時には、自分は漕ぐやり方を知らなくても、よい船頭に任せて行けば、知っている者も知らない者も向こう岸に至るようなものである。善知識に従い、衆と共に行じて、私を立てなければ、自然に道の人となるのである。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻五世間の人も他にまじはらず、己れが家ばかりにて生長したる人は、心のまゝにふるまひ、己が心を先として、人目をしらす、人の心を兼ざる人は、必ずしもあしきなり、学道の用心も亦かくのことし、衆にまじはり師に順して、我見を立せす、心をあらためゆけば、たやすく道者となるなり、学道は先づすべからく貧を学すべし、名をすて利をすて、一切諂らふことなく、万事なげすつれば必ずよき道人となるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一世人多くは、我はもとより人にもよしと云はれ思はれんと思ふなり、然あれども能くも云はれ、思はれざるなり、次第に我執を捨て知識の言に随ひゆけば、精進するなり、理をば心得たるやうに云て、さはさにあれども我は其事を捨にぬと云て執し好み、修すれば、弥よ沈淪するなり、禅僧の能くなる第一の用心は、只管打坐すべきなり、利鈍賢愚を論せず坐禅すれば、自然によくなるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻四一日参学の次てに示して云く、学道の人は自解を執することなかれ、設ひ会する所ろありとも、若し亦決定よからざる事もやあらん、亦是よりもよき義もやあらんと思ふて、広く知識をも訪ひ、先人の言をも尋ぬべきなり、亦先人の言なりともかたく執する事なかれ、若し是もあしくもやあるらん、信ずるにつけてもと思て、次第にすぐれたる事あらば、其れにつくべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、学道は須く吾我を離るべし、設ひ千経万論を学ひ得たりとも、我執を離れずんば終に魔坑に落つべし、古人の云く、若し仏法の身心なくんば、いづくんぞ仏となり祖と成らんと云云、我を離るゝと云ふは、我が身心を仏法の大海に抛向して、苦しく愁ふるとも、仏法に随て修行するなり、若し乞食をせば人是をわるし、みにくしと思はんずるなれど、かくのごとく思ふ間だは、いかにしても仏法に入得ざるなり、世の情見をすべて忘れて、唯道理に任せて学道すべし、我身の器量を顧み、仏法に契ふまじなんど思ふも、我執を持たる故なり、人目を顧み、人情を憚かるは、即ち我執の本なり、只仏法を学すべし、世情に随ふことなかれ、
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『正法眼蔵随聞記』巻二示して云く、行者先づ心をだにも調伏しつれば、身をも世をも捨ることは易きなり、只言語につけ行儀につけて、人目を思ひて、此の事は悪事なれば人あしく思ふべしとてなさず、我れ此の事をせんこそ仏法者と人は見んとて、事に触て善きことをせんとするも猶ほ世情なり、然あればとて、亦恣いまゝに我が心に任せて悪事をするは一向の悪人なり、所詮悪心を忘れ、我が身を忘れて、只一向に仏法の為にすべきなり、向ひ来らんごとに随て用心すべきなり、初心の行者は、先づ世情なりとも、人情なりとも、悪事をば心に制し、善事をば身に行するが便ち身心を捨つるにて有るなり、