正法眼蔵随聞記 / 巻六
學道の人各々自ら己身を顧るべし、身を顧ると云ふは、吾が此の身心いか樣に持べきぞと顧るべし、然るに衲子はすでに是れ釋子なり、如來の風儀を慣ふべきなり、身口意の威儀は先佛行し來れる作法あり、各々其の儀に隨ふべし、俗すら猶は服は法に應じ、言は行に隨ふべしと云へり、況や衲子は一切私を用ふべからず、
新字:学道の人各々自ら己身を顧るべし、身を顧ると云ふは、吾が此の身心いか様に持べきぞと顧るべし、然るに衲子はすでに是れ釈子なり、如来の風儀を慣ふべきなり、身口意の威儀は先仏行し来れる作法あり、各々其の儀に随ふべし、俗すら猶は服は法に応じ、言は行に随ふべしと云へり、況や衲子は一切私を用ふべからず、
書き下し
学道の人各々自ら己身を顧るべし、身を顧ると云ふは、吾が此の身心いか様に持べきぞと顧るべし、然るに衲子はすでに是れ釈子なり、如来の風儀を慣ふべきなり、身口意の威儀は先仏行し来れる作法あり、各々其の儀に随ふべし、俗すら猶は服は法に応じ、言は行に随ふべしと云へり、況や衲子は一切私を用ふべからず、
現代語訳
学道の人は、それぞれ自ら我が身を顧みるべきである。身を顧みるというのは、我がこの身心をどのように持つべきかと顧みることである。しかるに雲水はすでに釈迦の子である。如来の風儀を習うべきである。身と口と意の威儀には、先の仏が行じて来た作法がある。それぞれその儀に従うべきである。俗人でさえなお、服は法に応じ、言は行に従うべきだと言っている。まして雲水は一切、私を用いてはならない。
解説
反省を、心の中を振り返ることではなく、身心の持ち方を点検することと定義し直している。持ち方には先仏の作法という手本があるので、自分で工夫する必要はない。私を用いるな、という結びが、前段の私曲と一本につながっている。
この章句が説くこと
威儀身心私作法顧みる身
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