正法眼蔵随聞記 / 巻二
示して云く、行者先づ心をだにも調伏しつれば、身をも世をも捨ることは易きなり、只言語につけ行儀につけて、人目を思ひて、此の事は惡事なれば人あしく思ふべしとてなさず、我れ此の事をせんこそ佛法者と人は見んとて、事に觸て善きことをせんとするも猶ほ世情なり、然あればとて、亦恣いまゝに我が心に任せて惡事をするは一向の惡人なり、所詮惡心を忘れ、我が身を忘れて、只一向に佛法の爲にすべきなり、向ひ來らんごとに隨て用心すべきなり、初心の行者は、先づ世情なりとも、人情なりとも、惡事をば心に制し、善事をば身に行するが便ち身心を捨つるにて有るなり、
新字:示して云く、行者先づ心をだにも調伏しつれば、身をも世をも捨ることは易きなり、只言語につけ行儀につけて、人目を思ひて、此の事は悪事なれば人あしく思ふべしとてなさず、我れ此の事をせんこそ仏法者と人は見んとて、事に触て善きことをせんとするも猶ほ世情なり、然あればとて、亦恣いまゝに我が心に任せて悪事をするは一向の悪人なり、所詮悪心を忘れ、我が身を忘れて、只一向に仏法の為にすべきなり、向ひ来らんごとに随て用心すべきなり、初心の行者は、先づ世情なりとも、人情なりとも、悪事をば心に制し、善事をば身に行するが便ち身心を捨つるにて有るなり、
書き下し
示して云く、行者先づ心をだにも調伏しつれば、身をも世をも捨ることは易きなり、只言語につけ行儀につけて、人目を思ひて、此の事は悪事なれば人あしく思ふべしとてなさず、我れ此の事をせんこそ仏法者と人は見んとて、事に触て善きことをせんとするも猶ほ世情なり、然あればとて、亦恣いまゝに我が心に任せて悪事をするは一向の悪人なり、所詮悪心を忘れ、我が身を忘れて、只一向に仏法の為にすべきなり、向ひ来らんごとに随て用心すべきなり、初心の行者は、先づ世情なりとも、人情なりとも、悪事をば心に制し、善事をば身に行するが便ち身心を捨つるにて有るなり、
現代語訳
示して言われた。行者はまず心さえ調え伏せてしまえば、身をも世をも捨てることはたやすいのである。ただ言葉につけ、ふるまいにつけて、人目を思って、この事は悪事であるから人が悪く思うだろうといってなさず、自分がこの事をすればこそ仏法者だと人は見るだろうといって、事に触れてよいことをしようとするのも、やはり世間の情である。そうかといって、また気ままに自分の心に任せて悪事をするのは、まったくの悪人である。要するに、悪い心を忘れ、自分の身を忘れて、ただひたすらに仏法のためにすべきである。向かって来ることごとに随って用心すべきである。初心の行者は、まず世情であっても人情であっても、悪事は心に制し、善事は身に行うのが、すなわち身心を捨てることになるのである。
解説
この章句が説くこと
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『正法眼蔵随聞記』巻四示して云く、善悪と云ふこと定め難し、世間の人は綾羅錦繡をきたるをよしと云ふ、麁布糞掃衣をわるしと云ふ、仏法には此れをよしとし、清しとし、金銀錦綾をわるしとし、けがれたりとす、かくの如く、一切のことにわたりて皆然り、予が如きも、聊か韻声をとゝのへ、文字をかきすぐるゝを、俗人等は尋常ならぬことに云もあり、亦有人は出家学道の身としてかくの如きのこと知れるとそしる人もあり、いづれをか定めて善として取り、悪としてすつへきぞ、
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