正法眼蔵随聞記 / 巻六
白毫の一相、二十年の遺因、歷劫に受用すとも盡べきにあらず、たゞ行道を專らにして、衣食を求むべきにはあらざるなり、身體血肉だによくもてば、心も隨てよくなると、醫方等にも見えたり、いはんや學道の人持戒梵行して、佛祖の行履に任せて身を治むれば心も隨て調ふなり、
新字:白毫の一相、二十年の遺因、歴劫に受用すとも尽べきにあらず、たゞ行道を専らにして、衣食を求むべきにはあらざるなり、身体血肉だによくもてば、心も随てよくなると、医方等にも見えたり、いはんや学道の人持戒梵行して、仏祖の行履に任せて身を治むれば心も随て調ふなり、
書き下し
白毫の一相、二十年の遺因、歴劫に受用すとも尽べきにあらず、たゞ行道を専らにして、衣食を求むべきにはあらざるなり、身体血肉だによくもてば、心も随てよくなると、医方等にも見えたり、いはんや学道の人持戒梵行して、仏祖の行履に任せて身を治むれば心も随て調ふなり、
現代語訳
白毫の一相、二十年の遺因は、幾劫にわたって受け用いても尽きるものではない。ただ行道をもっぱらにして、衣食を求めるべきではないのである。身体や血肉さえよく持てば、心もそれに従ってよくなると、医術の書などにも見えている。まして学道の人が戒を持ち清らかに行い、仏祖の行いに任せて身を治めれば、心も従って調うのである。
解説
仏の白毫から出る功徳が尽きないという話から、身を整えれば心が整うという実際論へ移る。医方を引くのが道元らしく、心を直接どうこうするのではなく、身の持ち方から入るという順序が示される。次の、話す前に三度顧みよという段へつながっていく。
この章句が説くこと
身心持戒行道白毫威儀調
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