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正法眼蔵随聞記 / 巻六

示して云く、道者の行は善行惡行につき、皆おもはくあり、凡人の量る所にあらず、昔し慧心僧都、一日庭前に草を食ふ鹿を、人をして打ち拂はしむ、時に或る人問て云く、師慈悲なきに似たり、草を惜みて畜生を惱ますか、僧都の云く、しかあらず、吾れ若し是を打ち拂はずんば、此の鹿ついに人になれて、惡人に近づかん時は必ず殺されん、この故にうちおふなりと、これ鹿を打ち拂ば慈悲なきに似たれども、內心は慈悲の深き道理かくのごとし、

新字:示して云く、道者の行は善行悪行につき、皆おもはくあり、凡人の量る所にあらず、昔し慧心僧都、一日庭前に草を食ふ鹿を、人をして打ち払はしむ、時に或る人問て云く、師慈悲なきに似たり、草を惜みて畜生を悩ますか、僧都の云く、しかあらず、吾れ若し是を打ち払はずんば、此の鹿ついに人になれて、悪人に近づかん時は必ず殺されん、この故にうちおふなりと、これ鹿を打ち払ば慈悲なきに似たれども、内心は慈悲の深き道理かくのごとし、

書き下し

示して云く、道者の行は善行悪行につき、皆おもはくあり、凡人の量る所にあらず、昔し慧心僧都、一日庭前に草を食ふ鹿を、人をして打ち払はしむ、時に或る人問て云く、師慈悲なきに似たり、草を惜みて畜生を悩ますか、僧都の云く、しかあらず、吾れ若し是を打ち払はずんば、此の鹿ついに人になれて、悪人に近づかん時は必ず殺されん、この故にうちおふなりと、これ鹿を打ち払ば慈悲なきに似たれども、内心は慈悲の深き道理かくのごとし、

現代語訳

示して言われた。道者の行いは、善い行いにも悪い行いにも、みな思うところがあって、凡人の推し量るところではない。昔、慧心僧都が、ある日、庭前で草を食べる鹿を、人に打ち払わせた。その時、ある人が問うて言った、師は慈悲がないように見えます、草を惜しんで畜生を悩ますのですか、と。僧都が言った、そうではない。私がもしこれを打ち払わなければ、この鹿はついに人に馴れて、悪人に近づく時には必ず殺されるだろう。この故に打ち追うのである、と。これは、鹿を打ち払えば慈悲がないように見えるけれども、内心は慈悲の深いこと、この道理のとおりである。

解説

見た目の優しさと、実際に相手を守ることが逆になる例。慧心僧都は源信のことで、鹿を人に馴れさせないために追い払った。優しくしないことが慈悲になりうるという話であり、行いの善悪は外から量れないという冒頭の言葉が、具体で裏づけられている。

この章句が説くこと

慈悲慧心方便見かけ

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