正法眼蔵随聞記 / 巻六
衲子の儀式も亦かくのごとし、處も他所にことならねども、叢林に入りぬれば、必ずしも佛と成り祖となるなり、食も人と同く喫し、衣も同く服し、飢を除き、寒を禦ぐことも、齊しけれども、只髪を剃り、袈裟を着して、食を齋粥にすれば、忽ちに衲子と成るなり、成佛作祖遠く求むべきにあらず、只叢林に入ると入らざるとは、彼の龍門を過ると過ぎざるとの別の如し、
新字:衲子の儀式も亦かくのごとし、処も他所にことならねども、叢林に入りぬれば、必ずしも仏と成り祖となるなり、食も人と同く喫し、衣も同く服し、飢を除き、寒を禦ぐことも、斉しけれども、只髪を剃り、袈裟を着して、食を斎粥にすれば、忽ちに衲子と成るなり、成仏作祖遠く求むべきにあらず、只叢林に入ると入らざるとは、彼の竜門を過ると過ぎざるとの別の如し、
書き下し
衲子の儀式も亦かくのごとし、処も他所にことならねども、叢林に入りぬれば、必ずしも仏と成り祖となるなり、食も人と同く喫し、衣も同く服し、飢を除き、寒を禦ぐことも、斉しけれども、只髪を剃り、袈裟を着して、食を斎粥にすれば、忽ちに衲子と成るなり、成仏作祖遠く求むべきにあらず、只叢林に入ると入らざるとは、彼の竜門を過ると過ぎざるとの別の如し、
現代語訳
雲水の作法もまたこのとおりである。場所も他所と違わないけれども、叢林に入れば、必ず仏となり祖となるのである。食も人と同じく食べ、衣も同じく着て、飢えを除き寒さを防ぐことも等しいけれども、ただ髪を剃り、袈裟を着て、食を斎粥にすれば、たちまちに雲水となるのである。仏となり祖となることを遠くに求めるべきではない。ただ叢林に入るか入らないかは、あの龍門を過ぎるか過ぎないかの違いと同じである。
解説
前段の龍門を、そのまま叢林に置き換えて説く。違いとして挙げられているのは髪と袈裟と食事の三つだけで、いずれも外側の形である。形を整えれば内が従うという、この巻に繰り返し出てくる考えが、成仏という最も遠い話にまで適用されている。
この章句が説くこと
叢林竜門衲子形威儀成仏
関連する章句
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『正法眼蔵随聞記』巻六行道の人居所等を支度し、衣鉢等を調へて、後に行道せんと思ふことなかれ、貧窮の人衣鉢資具にともしくして、調ふを待つほどに、次第に臨終ちかづきよるはいかん、ゆゑに居所を待ち、衣鉢を調へて、後に行道せんと欲せば、一生空く過すべきなり、只衣鉢等はなけれども、在家も仏道は行ずるぞかしと思ひて行ずべきなり、