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正法眼蔵随聞記 / 巻六

大宋國の叢林には、末代なりといへども、學道の人千萬人ある中に、或は遠方より來り、或は郷土より出たるも有り、いづれも多分は貧なり、しかあれどもいまだ貧をうれへとせず、只悟道の未だしきことをのみ愁へて、或は樓上或は閣下に坐して、考妣に喪するが如くにして、一向に佛道を修するなり、

新字:大宋国の叢林には、末代なりといへども、学道の人千万人ある中に、或は遠方より来り、或は郷土より出たるも有り、いづれも多分は貧なり、しかあれどもいまだ貧をうれへとせず、只悟道の未だしきことをのみ愁へて、或は楼上或は閣下に坐して、考妣に喪するが如くにして、一向に仏道を修するなり、

書き下し

大宋国の叢林には、末代なりといへども、学道の人千万人ある中に、或は遠方より来り、或は郷土より出たるも有り、いづれも多分は貧なり、しかあれどもいまだ貧をうれへとせず、只悟道の未だしきことをのみ愁へて、或は楼上或は閣下に坐して、考妣に喪するが如くにして、一向に仏道を修するなり、

現代語訳

大宋国の叢林には、末代とはいっても学道の人が千万人いる中で、あるいは遠方から来た者、あるいは郷里から出た者があり、いずれも大部分は貧しい。それでも、いまだ貧しさを憂えとはせず、ただ悟道がまだであることだけを憂えて、あるいは楼の上、あるいは閣の下に坐って、父母の喪に服するようにして、ひたすら仏道を修めているのである。

解説

道元が実際に見た宋の叢林の様子。憂えの対象が貧しさから悟りの遅さへ入れ替わっている点が肝で、何を憂えているかがその人の向きを示す。考妣に喪するがごとし、という比喩が、修行の切迫を静かに伝えている。

この章句が説くこと

悟道叢林修行

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